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異世界ラストワンマイル〜再配達、承りません〜  作者: もしものべりすと


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第一章 異世界の朝礼

 その朝の点呼は、午前七時五十五分から始まった。

 配島透はアルコール検知器に息を吹き込み、針が「○・○○」を指すのを、運行管理者の前で確認させた。健康状態の申告。日常点検記録簿の提示。当日の天候。道路工事情報。注意事項。

 たった三分の儀式だった。

 その三分が終わると、配島の身体の中で、何かのスイッチが、入った。今日も働ける、と身体が、確認する。安心の儀式だった。

 神宮寺慶介が、運行管理者の補佐として、点呼簿に印を押す係になってから、配島の朝は、いつも、わずかに、息苦しかった。

 神宮寺は、配島が点呼を受ける時、いつも斜めに笑った。

「お前、二十四歳? 二十四歳でその速度だと、こっち側に来るのは無理だろうな」

 こっち側、というのは、運転席ではなく、管理者側のことだった。

 配島は初めの数年、神宮寺の言葉を「指導」だと信じようとした。指導はきつくて当然だ。自分が遅いから言われるのだ。八年経ってもその言葉は変わらなかった。形だけ柔らかくなり、内側だけもっと冷たくなっていった。

 昨夜の飲み会で、神宮寺は配島の隣に座って、耳元で言った。

「俺の代わりはいくらでもいるんだろうけど、お前の代わりはな、もっといくらでもいるんだ」

 配島は曖昧に笑った。手の中で割り箸が、湿っていた。

 はあ、と答えた。はあ、しか言えなかった。

 その朝は、神宮寺が点呼に立ち会わない朝だった。配島は、別の運行管理者に頭を下げ、トラックに乗り、出庫した。

 午前八時。

 午前指定四個。午後指定七個。総計五十三個。

 配島はそれを、いつも通り、淡々と、捌いていった。


 午前九時の二件目を終えて、トラックに戻った時、ふと、配島は運転席で、母のことを、思った。

 母には、月に一度、電話をしていた。郷里は東北の小さな町で、母は一人で暮らしていた。父は、五年前に、亡くなっている。最後に電話したのは、十一日前だった。

「ちゃんと食べてるの」

「ちゃんと食べてるよ」

「無理しないでね」

「うん」

 その「うん」は、いつもの「うん」だった。電話を切る時、配島は、いつも、母に「ありがとう」と言いたかった。何に対する「ありがとう」かは、自分でも、分からなかった。

 言えなかった。

 言ったら、自分が、どこかで、崩れる気がした。

 配島はエンジンをかけ、次の住所を、ナビに、入力した。


 雨は午前十一時の境目で本降りに変わった。

 配島透はワイパーの動きを横目で確かめ、フロントガラス越しに点滅し始めた信号を見た。荷台の段ボールが一個、固定ベルトの隙間で角を潰している。三度目の積み直しの時に押し込んだやつだ。中身は陶器ではない。たしか衣類だった。それでも見ると胸の奥が小さく軋む。

 配島は配送センターを午前八時に出庫してから、すでに四十二個を捌いていた。残り十一個。そのうち午前指定が四個。

「間に合うかな」

 声は独り言にもならなかった。湿気で曇ったサイドミラーの中で、自分の口が動いただけだった。

 ハンドルの右上に貼った小さな付箋には「気合いを入れろ」と書いてある。誰かに見せるためのものではない。三年前、まだ仕事を覚えきれなかった頃に書いて、それから貼り直したまま剥がせなくなった。糊が黄ばみ、字も少しかすれている。

 その付箋は、ある冬の朝、配島が三度連続で午前指定の遅延を出した日に、貼られたものだった。神宮寺は、その朝、配島の点呼簿に判子を押す前に、こう言った。

「お前、自分のことを、ドライバーだと思ってるか」

「思っています」

「思ってない。お前は、ただの、運び屋だ。運び屋が、ドライバーを名乗るのは、烏滸がましい」

 配島はその日の夜、自宅のキッチンで「気合いを入れろ」と書いた付箋をハンドルに貼った。それで何かが変わるはずもなかった。だが、何かを変えたいと思った自分の意思を、毎朝見ておきたかった。それだけだった。


 信号が青に変わった。

 配島はクラッチを繋いで車を出した。雨脚は強くなり、フロントガラスの上半分が一瞬白く煙った。次の交差点を左に入れば、午前指定の最後の二個が片付く。雑居ビルの裏口に着ければ、エレベーターで五階まで上がって手渡しで終わる。それからコインパーキングに戻ってきて昼休憩。十二時三十五分には事務所に戻れる計算だった。

