第9話「黒薔薇の孤独」
午後の光が、宿の窓から斜めに差し込んでいた。
「本日はお時間をいただき、誠にありがとうございます」
クロイツ侯爵が、愛想のいい笑みで部屋に入ってきた。その後ろに——黒髪の令嬢が続いた。
リーシャ・フォン・ブラックウッド。
六話の夜に一瞬だけ視界に入った、あの黒髪だ。縦ロールの艶やかな髪が肩から胸元へと流れ落ちている。今日は深紅ではなく、黒を基調とした落ち着いたドレスを纏っていた。白磁の肌と黒いドレスのコントラストが際立って、その美しさが余計に目を引く。赤い瞳が、入室した瞬間から部屋の全体を素早く見渡した。
(情報を集めている)
俺はそれを、無表情のまま確認した。
「今日はせっかくですから、お若いお二人にゆっくり話し合う機会を——と思いまして。私めは少し席を外しておりますよ」
侯爵がにこにこしながら言った。
計算された退場だ。
二人きりにして、縁談の話を進めさせる。うまくいけば既成事実に近い状況を作れる。断れば「せっかくの機会を無駄にした無礼な若者」として喧伝できる。どちらに転んでも侯爵に利がある設計だ。
(昨日と同じ手口だな)
「承知しました」
俺は静かに答えた。
侯爵が部屋を出て行く。
扉が閉まった。
エリーゼが俺の斜め後ろに立った。動く気配がない。
「護衛なので同席させていただきます」
にこりと笑いながら言った。有無を言わせない笑顔だった。
リーシャがエリーゼを一瞥した。
(……読んでいる)
俺は内心で確認した。
【感情読取】——ブラックウッド家の令嬢が希少スキルを持つという情報は、王都入りの前に把握していた。貴族の子女のスキルは家格に関わる情報であり、完全な秘密ではない。王都の情報網を持つ者なら、調べれば知り得る。
リーシャがエリーゼから視線を外した。
その目に、何かが揺れた気がした。エリーゼの感情を読んで、何かを感じ取ったのだろう。
そしてリーシャは、俺を見た。
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「あなたには絶対に嫁がない」
開口一番、そう言った。
高慢な、落ち着いた声だった。宣言というより——確認に近い響きだった。
俺は少し間を置いてから、答えた。
「俺も頼んでいない」
リーシャの目が、わずかに細くなった。
一拍、間があった。
「……そういう答え方をするんですね」
「事実を言った」
「侯爵に乗せられてきた令嬢が相手なら、もう少し愛想のいい返し方をするものでは」
「愛想が必要な場面だとは思っていない」
リーシャはしばらく俺を見ていた。
【感情読取】を使っているはずだ。俺の感情を読もうとしている。
(どこまで読める?)
「……一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「あなたは今、この場をどう見ていますか」
探りを入れている。直球だが、それ自体が罠だ。答え方によって、こちらの思惑の深さが測られる。
「侯爵が二つの家を同時に手駒にしようとしている。それだけだ」
リーシャの目が、少し変わった。
「……そう単純に見ているんですか」
「単純な話だろう」
「では聞きますが」リーシャが、わずかに前に出た。「あなたは今、王都で三つの勢力から同時に駒として狙われている。クロイツ派、宰相府、そして——魔法学院。それを全部把握した上で動いている。そうですね?」
部屋の空気が、少し変わった。
エリーゼが俺の後ろで、わずかに息を呑む気配がした。
(……正確だ)
俺は内心で静かに認めた。
三つの勢力。クロイツは派閥への取り込みを狙い、ドルフは恩を売りながら主導権を握ろうとしている。そして魔法学院——セレスティアの動きは純粋な学術的興味に見えるが、魔法学院の最大スポンサーはヴァイス侯爵家だ。研究データの収集が、別の誰かの意図と重なっていない保証はない。
「よく見ている」
俺は静かに言った。
「当然です」リーシャは続けた。「私は【感情読取】で人の本音を読む。クロイツ侯爵が何を考えているか、宰相が何を動かしているか——この王都にいる人間の大半の思惑は、話しかけられた時点で読めています」
「それは有用なスキルだ」
「ええ」リーシャは視線を外さなかった。「だからこそ聞きたい。あなたはクロイツを利用するつもりですか。それとも切り捨てるつもりですか」
「今のところ、どちらでもない」
「どういう意味ですか」
