第15話「芽吹く前の土」
ブラックウッドの屋敷を出たのは、朝の光が庭園の湿地に差し込む頃だった。
ガゼルが見送りに出てきた。
「またいつでもおいでください。ブラックウッドの門は開いています」
「ありがとうございました」
カイルが一歩前に出た。
「またいつでも」
短く、そう言った。目に、昨日と少し違う温度があった。
リーシャが「視察の日程は追って連絡します」と言った。ビジネスライクな言い方だった。
「楽しみにしてます、リーシャさん!」
エリーゼが手を振った。
リーシャが少し間を置いた。
「……ええ」
小さく、そう返した。
馬車が動き出す前に、その一言を聞いた。
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帰路の街道は、来た時と同じ景色だった。
湿地帯の木々が遠ざかり、徐々に見慣れた街道に変わっていく。
「リーシャさん、思ったより素直だよね」
エリーゼが馬上から言った。
「そうか」
「アシュくんにだけ、だと思うけど」
「……どういう意味だ」
「そのままの意味」
エリーゼが笑って前を向いた。
俺は何も言わなかった。
(……そのままの意味、か)
内心でその言葉を転がして——打ち消した。
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ヴァルナー領に戻ったのは夕方だった。
玄関にイザベルが出てきた。
「おかえり! どうだった?」
「交渉成立した」
「リーシャさんってどんな人でした?」エリーゼより先にイザベルが聞いた。「すごく綺麗な人でした!」とエリーゼが答えた。「まあ」とイザベルが目を輝かせた。
「アシュくんはどう思った?」
「……合理的な人だ」
「それだけ?」
「それだけだ」
イザベルが「お母さんの勘ではそれだけじゃないと思うけど」と笑った。カルロスが無言でお茶を飲んでいた。
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翌日から動いた。
農地の測量。土壌の状態確認。水路の現状把握。
前世の会社員経験でいえば「現状調査フェーズ」だ。何かを変えるとき、まず現状を正確に把握する。感覚ではなく数字で。印象ではなく記録で。
三日かけて、ヴァルナー領の農地の全体像を頭に入れた。
問題は想定通りだった。いや——想定より深刻だった。
連作による土壌の劣化が、予測より進んでいた。水路も古く、排水が不十分な区画がある。農民たちは長年の経験で補ってきたが、それにも限界がある。
(まず話を聞いてもらう必要がある)
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農民たちを集めたのは、四日目の朝だった。
広場に二十人ほどが集まった。年配の者が多い。腕に土の染みがある手で、腕を組んでいる者もいた。
俺は輪作農法の概要を説明した。
麦→マメ科→根菜→休耕のサイクル。黒豆草を使った緑肥。収穫量の試算。
聞いている農民たちの表情は、硬かった。
「先代から続く農法を今さら変えるんですか」
最初に口を開いたのは、五十がらみの男だった。
「変えろとは言っていない。試すと言っている」
「失敗したら誰が責任を取るんですか」
「俺が取る」
「若様は土を触ったことがあるんですか」
「ない。だから数字で話している」
短く返した。
沈黙が広場に広がった。
俺は続けた。
「全部変える必要はない。まず全体の二割の区画だけで試す。その区画が失敗しても、残り八割には影響が出ない。二年間、結果を見てから判断してくれ」
また沈黙があった。
一番後ろに立っていた老人が、ゆっくりと口を開いた。
「……その二割の区画は、どこを使うつもりだ」
俺は地図を広げた。
「ここだ。土壌の劣化が最も進んでいる区画を選んだ。現状のまま続けても収穫量は下がり続ける。試すなら、損失が出てもダメージが最小の場所からだ」
老人が地図を見た。
しばらく黙っていた。
「……そういうことなら」
完全な賛成ではなかった。だが——拒絶でもなかった。
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リーシャが到着したのは、それから五日後だった。
馬車がヴァルナーの屋敷前に止まった。
扉が開いて、リーシャが降りてくる前に——玄関の扉が開いた。
イザベルが出てきた。
一瞬、背筋を伸ばした。
侯爵家の令嬢だ。伯爵家の主婦として、失礼のないようにしなければ——そういう意識が顔に出た。
「ブラックウッド侯爵家のお嬢様が、わざわざいらしてくださったのね。ようこそヴァルナーへ」
リーシャが一礼した。
「お招きいただきありがとうございます。リーシャ・フォン・ブラックウッドと申します」
「いいのよ、堅苦しくしなくて。アシュくんのために来てくださったんでしょう」