 計算は朝の点呼の時から脳裏に組み上げてある。

 配島の点呼はきっちり毎朝七時五十五分から始まる。アルコール検知器に息を吹き込み、針が「○・○○」を指すのを運行管理者の前で確認させる。健康状態を申告する。日常点検記録簿を提示する。当日の天候、道路工事、注意事項を聞き取る。たった三分か四分の儀式だが、配島はこの時間が嫌いではなかった。むしろ、安心した。

 他の若いドライバーは点呼を面倒くさがる。「形だけだろ」と陰で言う。配島も最初はそう思っていた。八年前、まだセンターに配属されたばかりの頃。

 その頃、運行管理者の補佐として当直に立っていたのが神宮寺だった。

 神宮寺慶介。当時まだ二十八歳。自分より四つ上の先輩SDで、その年に運行管理者試験に受かったばかりの男だった。背が高くて顔立ちは整っていた。銀縁の眼鏡をかけ、髪を几帳面に分けていた。仕事は速かった。要領もよかった。誰よりも荷物を積んで、誰よりも早く帰ってきた。

 その神宮寺は、配島が点呼簿に判子を押す時、いつも斜めに笑った。

「お前、二十四歳? 二十四歳でその速度だと、こっち側に来るのは無理だろうな」

 こっち側、というのは管理者側の意味だった。

 配島は最初の数年、神宮寺の言葉を「指導」だと信じようとした。指導はきつくて当然だ。自分が遅いから言われるのだ。そう思って耐えた。

 だが八年経っても言葉は変わらなかった。

「お前みたいなのが運転席に座ってる限り、うちは底上げできないんだよ」

 昨夜の飲み会で、神宮寺は配島の隣に座って耳元でそう言った。生ビールの泡が彼のグラスの縁に張り付いていた。配島は曖昧に笑った。手の中で割り箸が湿っていた。

「俺の代わりはいくらでもいるんだろうけど、お前の代わりはな、もっといくらでもいるんだ」

 はあ、と配島は答えた。

 はあ、しか言えなかった。

 今朝の点呼で神宮寺は不在だった。別の運行管理者が立ち会った。配島はそれを安心と感じた自分が嫌だった。安心ではない。逃げただけだった。

 雨はますます強くなった。配島は減速した。

 ふと、左前方の歩道で動くものが見えた。

 子どもだった。

 水色のレインコートを着た男の子。三歳か四歳くらいだろうか。歩道の縁石に立って、車道を覗き込むように身を乗り出している。傘も差していない。母親らしき人影は少し奥のほうで、ベビーカーを押しながら別の方向を向いている。

 配島の目はまずブレーキランプを探した。前方の車のものではない。後方から来る大型トラックのほうだ。サイドミラーの中で、二車線の右側を抜こうとしている深緑色のキャブが、こちらの真後ろまで迫っていた。

 子どもの足が縁石を蹴った。

 飛び出した。

 配島の頭の中で、コンマ何秒の間に、いくつもの計算が、並列に動いた。

 自分のトラックの制動距離。

 後方トラックの制動距離。

 子どもの体格と、地面までの高さ。

 歩道までの、自分の身体一つ分の距離。

 配島はそういう計算を毎日していた。荷台の積載順を考える時。配達経路を組み立てる時。客から「いつ届く?」と聞かれた時。配達員の頭の中では、無数の数字が常に同時に転がっている。

 その数字の最後の一行が、彼の身体に、命じた。

 左へ。今すぐ。


 配島は考える前にハンドルを切っていた。フットブレーキを踏み込みながら、左へ。トラックの正面と、子どもの頭の高さの間に、自分の車を捻じ込ませる軌道。

 間に合わない。

 間に合わないと判断した瞬間、配島は左のドアを開けて飛び出した。雨が顔を打った。アスファルトが滑った。配島は両腕で子どもを抱え、自分の体を盾にして歩道側へ放った。

 自分の背中で何かが弾けた。

 光と音が同時に来た。

 肺の中の空気が抜ける感覚。それから、不思議なほど穏やかな静寂。

 配島はうつ伏せに倒れていた。視界の隅で水色のレインコートが歩道の上で起き上がるのが見えた。母親の悲鳴。誰かが走ってくる足音。

 配島は意識の最後の縁で、荷台のことを思った。

 午前指定の二個は、もう間に合わない。

 誰かに引き継がなければ。

 誰かに、と思った時、頭の隅で皮肉な声がした。

 お前の代わりはいくらでもいるんだろう?

