第18話「辺境の土と、森の呼び声」
戦闘から数日が経った。
朝の空気は冷たかった。水路沿いの道を歩きながら、状況を確認していく。
老朽化した水門が二箇所。そのうち一箇所は既に機能していない。排水が不十分で湿地化している耕作地が三区画——このまま放置すれば、来年の収穫に影響が出る。
(水路の勾配の問題だ)
前世の土木知識が自動的に動いた。現在の水路は設計が古く、水の流れる方向が均一でない。勾配を調整して水門を修繕すれば、湿地化した三区画は再生できる。
農民の一人が近づいてきた。五十がらみの男だ。
「若様、ここは先代の頃からずっとこうで……毎年諦めてきたんですが」
「変えられる。順番に直す」
男が少し間を置いた。
「……本当ですか」
「やると言ったことはやる」
男が「……そうですか」と言って、また畑に戻っていった。完全な信頼ではない。でも——疑いだけでもなかった。
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次に、耕作放棄地を確認した。
魔物の被害で放棄された土地が、領地の東側に四区画ある。雑草が茂って、見た目は荒れていた。
しゃがんで、土を手で触った。
(死んでいない)
荒れているだけだ。土そのものの質は、悪くない。前世の記憶が動いた——休耕地は適切に管理すれば三年で再生できる。むしろ輪作のサイクルに組み込めば、土壌の回復期間として有効に使える。
地図を広げて書き込み始めた。
区画ごとの土壌状態。再生までの期間の試算。どの順番で着手するか——
「何か食べた?」
エリーゼの声が後ろからした。
「……考えていた」
「どのくらい?」
「三刻ほど」
「ご飯にしよう」
「あと少しだ」
「今すぐ」
俺は筆を止めた。
「……わかった」
エリーゼが「よし」と言った。
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昼食を済ませて、執務室に戻った。
帳簿を広げた。
領地の流通コストを確認していくと、問題がすぐに見えてきた。農民が作物を売るまでに、中間業者が三段階挟まっている。農民が受け取る価格と、最終的に市場で売られる価格の差が、大きすぎる。
(多重下請け構造だ)
前世の会社員時代に何度も見た構図だった。間に人が増えるほど、末端に渡る分け前が減る。解決策は単純だ——直接取引のルートを作る。領地内の流通を整理して、農民と市場の距離を縮める。
カルロスに話を通した。
資料を広げて、問題点と改善案を順番に説明した。
カルロスが腕を組んで聞いていた。
「……やってみろ」
「わかりました」
カルロスが部屋を出た。
資料をまとめ始めると、隣でイザベルが顔を覗かせた。
「あなた、これ見た? アシュくんが考えたやつ」
「……見ている」
「すごくない? こんなこと考えるの、普通じゃないわよ」
「……そうだな」
「もっと言ってあげればいいのに」
「言った」
「やってみろって言っただけじゃないの」
カルロスが「……それで十分だ」と言った。
イザベルが「もう」と笑った。
俺は資料に目を戻した。
(……十分だ、か)
父の言葉の重さを、少し考えた。
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夕方、一人で実験区画に立った。
空が赤くなっていた。
しゃがんで、土に触れた。
黒豆草を鋤き込んでから、まだ日が浅い。結果が出るのはもっと先だ。だが——土の色が、わずかに変わり始めている気がした。気のせいかもしれない。それでも確かに、何かが変わっている。
(まだ途中だ。でも、動いている)
立ち上がった。
風が吹いた。
——その瞬間。
何かを感じた。
「呼ばれている」
声に出してから、自分でも驚いた。言葉にするのが難しい感覚だった。引っ張られるような、共鳴するような。雷の気配に似た何かが——北の森の方から来ていた。
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気づいたら歩いていた。
エリーゼには「少し見回りに行く」とだけ言った。一人で、森の縁に向かった。
夕暮れの森は静かだった。
鳥の声がなかった。風も、木々の間で止まっているようだった。
木々の間を進んでいくと——何かが見えた。
地面に、倒れかけている。
近づいた。
子犬ほどの大きさだった。銀白の毛並み。体の表面に、弱々しく青白い光の筋が走っていた。周囲の地面に、パチパチと小さな雷が不規則に散っている。
その目が——開いた。
低く、唸った。
弱々しいが、威嚇だった。体が限界に近いのに、それでも警戒を止めない。周囲に散る雷が、近づく者を拒んでいた。
(……サンダーウルフ)
この世界の記憶が動いた。文献でしか見たことのない名前だ。世界に数頭しかいないとされている、極希少種。雷を纏う銀白の狼——今は、地面に倒れかけた小さな塊だった。
弱っている。魔力が枯渇しかけているのか——それでも、牙を向くことを止めない。
俺は立ち止まった。
しばらく、黙って見ていた。
それから——右手に、静かに意識を向けた。
派手に出すのではない。ただ、そこにある、という程度に。【天雷の才覚】を、手の表面に薄く纏わせた。
ゆっくりと、手を差し出した。
唸り声が——止まった。
周囲に散っていたパチパチという音が変わった。不規則に飛んでいた電気が、引き寄せられるように俺の手に向かって収束していく。
サンダーウルフの雷と、俺の雷が——触れた。
共鳴した。
一瞬、空気が変わった気がした。
サンダーウルフがこちらを見た。警戒ではない目だった。
それから——全身の力が抜けて、パタリと倒れた。
俺はしゃがんだ。
ゆっくりと抱き上げた。思ったより軽かった。銀白の毛が手に触れた。体の表面を走る青白い光が、ほんの少し、穏やかになった。
「……とりあえず、連れて帰る」
誰もいない森の中で、独り言のように言った。
夕闇が、静かに深くなっていった。
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