「動く理由ができたときに動く。今はまだその段階じゃない」
リーシャが、少し考えるように間を置いた。
「……それは、今の段階で敵も味方も作らないということですか」
「作る必要がない相手に、作る必要はない」
「では」リーシャの声が、わずかに鋭くなった。「私は今、あなたにとって敵ですか。それとも味方ですか」
俺はリーシャを見た。
赤い瞳が、まっすぐこちらを向いている。
探っている。読もうとしている。
「まだどちらでもない」
「つまり——可能性はある、ということですか」
「そう取るなら、そうだ」
リーシャが、今度は少し長い間を置いた。
手帳を持っていないのに、何かを書き込もうとするような仕草を一瞬した。それから気づいて、手を止めた。
「……あなたは、思ったより話せる人ですね」
「そうか」
「侯爵から『辺境の若い伯爵家嫡男』と聞いていました。もう少し単純な人物を想定していた」
「失礼な想定だな」
「事実に基づいた想定です」リーシャは言った。「ただし——修正が必要でした」
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少し間があった。
エリーゼがそっとお茶を出した。
リーシャが一瞬、エリーゼを見た。【感情読取】を使ったのだろう。何かを感じ取ったような、微妙な表情が一瞬だけよぎった。
「……一つ聞いていいですか」
リーシャがエリーゼに向けて言った。
エリーゼが「はい」と笑顔で答えた。
「あなたは——なぜそんなに素直でいられるんですか」
エリーゼがきょとんとした。
「素直?」
「感情を隠さない。本音を出す。それが当たり前だというように振る舞っている。なぜそれができるんですか」
エリーゼはしばらく考えて——それから、さらっと答えた。
「素直じゃないことの方が難しくないですか? 疲れそうだし」
リーシャの目が、わずかに揺れた。
「疲れそう、と」
「うん。ずっと本音と建前を使い分けてたら、どれが本音かわからなくなりそうで」
リーシャは何も言わなかった。
エリーゼの言葉が、どこかに刺さったのだろう。
【感情読取】で他人の本音を読み続けながら、自分の本音は仮面の奥に隠し続けてきた。それが「疲れる」ことだと——誰かに言われたのは、初めてかもしれなかった。
「……そうですか」
リーシャは静かに言って、お茶に視線を落とした。
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「【感情読取】は」
俺は静かに口を開いた。
「便利なスキルだが——疲れるだろう」
リーシャが、固まった。
一瞬、完全に動きが止まった。
それから、ゆっくりと顔を上げた。赤い瞳が、今度は違う種類の鋭さで俺を見た。
「……なぜそれを知っているんですか」
「王都に来る前に、ブラックウッド家について調べた。令嬢が希少スキルを持つという情報は、調べれば出てくる」
「……スキルを知っているだけなら、そういう言い方はしない」
「そうか」
「『便利だが疲れる』——それは、スキルの仕組みを知っているだけでは出てこない言葉です。なぜそう思ったんですか」
俺は少し間を置いてから、答えた。
「周囲の人間の本音が常に流れ込んでくる。それを遮断できない。お前がそういう目で人を見ているのは——仕草を見ていればわかる」
リーシャが、わずかに眉を動かした。
「仕草を、見ていた」
「部屋に入った瞬間から、全員の感情を読んでいた。エリーゼを見たとき、俺を見たとき、侯爵が出て行ったとき——その都度、反応している。スキルを能動的に使っているんじゃなく、受動的に流れ込んでくるんだろう」
沈黙。
リーシャはしばらく、俺を見ていた。
「……あなたは」
声が、少しだけ違う質感を持っていた。
「なぜそんなことを言うんですか」
「事実だからだ」
「事実を言う必要がどこにあるんですか」
「必要があるかどうかの話じゃない」
リーシャが、立ち上がりかけた。
でも——立てなかった。膝が、微妙に力を失っていた。
「……クロイツとブラックウッドの同盟は」俺は続けた。「お前が望んだものじゃないだろう。侯爵の本音も、お前には全部読めている」
リーシャの表情が、崩れかけた。
高慢な令嬢の仮面の、その下。
「……あなたは」
声が、震えていた。
「なぜ——そんなに、正確なんですか」
「観察しているだけだ」
「観察で、そこまでわかるんですか」
「わかる人間には、わかる」
リーシャがゆっくりと息を吐いた。