 その声に、配島は初めて、そうではない、と思った。理屈ではなかった。声を出す力はもう残っていなかった。けれど胸の真ん中で、はっきりと、そうではないと思った。

 あの段ボールを、午前中に届けるはずだったのは、俺だ。

 他の誰でもない。

 俺だ。

 誰かが彼の上に屈み込んでいた。雨が、その肩と髪を濡らしていた。母親だった。

「あなたのおかげで……あなたのおかげで、息子が……」

 配島の口は動かなかった。動かないなりに、いつもの癖で、否定の形を作ろうとした。いえ、自分なんかただ、と。

 その癖を、最後の力で、配島は止めた。

 止めたつもりだった。

 止められたかどうか、配島には、もう、確かめる術がなかった。

 代わりに、別のことが、頭の隅で、ふと、灯った。

 午前指定の二個。荷台の右奥、青いコンテナの上の段。

 その住所と依頼主の名前と品名と、配達時間帯の指定が、配島の頭の中にまだはっきりと残っていた。

 誰かが、引き継いでくれるだろうか。

 引き継いだ誰かは、その荷物の置き方を、ちゃんと、覚えてくれるだろうか。

 最後に降ろすものを一番奥。最初に降ろすものを一番手前。重量物の下置き。割れ物の縦詰め。

 配島は、自分の頭の中で、最後の一回、その呪文を、唱えた。

 ちゃんと、唱えられた。

 ちゃんと、唱えられたことが、奇妙に、嬉しかった。


 答えは出なかった。視界の白さがゆっくりと広がり、雨の音が遠ざかった。最後に聞こえたのは、午前十一時三十二分を告げる、近所のどこかの教会のチャイムの音だった。

 配島透は死んだ。

 最後の一個を、届けないままで。

 彼の上に倒れていた、午前十一時三十二分の雨の音は、その時誰にも聞こえていなかった。母親の悲鳴はもう止まっていた。代わりに、後方から駆けつけた別の通行人の靴音が、アスファルトの水たまりを踏んでいた。

 空は、灰色のまま、低く、垂れ込めていた。

 配島の指先から、彼の手帳に挟んでいた、午前指定の伝票が、一枚、雨の中に、滑り落ちた。

 伝票の上で、客の住所と、品名と、配達時間帯の指定が、雨に滲み、読めなくなっていった。


 道の向こうの歩道では、母親が子どもの肩を抱きしめていた。子どもは泣いていなかった。ただ、自分を救った男の雨に打たれている背中を、不思議そうに見ていた。

 配島は、その視線を、もう、感じることはなかった。

 しかし、彼の身体の中で、まだ、止まりきっていない何かが、最後に、その子どもに向かって、伝えたがっていた。

 ちゃんと生きて、と。

 誰かに、ちゃんと、見ていてもらえる、人生を、生きて、と。

 その言葉は、口から、出なかった。

 雨の音だけが、配島の身体の上を、流れて、行った。


 彼の意識が完全に閉じる前、ほんの一瞬、奇妙なことが、起きた。

 雨の音が消えた。

 代わりに、誰かの、低い、しかし確かな声が、彼の耳の真ん中で響いた。

「配島透。本日のご体調は」

 配島は、答えようとした。

 答えられなかった。

 声は、続けた。

「血色、なし。声の張り、なし。残念だが、本日は、お疲れさまでした」

 誰の声だったか、配島には分からなかった。

 ただ、その声は、神宮寺の声では、なかった。

 もっと、温かい、もっと、自分自身に、似た声だった。

 ひょっとすると、自分の声だったかもしれない、と、配島は最後に思った。

 もう一度、生まれられるなら。

 もう一度、誰かの目を、見て、名前を、呼べるなら。

 その時こそ、自分は、自分の仕事を、誰かに、ちゃんと、見せたい。

 見せられる、はずだ。

 たぶん。

 配島の意識は、白い光の中に、消えていった。



干し草の匂いがした。

 配島は目を開けた。視界の上半分を木の梁が横切っていた。煤で黒く焼けた太い梁だった。それから黄ばんだ漆喰の天井。狭い窓から差し込む光は朝のものだった。

 配島は身体を確かめるように指を動かした。動いた。腕も動いた。痛みはあったが、それは雨に濡れた朝に運転席で寝てしまった時のような、籠もった鈍さに過ぎなかった。

「気がついたか」

 しわがれた声が右の方から来た。

 配島は首を巡らせた。藁の敷かれた寝台が一つ。その向かいの窓辺の腰掛けに、白髪交じりの老人が座っていた。革のベストを着ている。膝の上で何かの金具を磨いている。鞍の留め金のようなものに見えた。

