第10話「それぞれの準備」
「ねえ、忘れてない?」
朝食の途中、エリーゼが俺を見た。
「何をだ」
「王都においしいもの食べに行くって言ったじゃん。召喚状もらった日から約束してたんだけど」
「……覚えてる」
「じゃあ今日行こう。今日は午前中特に予定ないでしょ」
有無を言わせない目だった。
「わかった」
エリーゼがぱっと顔を輝かせた。
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「……ちょっと待って」
宿の入口でエリーゼが言った。
「どうした」
「着替えてくる。騎士服で食べ歩きはさすがに」
エリーゼが部屋に戻った。
俺は入口で待った。
五分ほど経って、エリーゼが戻ってきた。
————思わず、一瞬だけ目が止まった。
淡い緑色のワンピースだった。騎士服とは全く違う、柔らかい布地が体のラインに沿って落ちている。胸元は控えめに開いていて、そこから続くなだらかな膨らみが布越しにはっきりとわかった。腰のくびれが際立って、その下に続くすらりとした脚が、スカートの裾から伸びている。蜂蜜色の髪を今日は下ろしていて、肩から胸元へとさらさらと流れていた。
「……どう?」
エリーゼが少し恥ずかしそうに言った。
「似合ってる」
即答した。
本当のことだった。
「ほんとに?」
「ほんとに」
エリーゼが「えへ」と笑った。
その笑顔に、朝の光が当たっていた。
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王都の中央市場は、朝から人で溢れていた。
石畳の大通りに沿って、無数の屋台と露店が並んでいる。香辛料の匂い、焼いた肉の匂い、甘い焼き菓子の匂いが混ざり合って、独特の空気を作っていた。
「あ、これ! 見て見て」
エリーゼが屋台の前で足を止めた。
木のスプーンに盛られた濃厚なシチューだ。根菜と塩漬け肉を長時間煮込んだらしく、湯気が立ち上っている。
「食べるか」
「食べる!」
エリーゼが二つ頼んだ。俺の分も込みで、さっさと銅貨を出していた。
スプーンを受け取って、一口。
(……悪くないな)
塩加減が丁度いい。根菜の甘みが出ていて、辺境の素朴な煮物とは違う複雑な味わいがある。
「おいしい! アシュくんどう?」
「悪くはない」
「そういう言い方するよね、いつも」エリーゼがくすくすと笑った。「素直においしいって言えばいいのに」
「……おいしい」
エリーゼが目を丸くした。
それから、ぱっと笑った。
「言えるじゃん!」
「……うるさい」
エリーゼはまだ笑いながら、次の屋台に向かって歩き出した。
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その後一刻ほど、エリーゼに引っ張り回された。
焼き菓子。果実水。薄焼きのパンに香草を挟んだもの。甘く煮た木の実を串に刺したもの。エリーゼは目に入るものを片っ端から試したがった。
途中、人混みが激しくなった場面で、エリーゼが自然に俺の腕を掴んだ。
「はぐれると困るから」
そう言って、そのままにした。
ワンピース越しに伝わってくる体温が、じんわりと腕に広がった。人混みを抜けても、エリーゼは腕を離さなかった。俺も、離さなかった。
「アシュくんって実はこういうの嫌いじゃないでしょ」
歩きながら、エリーゼが言った。
「……なぜそう思う」
「だって全部ちゃんと食べてるじゃん。嫌なら断るか黙って持つだけにするでしょ」
「……」
「図星?」
「黙って歩け」
エリーゼが「やっぱり!」と笑った。
俺は視線を前に向けたまま、口元が少しだけ緩むのを感じた。
(敵わないな、本当に)
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ただ——その間も、俺の頭の一部は別のことを処理していた。
屋台の価格帯。客層の服装。値段交渉の声。売れ残っている品目。
(食料の格差が、思ったより大きい)
王都の中央市場は豊かに見える。だがそれは、金を持った層が集まる場所だからだ。市場の外縁部に行くほど、品質は落ちて価格は上がる。庶民が日常的に買う食材は、むしろ辺境より割高だった。
物流の問題だ。
ヴァルナーの領地で作った余剰作物を、適切な経路で王都に流せれば——
「アシュくん?」
エリーゼが顔を覗き込んできた。腕を組んだまま、上目遣いでこちらを見ている。
「また考えてる顔してる」
「……少しな」
「今日は考えない日だよ。食べる日」
「……わかった」
エリーゼが満足そうに頷いて、また歩き出した。
頭の中に刻まれた市場の情報は、消えなかった。
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宿に戻ると、ゴードンが待っていた。
「アシュレイ様。宰相府より書状が届いております」
白い封書だった。
封蝋には宰相府の印が押されている。
俺は封を開いた。
内容を読む。
『神話級スキルの国家的活用に関する会議への出席要請。日時は明後日の午後二刻。場所は宰相府の第一会議室。出席者については別紙をご参照ください。 宰相府 ドルフ・ハイネマン』
別紙を開いた。
