第27話「銀白の三日間」
翌日。
王都の市場は朝から人が多かった。屋台が並んで、野菜、果物、肉、革製品。どこかで香辛料を炒める匂いがした。人の波をライが歩くと、自然と道が開いていく。
「やっぱり気持ちいいね」とエリーゼが言った。
「そういう目的ではない」
串焼きの屋台の前でライが止まった。肉を炙る匂いが漂っている。アシュレイの方を見た。
「欲しいのか」
ライが視線を外した。
「欲しいんだろ」
答えなかった。もう一本買って、ライの前に差し出した。少し間があってから受け取った。
セレスティアが横で見ていた。「ちゃんと食べるんだ」と言った。
「当たり前だ」
「魔物が人の食べ物を食べる記録、ほとんどないんだけど」とセレスティアがメモを取り始めた。
「やめてください」とエリーゼが言った。
菓子屋の前でセレスティアが「ここ」と言って立ち止まった。エリーゼが先に入って、セレスティアが続いた。アシュレイとライが外で待った。
しばらくして二人が出てきた。エリーゼがアシュレイに小さな焼き菓子を渡してきた。
「アシュくんにも」
「いい」
「食べて」
受け取った。セレスティアが「アシュレイって甘いもの食べるの?」と聞いた。エリーゼが「食べるよ。顔には出ないけど」と即答した。
「余計なことを言うな」
セレスティアが少し笑った。
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その時だった。
人混みの中で、ふと視線を感じた。振り返った。人、人、人。どこかに混じっている誰かを探したが、見つからない。
セレスティアだけが少し表情を変えていた。何も言わなかった。
歩き始めてから、ライの耳が一度だけ後ろを向いた。
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広場の噴水の縁に腰を下ろした。
セレスティアがライの隣に座った。「触っていい?」と聞いた。ライが動かなかった。「……ダメか」と言いかけたところで、ライが少し体を寄せた。
セレスティアが銀白の毛に触れた。「すごい。魔力が——ざわざわする」と言った。
「俺も最初そうだった」
「アシュレイと同じ雷を持ってるから、共鳴してるのかもしれない」
エリーゼが「私は普通だったよ」と言った。二人が同時にエリーゼを見た。
「エリーゼだからだ」とアシュレイが言った。
「どういう意味!」
セレスティアが「悪い意味じゃない」と言いながらも笑っていた。ライが尻尾を一度だけ動かした。
しばらく誰も何も言わなかった。噴水の音だけがしていた。
エリーゼが買ってきた菓子をもう一口食べた。「セレスティアさんって、王都のこと何でも知ってるね」と言った。
「研究者は情報を集めるのが仕事だから」
「職人街の場所とか、美味しい店とか、そういうのも?」
「特に」
エリーゼが「なんか意外」と言った。セレスティアが「よく言われる」と言った。
セレスティアがアシュレイに並んで座った。「ドルフのこと——何かあったら頼って」と小声で言った。
「……ああ」
「珍しく素直」と言った。
「うるさい」
エリーゼが「何の話してるの」と言った。二人が「何でもない」と同時に言った。エリーゼが「怪しい」と言った。ライがエリーゼの隣に移動した。
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一方その頃——王都から馬で二日南、ハイネマン屋敷では。
ルーカスは部屋の中で動かずにいた。
窓から見える空が暗い。廊下に人の気配がする。父が配置した使用人だ。謹慎が始まってから、ずっとそこにいた。耳を澄ますと、時折衣擦れの音がした。
窓の外を見た。月が出ていた。
(今夜だ)
立ち上がった。
【魔力操作の極意】を展開する。魔力を体の表面に薄く這わせて、気配ごと殺す。音も、体温も、存在感も。習得してから何度も練習した技だったが、こういう使い方をする日が来るとは思っていなかった。
ドアをゆっくり開けた。
廊下に使用人がいた。三歩先だった。燭台の火が揺れている。
ルーカスが壁際を歩いた。使用人が欠伸をした。振り返らなかった。そのまま廊下を進んだ。角を曲がる。また使用人がいた。壁に背を付けて息を殺した。使用人が通り過ぎた。
階段を下りた。玄関は使えない。屋敷の構造は頭に入っていた。勝手口から抜けた。厨房の使用人が背を向けて作業をしている。火の前だった。注意がそちらに向いている。その横を音を立てずに通り過ぎた。
外に出た。
夜風が当たった。思ったより冷たかった。思わず息を吸った。
塀を出て、路地に入った。百歩歩いた。二百歩歩いた。追ってくる気配はない。ここまで来れば大丈夫だった。
足を速めた。
向かう場所は決まっていた。ブラックウッド侯爵家。
