第22話「銀白の咆哮、母の祈り」
血に濡れた影が、木々の間から現れた。
大きかった。
ライより一回り以上大きい。銀白の毛並みが血で赤く染まっていた。体のあちこちに深い裂傷がある。それでも——足取りが揺るがなかった。地を踏む音が、重く、確かだった。
その瞬間——ライが動きを止めた。
唸りが、消えた。
体の周囲を走っていた雷が、変わった。音が違う。色が違う。今までパチパチと散っていた青白い光が、静かに、深く——揺れていた。
(ライが——反応している)
俺はライを見た。
ライの目が、その影だけを見ていた。
(……母親か)
大狼がワイバーンに向かった。
傷だらけの体から、雷が放たれた。
四体が、一瞬で沈黙した。
エリーゼが息を飲んだ。
ハンスが「あの狼は……」と呟いた。ジークが「……サンダーウルフ。伝説の」と静かに言った。
ライが一歩、母狼に向かって踏み出した。
母狼が低く唸った。
制止だった。
まだ終わっていない——そういう意思が、その唸りにあった。
ライが止まった。
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残り5体を処理した。
母狼が前に出ようとした。だが体が言うことを聞かなかった。一歩踏み出すたびに裂傷から血が滲んだ。足元が赤く染まっていった。
それでも足を止めなかった。
(なぜそこまで)
俺はライを見た。ライが母狼を見ていた。目が離せないようだった。前に行きたいのに、行けない。その葛藤が、体全体に出ていた。
母狼が、またアシュレイとライの前に出ようとした。
「下がっていてくれ」
俺は母狼に言った。
母狼が振り返った。じっとこちらを見た。
それから——一歩、引いた。
雷を放った。ジークの槍が走った。エリーゼが地上の個体を仕留めた。ハンスが怒声を上げながら残りを押さえた。
最後の一体が落ちた。
静寂が来た。
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来なかった。
森の奥から、羽音が聞こえた。
今までと違った。
重さが違う。空気の揺れ方が違う。地面が微かに震えた。
木々の間から、影が現れた。
大きかった。通常のワイバーンの倍はある。鱗の色が違う——黒に近い深緑だ。翼を広げると、空が半分消えるようだった。
群れのボスだった。
群れが全滅したことを察知して、自ら出てきた。
「でかい……」
ハンスが呟いた。
ジークが「通常の攻撃では無理です」と静かに言った。
雷を構えた。
魔力が薄い。左肩が重い。このままでは足りない。単独では仕留めきれない。
その時——ライが隣に来た。
じっとこちらを見た。
「……来るか」
ライの体が光った。青白い光が、みるみる強くなっていく。
ライがアシュレイの手に触れた。
力が、流れ込んできた。
最初は細かった。だがすぐに太くなった。ライの体の奥底から、蓄えていたものが全部出てくるような感覚だった。体の中で二つの雷が出会った。反発しなかった。同じ質だった。同じ源から来ていた。
一つになっていく。
膨大だった。これほどの魔力を一点に収束させたことがなかった。腕が震えた。制御に全神経を注いだ。それだけで体が精一杯になった。呼吸を忘れていた。
母狼が、その姿を見ていた。
ライが——自ら力を預けている。
迷いなく、躊躇なく。初めて屋敷に来た夜から、ミルクをがぶ飲みした朝から、執務室の足元で丸くなった夜から——少しずつ積み上げてきたものが、今この瞬間に全部出ていた。
母狼の目が、静かに変わった。
そうか——とでも言うような目だった。
「全員、下がれ」
誰も動かなかった。
「下がれ」
エリーゼだけが「わかった」と言って下がった。ハンスが騎士団に後退を命じた。
ボスワイバーンが翼を畳んだ。
急降下してくる。
俺とライが、雷を収束させていく——もう少し、もう少しだけ時間が要る。魔力が膨れ上がりすぎて、制御しきれない。全神経を収束に注いでいた。体が動かなかった。
間に合わない。
ボスワイバーンの爪が、俺とライに向かってきた。
その間に——
母狼が、立ち塞がった。
最後の力で、立ち塞がった。
爪が、母狼を裂いた。
同時に——雷が、放たれた。
二つの雷が一つになって、ボスワイバーンを貫いた。
轟音が響いた。
ボスワイバーンが落ちた。
地面が揺れた。
静寂が来た。
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母狼が、地面に倒れた。
ライが駆け寄った。体を寄せた。母狼の体に顔を埋めた。
母狼の胸が、ゆっくりと上下していた。浅かった。
俺はしゃがんだ。
手を伸ばした——止まった。
魔物には回復魔法が効かない。アシュレイの雷ならライには届く。だが——雷の質が違う。母狼には届かない。何度試しても届かない。届けようとするほど、その違いがわかった。
何もできなかった。
ただ、そこにいることしかできなかった。
母狼がライを見た。
静かな目だった。怒りも恨みもなかった。ただ——穏やかだった。戦場で傷だらけになった体で、これほど穏やかな目をしていた。
ライが母狼の体に顔を埋めたまま、動かなかった。震えていた。
青白い光が、母狼の体からゆっくりと溢れ出した。
細く、静かに——ライの体へ流れていく。最後の力が、子に渡っていった。ライの体の光が、少しずつ深くなっていった。母狼の光が、少しずつ薄くなっていった。
ライが受け取った。
全部、受け取った。
「——この子を……頼みます」
俺に聞こえた。
「……ねえ」
エリーゼの声が、隣で震えていた。
「聞こえた? 頼むって」
「……ああ」
母狼の目が——閉じた。
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ライが天を向いた。
「アオオオオーン」
長く、高く、戦場に響いた。
一度では終わらなかった。
また響いた。また響いた。声が枯れるまで、ライは天に向かって鳴き続けた。
悲しみでも怒りでもなかった。それ全部を含んだ、もっと大きな何かだった。
誰も何も言わなかった。
騎士たちが動きを止めていた。ハンスが俯いていた。ジークが目を閉じたまま、微動だにしなかった。
声が、止んだ。
ライが、母狼を見た。
動かなかった。
俺はライに近づいた。しゃがんだ。そのまま、抱きしめた。
ライが震えていた。体の奥から来る震えだった。雷でも寒さでもない——ただ、悲しかった。
エリーゼが隣に来た。何も言わずにライに手を伸ばした。ライが拒まなかった。エリーゼの手が、ライの銀白の毛に触れた。
目から、涙が落ちた。
止まらない。
エリーゼも泣いていた。声を出さずに泣いていた。唇を噛んで、それでも涙が落ちていた。
ライがじっと、母狼を見ていた。
離れなかった。
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ハンスが兜を取った。頭を下げた。
ジークが槍を地に立てた。目を閉じた。
騎士たちが、自然と頭を下げた。
しばらく、誰も動かなかった。
俺は立ち上がった。
「……連れて帰る」
誰も反対しなかった。
母狼を、ヴァルナー領に連れて帰る。どこかに、きちんと眠らせる。
夕陽が、戦場に落ちていた。
とても赤い。
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