第0話 成群Ⅰ
【久我亮と西園寺ルカ】
久我亮は、しばらくその場から動けなかった。
さっきまで教室にいた。
二時間目の途中で、数学の授業を受けていた。
前の席の同級生の背中も、窓の外のグラウンドも覚えている。
ほんの数秒前まで、確かにそこにいたはずだった。
だが今は森だ。
湿った土の匂いがする。
見たことのない木が並び、風が葉を揺らしている。
耳に入るのはその音だけで、人の気配はどこにもない。
「……え?」
思ったより小さい声が出た。
久我は周囲を見渡す。
人影はない。
あるのは木ばかりだ。
「いやいやいや」
笑いそうになる。
夢、という感じではない。
匂いがある。
湿気がある。
靴の裏に落ち葉が張りつく。
妙に現実だった。
久我はポケットを探り、スマホを取り出した。
画面は普通につく。
バッテリーも残っている。
だがアンテナ表示は空だった。
圏外。
一本も立っていない。
久我は空を見上げた。
木が多すぎる。
だが、それだけの問題じゃない気がした。
GPSを開く。
現在地は出ない。
地図も読み込まない。
読み込みの表示だけが虚しく回り続けている。
LINEも開いてみる。
適当にトークを選んで送信してみた。
当然のように失敗した。
「電波ねえじゃん」
小さく呟く。
そのとき。
視界の端に文字が浮かんだ。
【ギフト:未来予見】
自身の危機に関わる出来事について、一秒先の未来を知覚する。
久我はしばらくそれを見ていた。
「……まじ?」
もう一度見る。
同じ文字だ。
名前だけなら、いかにも当たりっぽい。
「1秒って、なんの役に立つのこれ」
半信半疑のまま歩き出す。
その瞬間、木の根に足を取られそうになった。
だが転ぶ直前の映像が、先に頭へ浮かぶ。
久我は反射的に足をずらした。
躓かない。
「あ」
久我は地面を見た。
「……なるほど」
肩をすくめる。
少し考える。
字面だけ見れば派手だが、今のところ出来ることは地味だった。
「いや」
小さく息を吐く。
「ギフトって」
「本格的に訳わからないことになってるな」
日本じゃない。
知らない森どころの話ではない。
久我は髪をかき上げた。
状況は何も分からない。
だが。
一つだけはっきりしていることがある。
一人は嫌だ。
知らない場所。
知らない現象。
知らない能力。
「……とりあえず人探すか」
久我は歩き出した。
木の間を抜ける。
地面は柔らかい。
ところどころに根が出ている。
歩きにくい。
だが未来予見のおかげで、さっきよりはまだましだった。
前方で枝が鳴った。
久我は足を止める。
「……誰かいる?」
数秒。
返事はない。
だが。
もう一度、葉が揺れた。
久我は少しだけ安心する。
人だ。
たぶん。
「おーい」
声を上げる。
「誰かいますかー?」
次の瞬間。
木の間から見知った顔が出た。
同級生の西園寺ルカだった。
髪が乱れている。
制服も少し土で汚れている。
胸の奥の緊張が少し抜けた。
久我は思わず笑った。
「ルカちゃん」
西園寺は目を見開く。
「亮?」
数秒。
お互いに顔を見る。
「よかった。流石に1人はきつかった」
久我は肩の力を抜いた。
西園寺はまだ周囲を見ていた。
落ち着いているようで、
視線は忙しい。
森の奥を警戒している。
「……ここどこか知ってる?」
「知らん」
久我はスマホを見せる。
「電波もない」
西園寺もポケットからスマホを出す。
画面を見て、眉を寄せた。
「ほんとだ」
「圏外」
「GPSも死んでる」
西園寺は森を見渡す。
静かすぎた。
鳥の声もない。
風だけが動いている。
「……なにこれ」
久我は肩をすくめた。
「異世界とか?」
冗談のつもりだった。
西園寺は笑わない。
少しだけ。
間が空いた。
久我は苦笑する。
その反応もまあ分かる。
少し歩く。
それから久我は思い出したように西園寺を見た。
「ところでさ」
「ルカちゃんは出た? ギフト」
西園寺の顔が強張る。
答えない。
久我が眉を上げる。
「ひょっとして、やばいの引いちゃった?」
西園寺はため息をついた。
「そういうあんたのギフトは?」
久我は胸を張る。
「良くぞ聞いてくれました」
少し間を置く。
「俺のギフトはな」
「森で躓かなくなる」
西園寺は足を止めた。
「……なにそれ」
久我は肩をすくめる。
「未来予見っていって名前はすごいんだけどさ」
「一秒先しか見えない」
西園寺が聞き返す。
「一秒?」
「うん」
久我は足元を見る。
「だからまあ」
「木の根に躓かなくなる」
西園寺は少し考えたあと、
「……微妙」
とだけ言った。
久我は笑う。
「だろ?」
そのときだった。
遠くで、誰かの声がした。
二人は同時に顔を上げた。