窓の外で、風が木の葉を揺らした。
「……私のスキルは」リーシャが静かに言った。「物心ついた頃から、ずっと流れ込んでくるんです。遮断できない。親の本音も、使用人の本音も、侯爵の本音も——全部。それで」
言いかけて、止めた。
「……なんでもありません。失礼しました」
取り繕った。
だがその数秒間の言葉は——本物だった。
俺はその言葉を、黙って受け取った。
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その空気を、侯爵の声が破った。
「そろそろよろしいですか」
扉の向こうから、にこやかな声がした。
計算通りのタイミングだ。
リーシャが立ち上がった。
一秒もかからずに、仮面が戻った。
「今日のところはこれで失礼します」
高慢な、落ち着いた声だった。先ほどの震えが嘘のように消えている。
「縁談の件は——改めてご検討いただければ」
「承知した」
リーシャが一礼して、扉の方へ歩いた。
その途中で——足が、一瞬止まった。
振り返らなかった。
振り返らないまま、一言だけ言った。
「……あなたは、読めない人ですね」
それだけ言って、出て行った。
扉が静かに閉まった。
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エリーゼが、リーシャの去った扉を見ていた。
しばらく、黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「……なんか、思ったより嫌いじゃないかも」
「そうか」
「うん。なんか——すごく疲れてる人だなって思った」
俺は窓の外を見た。
秋の午後の光が、石畳の上に長く伸びていた。
「ねえアシュくん」
「なんだ」
「縁談、本当にどうするの」
少し間があった。
「まだ決める段階じゃない」
「でも」
「ただ」俺は続けた。「あの令嬢は——思ったより、使える頭を持っている」
エリーゼが「使える頭」と繰り返した。
「そういう見方するんだ」
「悪いか」
「悪くはないけど」エリーゼがむっとした顔になった。「もう少し他の言い方があると思う」
「……頭がいい、と言えばよかったか」
「それも大して変わらない」
エリーゼはそう言って、俺の腕を軽く叩いた。
俺は何も言わなかった。
ただ、その感触を、特に避けなかった。
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その夜。
ブラックウッド家が王都に構える屋敷の一室で、リーシャは一人、椅子に座っていた。
灯りが一つ、机の上で揺れている。
(読めなかった)
その事実が、頭の中でずっと回っていた。
生まれてからこの方、【感情読取】が通じなかった人間はいなかった。親も、使用人も、侯爵も、貴族たちも——全員の本音が、望まなくても流れ込んできた。
打算。軽蔑。恐怖。利用。
そういうものを読み続けて、リーシャは「人間とはそういうものだ」と覚えた。本音を見せれば利用される。だから仮面を被る。高慢に振る舞う。近寄らせない。
それが、リーシャの生き方だった。
(なのに)
アシュレイ・フォン・ヴァルナーは——読めなかった。
表層の感情は読める。嘘をついていない。計算をしている。でもその奥にある、本質の部分が——掴めない。
「読めない人ですね」
去り際に言った言葉が、自分の口から出たものだとは思えなかった。
(なぜ言ったんだろう)
リーシャは机の上に頬杖をついた。
「疲れるだろう」
あの言葉が、まだ胸に残っていた。
疲れる。
その通りだ。ずっと疲れている。物心ついた頃から、ずっと。誰かの本音を受け取るたびに、少しずつ何かが削れていくような感覚が続いていた。
それを——初めて言葉にしてくれた人間が、今日会ったばかりの他家の嫡男だった。
「……おかしい」
リーシャは呟いた。
灯りが揺れた。
窓の外に、王都の夜空が広がっていた。
星が出ていた。
(また会うことになるんだろうな)
縁談という名目がある以上、クロイツが諦めない限り、接点は続く。それはリーシャにも、わかっていた。
(次は——負けない)
リーシャは背筋を伸ばした。
椅子から立ち上がり、灯りを消した。
暗闇の中で、赤い瞳だけが静かに光っていた。
カクヨムで先行公開しています。
頑張って執筆していきますので面白い、続きが気になると思っていただけた方は応援して頂けると嬉しいです。