出席者リストに目を通す。
(……なるほど)
クロイツ侯爵。フォルスター侯爵。ハルトマン伯爵。その他、クロイツ派と思われる顔ぶれが並んでいる。中立の貴族は一人もいない。
全員、ドルフの手の内にいる人間だ。
「本命が来たか」
俺は書状を折り畳んだ。
エリーゼが横から覗き込んだ。
「宰相から?」
「ああ。会議への出席要請だ」
「……どんな会議?」
「神話級スキルの国家管理案を通すための会議だ。断れば王命への不服従になる。出席すれば多数決で押し切られる」
エリーゼが眉を寄せた。
「……でも行くんでしょ」
「行く。ただ——準備がある」
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その頃。
宰相府の廊下を、ルーカス・ハイネマンは一人で歩いていた。
父の執務室に書類を届ける用があった。いつもの、何でもない用事だ。
執務室の扉の前まで来て——足が止まった。
中から、声が聞こえた。
「——管理案は、予定通り進む」
父の声だ。
もう一人いる。
低い、重みのある声——クロイツ侯爵だ。
「しかし、あの小僧は六話の夜に私の問いを全て返してきました。なかなか食えない」
「知っている」
父の声が、静かに続いた。
「だからこそ、今回は逃げ場を作らない。出席者は全員こちらで固めた。議題も、結論も、最初から決まっている」
「そこまで用意していれば——」
「それでも何か仕掛けてきた場合の話をしている」
一拍、沈黙があった。
「神話級の力を国家管理の名目で縛る。従えば駒として使える。従わなければ——危険人物として排除する。どちらに転んでも、我々に損はない」
ルーカスは、廊下で固まった。
(排除)
その言葉が、頭の中で反響した。
管理案の本質は「制御か排除か」の二択だったのか。
書類を持つ手が、止まっていた。
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自室に戻って、ルーカスは机の前に座った。
しばらく、動けなかった。
父・ドルフ・ハイネマンは有能な宰相だ。それは疑っていない。十五年以上、王都の政治を回してきた。派閥の均衡を保ち、国家の財政を安定させた。政治には妥協が必要で、きれいごとだけでは回らない。それもわかっていた。
だが——
(排除、か)
廊下でアシュレイ・フォン・ヴァルナーと魔力が触れた瞬間を、ルーカスは思い出した。
あの密度。
英雄級に限りなく近い自分の魔力が、あの一瞬だけ——圧倒されたような感覚があった。神話級とはああいうことか、と思った。
あれと正面から戦いたい。
そう思った。素直に、そう思った。
剣でも魔法でも、正面から挑んで、正面から超えたい。
(だから)
父の回りくどいやり方で、あの男が潰されるのは——俺が、許さない。
ルーカスは立ち上がった。
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宰相府の書庫は、ルーカスにとって馴染みの場所だった。
幼い頃から父に連れられてここに来た。書類の読み方を教わった。宰相府の手続きと規定を、人より早く覚えた。
その知識が、今日は別の用途に使われることになる。
ルーカスは棚から今回の会議に関する手続き書類を引き出した。
丁寧に、一枚一枚めくっていく。
(あった)
会議の招集に際して「王命の名義」が使われている。だが王命を使うためには、国王陛下の直接の裁可が必要だ。裁可を証明する文書は、必ずこの書類の末尾に添付されていなければならない。
ルーカスは最後のページを確認した。
添付書類、なし。
(やはり)
王命の名義だけを借りて、国王の実際の裁可は取っていない。
父は「誰も確認しない」と思ったのか。あるいはわかっていて一枚だけ手を抜いたのか。いずれにせよ——これは手続き上の明確な瑕疵だ。
ルーカスは羽根ペンを取った。
羊皮紙に、指摘事項を書き出す。どの条項に違反しているか。何の文書が欠けているか。それを誰が確認すれば効力を持つか。簡潔に、正確に。
書き終えて、封書に入れた。
宛先を書く。
ヴァルナー伯爵家嫡男、アシュレイ・フォン・ヴァルナー。
最後に一行だけ添えた。
『使えると思うなら使え。 ルーカス・ハイネマン』
封書を閉じて、使者を呼んだ。
渡しながら、ルーカスは思った。
これで父との関係が変わるかもしれない。
それでも——間違ったことをしたとは、思わなかった。
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昼過ぎ、セレスティアが宿に来た。
「追加の検証をしたいのですが——」と言いかけて、俺が机の上に広げていた書状を見た。
「……宰相府からですか」
「ああ。会議への招集だ」
セレスティアが書状を手に取り、黙って読んだ。
読み終えて、顔を上げた。
「この会議の法的根拠は脆弱です」
「そうか」
「王命の名義が使われていますが——魔法学院の規定では、神話級スキルの管理に関する議決には、魔法学院の代表者の同席が必要とされています。その手続きが踏まれていない」
「それを、会議の場で正式に異議として提出できるか」
セレスティアが俺を見た。
