第16話「辺境の日常、そして王都の影」
朝の空気は澄んでいた。
「案内してもらえますか」
リーシャが言った。視察という名目だったが——手帳を持った目が、純粋に興味を持っている目だった。
「ああ」
三人で領地に出た。エリーゼが当然のようについてきた。
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城下町の市場は、朝から賑わっていた。
野菜、干し肉、陶器——小さな市場だが、活気がある。リーシャが周囲を静かに観察していた。【感情読取】が自動的に働いている——領民たちの感情が流れ込んでくる。警戒ではなく、好奇心と親しみが混じった目だ。
「おお、若様!」
八百屋の老婦人が声を上げた。
「先日の種の件、おかげで土が随分と変わってきた気がしますよ! 気のせいかもしれませんけど、なんだか土が柔らかくなってきたような」
「気のせいじゃない。続けてくれ」
「へえ、そうですか! ありがたいことで」
老婦人がエリーゼを見た。
「エリーゼお嬢様も! 今日はまたお綺麗で」
「ありがとうございます!」
エリーゼが笑顔で返した。老婦人の目がリーシャに移った。
「……おや、こちらのお嬢様は?」
「ブラックウッド領から視察に——」
エリーゼが言いかけたところで、老婦人の目が輝いた。
「もしや若様の未来の奥様ですかな!?」
「違います」
リーシャが即座に言った。
「違う」
アシュレイも即座に言った。
二人の返事が完全に重なった。
老婦人が「まあまあ、お似合いですよ!」と笑った。
エリーゼが口元を押さえた。笑いを噛み殺している。
「……行くぞ」
アシュレイが歩き始めた。
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水路沿いを歩いていると、農民の男が駆け寄ってきた。
「若様! この前の水路の件、本当に助かりました。去年より水の流れが全然違う。畑の端まで水が届くようになって」
「まだ改善できる箇所がある。来週また確認する」
「話が早くて助かります。若様は言ったことを必ずやってくださるから」
男が頭を下げて戻っていった。
リーシャが手帳に何かを書き込んでいた。
「何を書いている」
「……領民との距離が近い。王都の貴族とは全然違う」
「辺境だからだ」
「そういう問題だけではないと思います」
リーシャが静かに言った。アシュレイは何も返さなかった。
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路地を抜けたところで、子供が三人飛び出してきた。
「若様だ!」
一番小さな子が真っ直ぐに駆けてきた。アシュレイの足元にしがみついた。
「今日も魔法見せてくれる?」
「……ここではできない」
「ちぇー」
子供が不満そうな顔をした。アシュレイが無表情のまま、その頭に手を置いた。子供がにかっと笑った。
リーシャが少し足を止めていた。
「……意外ですね」
「何がだ」
「子供に懐かれている」
「慣れているだけだ」
「……そうですか」
リーシャが手帳に何かを書き込んだ。
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鍛冶屋の前を通りかかったとき、店の中から親父が顔を出した。
「若様! 隣のべっぴんさんは婚約者ですかい!?」
どっと周囲の領民が笑った。
リーシャの頬が、わずかに赤くなった。
「違います」
「仕事中だ」
アシュレイが鍛冶屋を一瞥した。鍛冶屋が「へへ、失礼しました」と引っ込んだ。
エリーゼがアシュレイの隣に来て、小声で言った。
「アシュくん、今のちょっと否定が早くない?」
「……何がだ」
「そのままの意味」
エリーゼが笑って前を向いた。リーシャが「……まったく」と呟いて歩き始めた。
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午後、訓練場にエリーゼの剣の音が響いていた。
リーシャが柵の外から見学していた。
エリーゼの動きは速かった。無駄がない。一つ一つの動作が最短距離を通っている。息が上がっていないのに、木剣の軌跡が空気を切る音だけが鋭く響く。
【感情読取】が走った。
(……邪念がない)
剣に向かう時のエリーゼの感情は、純粋な「集中」だけだった。恐怖も、焦りも、見栄もない。ただ剣と向き合っている。
リーシャが珍しく、手帳を閉じた。
エリーゼが訓練を終えてこちらに来た。
「どうでした?」
「……無駄がない」
「ありがとう。リーシャさんも剣やったりするの?」
「しません。体術は少し嗜みますが」
「見せてよ!」
「……やめておきます」
エリーゼが「なんで? 絶対強いじゃん」と言った。リーシャが「侯爵家の令嬢が訓練場で体術を披露する理由がありません」と返した。エリーゼが「もったいない」と笑った。
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「お茶にしましょう」
イザベルが縁側に三人を呼んだ。
お茶と焼き菓子が並んでいた。三人で縁側に座ると、庭から風が入ってきた。
「領地はどうでした?」
イザベルがリーシャに聞いた。
「……思っていたより、民との距離が近い領地ですね」
「そうでしょう。アシュくんは小さい頃から領民の子供たちと遊んでいたから。エリーゼちゃんと一緒に、毎日のように城下に出ていって」
「……そうですか」
リーシャが手帳を静かに閉じた。
イザベルがエリーゼに向いた。
「今日はどうだった?」
「領民のおじさんたちにリーシャさんが『婚約者ですかい』って言われてたよ」
イザベルが「まあ!」と前のめりになった。
「それでどうなったの?」
「二人同時に『違います』って言ってた」
「まあまあ!」
イザベルが目を輝かせた。リーシャが「……違うんです」と静かに言った。イザベルが「でも顔が赤いわよ」と笑った。リーシャが「……日差しのせいです」と言った。
縁側に日差しはなかった。
エリーゼとイザベルが顔を見合わせて、そっと笑った。
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王都。宰相府の一室。
窓のない部屋だった。
ドルフが椅子に座っていた。いつもの笑顔だった。ルーカスが呼ばれて立っていた。
「お前が動いたな」
ドルフが言った。
「……何のことですか」
「惚けなくていい。手続きの瑕疵をヴァルナー卿に渡したのはお前だ」
ルーカスが黙った。
ドルフの笑顔が、変わらなかった。
「あの神話級は私のものとする。お前は余計なことをするな」
「……父上、あの人は」
「謹慎だ。部屋から出るな」
それだけ言って、ドルフが立ち上がった。
扉が閉まった。
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ルーカスは部屋の窓から王都の空を見ていた。
青かった。
「正しいことをしたのか」
声に出してみた。
答えは——わからなかった。
ヴァルナー卿と正面から戦いたかった。父の罠で潰されるのが嫌だった。それだけのつもりだった。間違っていないと思っていた。今も、そう思っている。
だが。
(父上は「私のもの」と言った)
人間を「もの」と言った。
その言葉が、頭から離れなかった。
父はいつからそういう言葉を使うようになったのか。自分が知らなかっただけで、最初からそうだったのか。
「偉大な宰相」として見てきた父の背中と、今日の父の顔が——重ならなかった。
父は何を守ろうとしているのか。権力か。派閥か。家か。
それとも——何か別の、自分には見えていないものか。
ルーカスは空を見続けた。
答えが出ないまま、日が傾いていった。
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(……いつか、直接聞く日が来るかもしれない)
そう思った。
それが怖かった。
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