第17話「鉄の猪と雷の嵐」
早馬が来たのは、朝の訓練が終わった頃だった。
グライフェン辺境伯からの伝令だった。
「例年の三倍規模のアイアンボアの群れが南下しています。このままではヴァルナー領にも到達します。共同対処をお願いしたい」
執務室で地図を広げた。
アイアンボア——鉄の皮膚を持つ大型の猪型魔物だ。体高は馬ほどある。通常の武器では傷がつかない。有効なのは魔法攻撃か、関節部分への集中攻撃に限られる。
(例年の三倍、か)
記憶を引き出した。アイアンボアは毎年この時期、縄張り争いに負けた群れが餌を求めて南下する。例年であれば百体程度——それが今年は三百体規模になる計算だ。
(三百体が南下せざるを得ない理由がある)
縄張り争いに負けた群れが逃げてくるだけなら、数はそこまで増えない。これほどの規模が一斉に南下するとなれば——北の森で、何かが起きている可能性がある。群れを追い出すほどの、より上位の何かが。
今は考えても仕方がない。まず目の前の三百体を止める。
カルロスが腕を組んで地図を見ていた。
「行くか」
「行きます」
イザベルが執務室の入口に立っていた。
「気をつけて」
いつもと少し違う声だった。柔らかさの奥に、静かな緊張があった。
「……ああ」
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出陣の準備をしていると、廊下でリーシャと鉢合わせした。
「同行します」
「戦闘はできないだろう」
「戦闘はしません。後方で情報整理と指揮補佐をします」
リーシャが続けた。
「【感情読取】で前線の状態をリアルタイムで把握できます。混乱した戦場では、後方の情報処理が生死を分けることもある」
少し間を置いた。
「……わかった」
「私は当然行くよ」
エリーゼが後ろから言った。
「ああ」
「リーシャへの返事より早い」
「お前は護衛だ」
リーシャが小声で言った。
「……それはそれで気になる返答ですね」
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現地に着くと、グライフェンの騎士団が既に展開していた。
五十名ほどが森の縁に沿って配置されている。全員が鎧を着込んで、剣と槍を構えていた。緊張した空気が漂っていた。
前から大柄な男が歩いてきた。
白い髭。熊のような体格。全身に古傷の痕がある。それでも足取りは重くなく、地を踏む音が他の騎士と全然違った。
「ヴァルナーの小せがれか! 噂は聞いとるぞ! 神話級とやら——本物か、見せてもらおうか!」
豪快な声が響いた。
「お初にお目にかかります。アシュレイ・フォン・ヴァルナーと申します。グライフェン辺境伯閣下のご要請、謹んでお受けしました」
ハンスが一瞬、目を丸くした。
それから、大声で笑った。
「堅苦しいな! 俺はそういうのが苦手だ。ハンスでいい、ハンスで。お前も好きに呼べ」
「……では、ハンス卿と」
「それでいい! 気に入った!」
古傷だらけの手が差し出された。握り返した。力が強かった。
「……豪快な方ですね」
リーシャが小声で言った。
「なんか好きかも」
エリーゼが言った。
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状況を確認した。
アイアンボア、推定三百体。森の中から南下中。あと半刻で森の縁に出てくる。
グライフェンの騎士団五十名。ヴァルナーからアシュレイとエリーゼの二名。
「三百か。例年の三倍と聞いていたが、実際に数えると壮観だな」
ハンスが腕を組んだ。
「正面から当たれば被害が出る。何か策はあるか」
「あります」
地形を確認しながら説明した。
アイアンボアは群れで動く。先頭を止めれば後続が詰まる——群れが密集した瞬間を狙う。グライフェンの騎士団が正面で足止め。エリーゼが側面から飛び出してくる個体を処理。俺が密集した群れを雷でまとめて殲滅する。
「騎士団の配置はここがよろしいかと」
リーシャが地図を指差した。
「地形的に群れが自然に絞られます。ここに配置すれば足止めの効率が上がります」
「正しい」
リーシャが少し驚いた顔をした。
間髪入れずに採用された——それが意外だったらしかった。
「令嬢も頭が切れる!」
ハンスが笑った。
「……当然です」
リーシャが返した。
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半刻後——地面が揺れ始めた。
最初は微かな振動だった。それが徐々に大きくなって、やがて足の裏から伝わってくる地響きになった。
森の縁から、最初の一体が出てきた。
大きかった。
体高は馬ほどある。鉄色の皮膚が朝の光を反射して、鈍く輝いていた。二本の牙が前に突き出している。目が小さく、赤い。その後ろから、次々と続いてきた。
地響きが大きくなった。
三百体が森から溢れ出てくる光景は——圧巻だった。
グライフェンの騎士団が正面で受けた。
剣が弾かれた。
槍が滑った。
「鉄の皮膚」は伊達ではなかった。正面攻撃は通らない。それでも騎士たちは崩れなかった。足を踏ん張って、体を張って、群れの進行を遅らせた。
リーシャが後方で目を細めていた。
【感情読取】が自動的に走っていた。五十名分の感情が流れ込んでくる。「恐怖」「焦り」——それでも「崩れない」という気力が、全員の中に共通してあった。
「左翼が押されています」
リーシャが声を上げた。
ハンスが即座に「予備、左へ!」と叫んだ。十名が動いた。左翼の崩れが止まった。
右側面から数体が抜けてきた。
エリーゼが動いた。