しばらく間があった。
「……できます」
「頼む」
セレスティアが手帳に何かを書き込んだ。それから、顔をわずかに赤くして言った。
「……研究対象を失うわけにはいきませんから。あくまで研究上の理由です」
「わかっている」
「本当にわかっていますか」
「わかっている」
セレスティアが「……そうですか」と言って、手帳を閉じた。
帰らなかった。そのまま机の向かいに座って、別の書類を読み始めた。
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夕方、使者が来た。
「ヴァルナー卿宛てに、書状でございます」
差出人の名を見て——俺は一瞬、手が止まった。
ルーカス・ハイネマン。
宰相の息子だ。
廊下で一度魔力が触れた。「手合わせ願いたい」と言った。それだけの関係だ。まだ二度しか会っていない。
(なぜ、この男が)
俺は封を開けた。
中身を読む。
手続き上の瑕疵——王命の名義に対する国王の直接裁可が欠けているという指摘が、条項番号付きで簡潔にまとめられていた。内容は正確だ。宰相府の内部書類にしかアクセスできない情報だ。
そして最後の一行。
『使えると思うなら使え。』
俺はしばらく、その紙を見ていた。
(……なぜだ)
宰相の息子が、父親の罠の瑕疵を教えてくる。
理由が見えない。利がない。むしろリスクしかない。父に知られれば、ただでは済まないはずだ。
(廊下での魔力か)
思い当たる節は、一つしかない。
あの男は「手合わせ願いたい」と言った。正面から戦いたいと、あの目が言っていた。父の罠で俺が潰されれば、その機会が失われる。
(……そういうことか)
俺は書状を折り畳んだ。
単純な動機だ。
だからこそ——信用できる。
打算や計算からではなく、ただ正面から戦いたいという一点から動いている人間は、裏切らない。前世の会社員経験でそれだけは学んでいた。
これで、三つ揃った。
セレスティアの法的異議。ルーカスの手続き瑕疵の指摘。そして——国王レオナルドからの直接の召喚状という、宰相を経由しない道筋。
「……全部把握してるの?」
エリーゼが横から言った。
「大体は」
「私は何すればいい?」
俺はエリーゼを見た。
「入口で待っていてくれ。それが一番助かる」
エリーゼが少し間を置いた。
「……わかった」
それから、俺の袖を軽く引いた。
「絶対無事で出てきてね」
声が、いつもより低かった。
笑顔だったが、目が真剣だった。
俺は短く頷いた。
「ああ」
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翌朝。
宰相府への道を、俺は一人で歩いた。
エリーゼは十歩後ろを歩いている。護衛の位置だ。宰相府の入口まで来たところで、俺は振り返った。
「ここで待っていてくれ」
「うん」エリーゼは頷いた。それから、小声で付け加えた。「……終わったら、また何か食べに行こう」
「……ああ」
俺は前を向いた。
宰相府の扉を開ける。
廊下を歩きながら、俺は今日の全体像を確認した。
ドルフは六話のクロイツより格が上だ。
クロイツは正面から圧力をかけてくる。ドルフは笑顔で近づきながら、気づいた頃には逃げ場がなくなっている。
今日の会議もそうだ。出席者はクロイツ派で固められている。議題は既に決まっていて、それを「確認する」だけの場として設計されている。普通に出席すれば、多数決で押し切られる。
だが——準備はできている。
第一の手札。セレスティアが魔法学院の代表として法的異議を提出済みだ。
第二の手札。ルーカスが見つけた王命の名義に対する裁可の欠落。これを会議の場で指摘すれば、ドルフは一時停止せざるを得ない。
第三の手札。国王レオナルドからの直接の召喚状。宰相を経由せず、国王に直接話を通せる道筋が既にある。
三つを同時に出す。
(問題は——ドルフがこちらの手を読んでいた場合だ)
廊下の角を曲がった。
突き当たりに、扉が見えた。
「第一会議室」と刻まれた木の表札がある。
俺は扉の前で一瞬だけ止まった。
深呼吸はしない。
ただ——「行くか」と、心の中だけで呟いた。
扉に手をかけた。
押し開ける。
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広い会議室だった。
長い木の卓を囲むように、十数名の貴族が座っていた。クロイツ侯爵、フォルスター侯爵、ハルトマン伯爵——全員の視線が、扉を開けた俺に向いた。
上座に、ドルフが座っていた。
いつもの笑顔だった。
白髪を撫でつけ、細身の体を椅子に収めて、両手を卓の上で静かに組んでいる。目だけが、笑っていない。
「よくお越しくださいました、ヴァルナー卿」
ドルフが、穏やかな声で言った。
俺は無表情のまま、部屋を見渡した。
着席者は十四名。中立は、いない。
俺は静かに歩いて、指定された席に着いた。
ドルフの正面だった。
「では——始めましょうか」
ドルフが微笑んだ。
俺はその笑顔を、まっすぐに見返した。
カクヨムで先行公開しています。
頑張って執筆していきますので面白い、続きが気になると思っていただけた方は応援して頂けると嬉しいです。