 顔は皺深く、左の頬骨の下に薄い切り傷の痕があった。目は灰色がかっていた。

 配島は咄嗟に「すみません」と言いそうになった。

 言えなかった。喉が渇いていて、声が裏返った。

「水だ。飲め」

 老人は木の杯を差し出した。配島は両手で受け取って飲んだ。鉱泉のような、わずかに鉄の味のする水だった。

「ここは……」

「ホレス商隊の宿だ。先月から、街道沿いの宿屋を借り上げて、補給拠点に使ってる」

 配島はその言葉のどれもが意味を結ばないことに気づいた。ホレス商隊。街道。補給拠点。それぞれの単語は分かる。だがそれらが組み立てる風景は、自分の知っている風景ではなかった。

「俺は……」

「お前さんは、街道脇の藪の中で倒れていた」老人は金具を一旦置いた。「身一つで、意識がなかった。服装は、ありゃ何だ、見たことのない仕立てだった。脱がして洗ってあるが、おそらくもう着られん」

 配島は自分が今着ているものを見下ろした。粗い麻のシャツ。腰には紐。ズボンは膝までの七分丈で、これも麻だった。靴は見当たらない。素足だった。

 外で馬の嘶きがした。

 馬。

 配島は窓の外を見た。

 石畳ではない。土の道だった。その向こうに木造の二階建ての建物が二棟。その奥に、平原が広がっていた。見渡す限り、車も電線も看板もなかった。

 空の色だけは、地球の空と変わらなかった。

 配島は息を吸った。長く吐いた。

 パニックを起こす予感はあった。だが起こさなかった。

 彼の指先は、無意識に、いつもの動作を始めていた。

 まず腕時計を確かめようとした。腕時計はなかった。

 次にハンドル位置を確かめようとした。ハンドルはなかった。

 最後に、点呼の準備をしようとした。

 点呼。

 その言葉が頭の中で点灯した瞬間、配島の身体は勝手に動いた。彼は寝台の縁に足を下ろし、立ち上がり、老人の前に立った。

「失礼します」

 老人は怪訝な顔をした。

 配島は老人の目を覗き込み、頭を下げ、それからもう一度顔を上げて目線を合わせた。

「おはようございます。お名前を伺ってもよろしいですか」

「は?」

「すみません、本当にすみません、習慣なんです。お名前を伺って、そちらの体調を確認させてください。それで終わります」

 老人は黙って配島を見上げた。彼の灰色の目には、配島の知らない種類の警戒があった。それから老人は、ふと、息を抜くように笑った。

「ガリク。ガリクだ。体調はどこも痛くない。腰だけ、雨の前夜にいつも痛む」

「ガリクさん。ありがとうございます。声の張り、十分です。血色も問題ありません」

 配島は頭を下げ、それから自分が何をしているのかに気づいた。

 顔が熱くなった。

「すみません。本当に、すみません。意味が、分からないですよね」

「分からんな」

 ガリクは笑いを引っ込めて答えた。

「だがお前さん、それを毎朝やってるんだろう」

「……はい」

「悪くない。続けていい」

 配島は、二度、瞬きをした。

 そういう答えを、配島はこれまで人生で受け取ったことがなかった。

 神宮寺は配島の点呼を「形だけ」と言った。同期は「真面目すぎ」と言った。新人時代の同僚は「いいね、いいね」と笑いながら、結局自分はやらなかった。

 この老人だけが、初対面で、それも全く別の世界らしい場所で、悪くない、と言った。

 配島は唇を引き結んだ。それから「ありがとうございます」とだけ言って、再び腰を下ろした。

 ガリクは金具を磨く動作に戻った。