正面からではなく、斜めに入った。剣が関節を狙う——膝の内側。一撃。アイアンボアが体勢を崩した。倒れる前に、首の付け根に二撃目を入れた。
沈黙。
続く一体が突っ込んできた。エリーゼが避けながら同じ動きをした。二体目も沈黙した。
群れの前方が詰まった。
後続が押し合って、密集し始めた。
「今だ」
前に出た。
【天雷の才覚】を解放した。
静電気が肌を走った。空気が変わった。雲が——動いた。
第一撃。
密集した群れの中央に雷が落ちた。地面が焦げる匂いが広がった。二十体が沈黙した。
第二撃。
左に広がりかけていた群れに連続して落とした。魔力が腕を伝って放出されるたびに、体の芯が削られていく感覚がある。三十体、沈黙。
(……まだある)
歯を噛み締めた。
第三撃。
右の密集地帯を狙った。精度を上げる。一体ずつ確実に。体の中で何かが軋む音がした。
(魔力が底をつく前に終わらせる)
第四撃——最後の一手だ。
残りの群れを一点に集中して捉えた。
雷が、落ちた。
地面が大きく揺れた。
沈黙。
二百八十体、沈黙。
膝が——折れかけた。
体を支えようとした瞬間、右腕に何かが触れた。
「……っ」
リーシャが、隣に立っていた。
いつの間に前まで来ていたのか——細い腕がアシュレイの右腕を両手で支えていた。白磁の肌が、わずかに震えている。
「……悪い」
「……黙っていてください」
リーシャが前を向いたまま言った。
視線は戦場に向いていた。表情は冷静だった。ただ——支える手に、力が入っていた。
しばらく、そのままでいた。
体の震えが、徐々に収まっていった。
「……もう大丈夫だ」
「……そうですか」
リーシャがゆっくりと手を離した。
エリーゼが戻ってきた。
俺とリーシャを見た。何か言いかけて——黙った。複雑な顔をしていた。
残りがバラけて逃げ始めた。
「エリーゼ、右」
「……任せて」
エリーゼが走った。その背中が、いつもより少しだけ早かった。
「残りは俺がやる!」
ハンスが大声で言って、剣を抜いて追った。
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戦闘が終わった。
ハンスが戻ってきた。全身に返り血を浴びていたが、怪我はなかった。
俺を見た。
「……本物だな」
笑顔ではなかった。純粋な評価の目だった。
リーシャが後方から歩いてきた。
表情は落ち着いていた。
手が、少し震えていた。
「大丈夫か」
「……問題ありません」
「手が震えている」
リーシャが少し間を置いた。
「……慣れていないだけです。五十名分の感情が一度に——少し、処理しきれませんでした」
エリーゼが戻ってきた。
リーシャの隣に来た。
何も言わなかった。ただ、肩を並べた。
リーシャが何も言わなかった。
それでよかった。
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屋敷に戻ると、イザベルが玄関ホールを仕切っていた。
「そこに寝かせて。傷の深さを確認して」
「薬草は東の棚。包帯は多めに用意して」
「この傷は深い。縫合が必要よ」
的確で素早かった。普段の柔らかい声ではなく、迷いのない声だった。負傷した騎士たちが、自然と従っていた。
俺はその光景を、少し離れたところから見ていた。
(……母上も、こういう顔をするんだな)
「……お母様は、すごい方ですね」
リーシャが小声で言った。
「……そうだな」
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ひと段落した頃、ハンスが俺を外に呼んだ。
夕暮れの中で、二人で並んで立った。
「単刀直入に言う」
「はい」
「同盟を組みたい」
少し間を置いた。
「……条件は」
「条件はない。お前が本物だとわかった。それだけで十分だ」
「グライフェン卿と組むことで、当家にデメリットはありますか」
ハンスが豪快に笑った。
「正直な奴だ! 北部辺境伯と伯爵家が組めば、クロイツの連中が面白くない顔をするかもしれんな。それだけだ」
「……受けます」
「話が早い!」
ハンスの大きな手が肩を叩いた。
(……痛い)
表情は変えなかった。
「お前の父親に似てきたな」とハンスが言った。「いや——もっと食えない顔をしとるが」と笑った。
それから少し声を落とした。
「……今日のアイアンボア、三百体はおかしい」
「同じことを考えていました」
「北の森で何かが起きているかもしれん。来年以降、注意が必要だ」
「グライフェン卿の情報があれば共有していただけますか」
「もちろんだ。——だから同盟を組みたいんだ」
ハンスが空を見上げた。
夕陽が、北の森の上に沈みかけていた。
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翌日の朝。
リーシャが帰る日だった。
馬車の前で、短いやり取りをした。
「農業の助言、引き続きよろしくお願いします」
「データを定期的に送ってくれ」
「わかりました」
リーシャが馬車の扉に手をかけた。
乗り込む直前に——振り返った。
「……また来ます」
「ああ」
「リーシャさん、また来てね!」
エリーゼが手を振った。
「……ええ」
リーシャが小さく返した。馬車の扉が閉まった。
車輪が動き始めた。
馬車が遠ざかっていくのを、三人で見送った。
「いい子ね」
イザベルが言った。
「……そうだな」
「まあ!」
イザベルが振り向いた。
「農業の話だ」
「そうは聞こえなかったけど」
イザベルが笑った。カルロスが無言でお茶を飲んでいた。
カクヨムで先行公開しています。
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