リーシャとは一度しか話したことがない。社交の場で数回顔を合わせた程度だ。だがあの目は信用できる——感情を読む目ではなく、人を見る目。父のように笑顔の裏に別の顔を持つ人間とは違う。
それに、もう一つ理由があった。
ヴァルナー卿とリーシャの間に婚約の話が出ていることは知っていた。父が情報として持っていた。つまりリーシャは、ヴァルナー卿を動かせる立場にある。
(直接王都に行けば父の耳に入る)
別の手を打つしかなかった。リーシャなら動いてくれる。そういう確信があった。
路地を抜けて、大通りに出た。深夜の王都は静かだった。どこかで犬が鳴いた。遠くで夜警の足音がした。
厩舎で馬を借りた。馬主が「こんな夜中に」と眠そうな顔で言った。金を余分に渡した。それ以上は聞かれなかった。
ブラックウッドまでは馬で二日かかる。夜明け前に王都を出れば、追手が動く前に距離を稼げる。
(間に合えばいい)
馬を走らせながら、ルーカスは夜の道を南へ向かった。
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一日目の夜は街道沿いの宿に泊まった。
目立たないよう平民の格好をしていたが、それでも気を抜けなかった。食事を頼んで、部屋に引き上げた。窓から外を確認した。追ってくる者の影はなかった。
横になったが、眠れなかった。
父の横顔が頭に浮かんだ。密談の夜の、あの微笑み。目が笑っていなかった。ずっとそうだったのかもしれない。いつからそうだったのか、もうわからなかった。
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二日目の夕方、ブラックウッド侯爵家の門に着いた。
名前を告げると、しばらく待たされた。それから「どうぞ」と通された。
応接室にリーシャがいた。
「……来たんですね」と言った。驚いた顔ではなかった。
「頼める人間が他にいなかった」
「話を聞かせてください」
ルーカスは話した。密談の内容を、聞いた通りに全部。王座。帝国との密約。国土の10%。暗殺部隊。
リーシャはずっと黙って聞いていた。表情が動かなかった。
「……全部、聞いたんですね」
「ああ」
しばらく沈黙があった。窓の外に視線が向いた。
「ヴァルナー卿に伝える必要がある」
「頼めるか。俺が直接王都に行けば父に知られる」
リーシャが俺を見た。「……わかった」と言った。「手紙を出す。私の名前は出す。ただし情報源の名前は伏せる——貴方の名前を出せば、宰相家の者が動いたとわかってしまう。ヴァルナー領宛にすれば届くまでに時間がかかる。それでも構わない?」
「構わない。確実に届けばいい」
リーシャが頷いた。「貴方はこの後どうするの」と聞いた。
「しばらくここに置いてもらえるか。父の屋敷には戻れない」
「構わない。父には話す」リーシャが窓の外を見た。「これはブラックウッドにも関わる話だから」
少し間があった。
「ルーカス様」
「何だ」
「……よくここまで来てくれました」
それだけだった。それ以上は言わなかった。でも、それだけで十分だった。
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王都。その夜。
宿の窓から外を見た。
通りに人はいない。普通の夜だった。それでも——いる気がした。建物の影。路地の角。どこかに溶け込むように息を潜めているものがある。
ライが窓際に来て、外を見た。鼻がかすかに動いた。耳がゆっくりと動く。
「お前も感じるか」
ライが鼻を鳴らした。
気のせいではなかった。
練度が高い。セレスティアが言った通りだ。普通の密偵なら、ライがとっくに気づいて反応している。それでも気配を消せているということは——かなりの手練れだ。
首輪が完成するのは明日だ。受け取ったらすぐに王都を出る。
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翌朝。
また、視線を感じた。
市場に出た瞬間からついてくる何かがある。ライが何度か耳を動かした。
「昨日も感じた」とセレスティアが小声で言った。
「……気づいていたか」
「昨日から。尾行に慣れた動きだった。王都の諜報員とも違う——外から来た人間だと思う」
エリーゼが「え、何の話?」と振り返った。
「何でもない」
「絶対何かある」
「心配しなくていい」
「心配しろって言ってるみたいに聞こえるんだけど」
ライがアシュレイを見た。アシュレイがライを見た。
(わかっている)
首輪を受け取ったら、すぐに動く。それだけは決まっていた。
カクヨムで先行公開しています。
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