 窓の外で、誰かが大声で何かを呼んでいた。聞き取れない音節だった。だがその音節を、配島の耳は意味のある言葉として処理していた。

「ボル様、東の積み荷の検め、終わりました」と、その声は言っていた。

 配島は耳を疑った。

「ガリクさん、すみません、もう一つだけ。ここは、何という街ですか」

「街じゃない。村だ。ヴェルディン王都から東に四日。ノーレ村という。我々の隊商は、この村の北の宿に陣を張っている」

「ヴェルディン王都」

「そうだ。ヴェルデン王国の王都。お前さん、ヴェルデン王国も知らんのか」

 配島は、知らない、と答えるべきか、知っている振りをすべきか、一瞬迷った。

 迷ったうえで、答えた。

「知りません。本当に、すみません」

「謝るな。気の毒に。記憶でもなくしたか」

「……かもしれません」

 ガリクは納得したような表情で頷いた。

「珍しい話じゃない。街道で野盗に襲われて、頭でも打ったのだろう。ここで世話してやれと、隊商の長が言っている。働けるようなら働け、働けないなら療養しろ。それだけだ」

「働けます」

 答えたのは、考える前だった。

 配島の身体が、勝手に答えた。

 ガリクは少し驚いた顔をして、それからまた笑った。

「気の早い男だ。じゃあ朝食を食ったら、ボル様のところへ行こう」

 朝食は黒パンと、薄いポタージュと、塩漬けの肉の薄切りだった。匂いだけで配島は猛烈な空腹を感じた。半分も食べないうちに胃が縮み、咳き込んだ。ガリクは黙って水を渡した。

「無理に食うな。久しぶりだろう」

「……はい」

 食べ終えてから、配島はガリクに連れられて宿の外へ出た。

 外は朝の冷気の中にあった。村の北側の広場には、十二台の幌付きの大型荷馬車が円形に並べられていた。馬は別の柵の中で水を飲んでいた。御者と思しき男たちが、荷台の縛り紐を点検していた。

 その光景を見た瞬間、配島の頭の中で、何かが点灯した。

 点検。

 縛り紐。

 積み込み順序。

 配島は自分の口が勝手に呟いていたのに気づいた。

「逆順、できてないな」

「あ?」

 ガリクが振り返った。

 配島は慌てて口を閉じようとして、結局、開いた。

「すみません、いえ、その、荷馬車の積み方なんですが、最初に降ろすやつが、奥に入っちゃってませんか」

「お前さん、何を言ってる」

「えっと、一日のうちで、最初に降ろす予定の荷物を一番奥に置くと、そこに辿り着くまでに手前の荷物を全部降ろさないといけないので、効率が悪くなるんです。だから、最後に降ろすものを一番奥、最初に降ろすものを一番手前に積むと……」

 言いながら、配島は自分の声が早口になっているのに気づいた。

 そして、止められなかった。

 ガリクは黙って配島の顔を見ていた。それから、急に低い声で笑った。

「お前さん、本当に記憶がないのか?」

「あの、すみません」

「いや、いいんだ。続けろ。話の続きは、ボル様の前でやれ」

 ガリクは配島の肩を叩き、広場の中央へ歩き出した。

 配島はその後ろを歩きながら、もう一度、空を見上げた。

 地球の空と、本当に同じ青だった。

 だが地球には、こんなに鳥の種類が多くなかった気がする、と彼は思った。



 広場の中央には、藍色のマントを羽織った大柄な男が立っていた。歳は四十半ばだろうか。短く刈った黒髪の中に白いものが混じり、左の耳に銀の環をつけていた。腰の革帯には、革張りの帳簿が三冊と、銀貨の入った巾着が下げられている。彼の前には御者が二人立ち、何やら運賃の計算で揉めていた。