「……友人というわけでは——」
「さ、中に入って。お茶を用意するわ」
イザベルがもう笑顔で扉を開けていた。
リーシャが【感情読取】を走らせた。
(……作為がない)
侯爵家の令嬢として扱われることに慣れている。敬意か、警戒か、打算か——何かが必ずある。だがイザベルから流れてくるのは、純粋な「歓迎」だけだった。
それが——どう対応すればいいか、わからなかった。
アシュレイが内心で「母上、少し待て」と思いながら、何も言わなかった。
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午後、農地の視察に出た。
農地に出ると、農民たちの動きが一瞬止まった。
侯爵家の令嬢が農地に立っている——それだけで異質な光景だ。深紅のドレスと黒髪縦ロールは、土と鍬の間に場違いなほど映えた。農民たちが「何事か」という目でこちらを見ている。
リーシャは気にしていなかった。
手帳を開いて、黙って観察している。その視線は鋭く、農地の状態を正確に読み取っていた。
「農民たちが見ています」
リーシャが小声で言った。
「ああ」
「……慣れていないんでしょう。侯爵家の人間が農地に来ることが」
「そうだ。気にするか」
リーシャが少し間を置いた。
「気にしません。必要なら慣れてもらうまでです」
実験区画の前に立った。
まだ何も植わっていない。土を耕して、黒豆草の種を蒔く準備が整っているだけだ。
リーシャが手帳に書き込みながら、土を見ていた。
【感情読取】が自動的に働いていた。
農民たちの感情が、静かに流れ込んでくる。
疲弊。不安。それでも——諦めていない、粘り強い何か。
リーシャが手を止めた。
「どうした」
アシュレイが気づいて聞いた。
「……何でもありません」
リーシャが答えた。
目が、少し違う質感を持っていた。
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農民の一人から質問が来て、アシュレイが対応のために少し離れた。
農地の端で、エリーゼとリーシャが二人きりになった。
エリーゼが「難しい顔してる」と言った。
リーシャがエリーゼを見た。
「……農民たちの感情が、少し流れ込んできて」
珍しく、本音が出た。
「スキルのせいで?」
「……普段は慣れています。ただ、こういう感情は——慣れない」
エリーゼが少し考えた。
「疲れてるけど、諦めてない——みたいな?」
リーシャが少し驚いた顔をした。
「……よくわかりましたね」
「私もここで育ったから」
エリーゼが笑った。
「ずっとそういう人たちを見てきたよ。魔物が来ても、収穫が悪い年でも、みんなそういう顔をしてる。だからアシュくんが変えようとしてるの、私は信じてる」
リーシャがエリーゼを見た。
しばらく間があった。
「……あなたは、こういう場所で育ったんですね」
「うん」
「……そうですね」
小さく、そう言った。
さっきまでと少し違う目で、実験区画の土を見ていた。
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夕食の席でイザベルがリーシャに「お口に合うかわからないけど」と言いながら料理を勧め続けた。リーシャが「……いただきます」と言いながら、少しずつ表情が和らいでいった。
カルロスが「遠いところを」と短く言った。
リーシャが「いえ、勉強になります」と返した。
カルロスが頷いた。それだけだった。
イザベルが「あなた、もう少し話したら?」と言った。カルロスが「……言っただろう」と返した。イザベルが「それだけじゃ足りないでしょ」と言った。
リーシャが【感情読取】でその夫婦のやり取りを読んでいた。
(……仲がいい)
喧嘩ではない。長年の信頼の上に成り立っている、独特のやり取りだ。
侯爵家の食卓では、見たことがない光景だった。
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夜、一人で実験区画に立った。
月明かりの下で、耕したばかりの土が静かに広がっている。
手のひらに、黒豆草の種をひとつまみ乗せた。
小さかった。これが土に入って、根を張って、窒素を固定して——収穫量を変えるまでに、二年かかる。
(芽が出るまでが、一番長い)
前世の記憶が、静かに浮かんだ。
農業も、政治も、人間関係も——全部同じだ。今は何も見えない。土の中で何かが動き始めているとしても、地上には何も出ていない。
それでも——始めなければ、何も変わらない。
種を、土に置いた。
「芽が出るまで、待つか」
誰もいない農地で、独り言のように言った。
夜風が、静かに吹いた。
カクヨムで先行公開しています。
頑張って執筆していきますので面白い、続きが気になると思っていただけた方は応援して頂けると嬉しいです。