 ガリクが配島を促した。

「ボル様。お話していた、街道で拾った男です」

 ボルと呼ばれた男は御者たちに掌で「待て」と合図し、それから配島の方へゆっくりと身体を向けた。

 目が合った瞬間、配島は背筋を伸ばした。点呼の時の姿勢だった。理屈ではなかった。会社で言うところの所長や本部長を前にした時の身体の癖だった。

「お前か。藪に転がっていたのは」

「はい」

「名前は」

「配島……ハイジマ・トオルといいます」

「ハイジマ」

 ボルは舌の上で名前を転がすように繰り返した。

「変わった響きだな。東の島嶼の出か」

 配島は答えに迷った。

「分からないんです。記憶が、はっきりしなくて」

「ふむ」

 ボルは配島の身体を上から下まで眺めた。

「ガリクから聞いた。お前は、荷の積み方が違う、と言ったそうだな」

「はい。あの、出過ぎたことを言ったかもしれません」

「いい。続けろ」

 配島は唾を飲んだ。

 頭の中で、いつもの作業手順が立ち上がってきた。

 午前指定。午後指定。時間枠なし。重量物の下置き。割れ物の縦詰め。中抜けの可能性。

 配島は近くの荷馬車を指差した。

「あの幌の中、たぶん十二個くらい荷が入ってますよね」

「ああ」

「最初に降ろす場所が、たとえばこの先の村だとすると、その村の荷は今、どこに置いてありますか」

 御者の一人が答えた。

「奥だ。重いから先に積んだ」

「重いから先に、というのは正しいです。ただ、最初に降ろすものを奥に置くと、降ろすたびに他の荷を全部出さなきゃいけなくなります。だから、まず重さよりも、降ろす順番を優先させて、重い荷物の中で最後に降ろすものを一番下、最初に降ろすものを上のほうに置く。順番通りに、奥から手前へ」

 御者は眉をひそめた。

「そうすると、走ってる時に荷が崩れるぞ」

「崩れないように、隙間に小さい荷物や緩衝になる藁束を詰めます。それから、走行中にずれないように、内側からロープで斜めに固定する。横揺れと縦揺れを別々に止めるんです」

 配島はしゃべりながら、地面に小枝で図を描き始めていた。

 ボルとガリクと御者二人が、その図を覗き込んだ。

 配島は説明を続けた。三十秒も話しただろうか。気づくと、彼の周りに七、八人の男たちが集まっていた。

 配島は途中で言葉を止めた。

「すみません。出過ぎたことを」

「黙れ」

 ボルは短く言った。

「続けろ。話を最後まで聞きたい」

 配島は説明を続けた。降ろす場所ごとの色分け、荷札の付け方、荷馬車の中の三次元的な使い方。雨が降った時のための防水油布の使い方。

 気づいた時、太陽は天頂近くまで昇っていた。

 ボルは小枝の図をしばらく睨み、それから配島の顔を見上げた。

「ハイジマ。お前、本当に記憶がないのか」

「自分の名前と、仕事の手順だけは、なぜか覚えています」

「仕事、というのは」

「物を運ぶ仕事です」

 ボルは長く息を吐いた。それから腰の帳簿を一冊取り、開いた。

「私は隊商の長を二十二年やっている。私の親父はその前に三十年やった。荷の積み方一つで運賃が三割変わると、親父が口酸っぱく言っていた。お前の話を聞いて、親父が言いたかったのはこれだったんだろうと、今、初めて分かった気がする」

 ボルは銀貨を一枚、巾着から取り出して配島に放った。

「明日からうちで働け。給金は最初の月、銀貨二枚。働きを見て上げる。寝床は宿の二階。飯は隊商の鍋から取れ。働きが悪ければ即放り出す。文句あるか」

「あ、いえ、その、ありがとうございます」

 配島は頭を下げた。下げてから、自分が今、銀貨二枚という単位で給金を受け取ることに同意したことに気づいた。

 その単位がいくらなのか、彼にはまだ分からなかった。

 その晩、配島は宿の二階の小部屋でガリクと同室になった。

 ガリクは寝る前に、ベッドの脇に置いた革袋から、薄い羊皮紙の束と細い炭の棒を取り出した。彼はそれを枕の下に置いてから、灯りの下で一行だけ書いた。

 配島はその姿を見ていた。

「何を書いているんですか」

「日記みたいなものだ」

「日記」

「俺は若い頃、王国軍にいた。輜重兵の隊にな。物を運ぶ部隊だ。あの頃の習慣で、毎日、隊の状態を一行書く。この馬は健康。この御者は咳をしている。この男は妻と喧嘩した。そんなことだ」

 配島は黙って頷いた。

 ガリクは灯りを消した。

 暗闇の中で、ガリクの声がもう一度した。

「ハイジマ」

「はい」

「お前さん、明日も朝に、あの『点呼』とやらを俺にやってくれるか」

「……いいんですか」

「ああ」

 配島は天井の梁の影を見上げた。雨の音はもうない。代わりに、虫の声が窓の外で続いていた。

「分かりました。明日の朝、必ず」

 ガリクは答えなかった。

 暗闇の中で、配島は自分の指の関節をゆっくり折り曲げた。生きていた。指は動いていた。

 明日の朝、点呼をする相手がいる。

 その事実だけが、彼の身体の真ん中で、灯のように温かかった。

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