第14話「黒薔薇の屋敷、兄の目」
屋敷の扉が開いた。
玄関ホールは広かった。
石造りの天井が高く、左右に廊下が伸びている。調度品は重厚で、無駄がない。ヴァルナーの屋敷とは違う種類の格式が、空間全体に漂っていた。
そして——正面に、人が立っていた。
黒髪を短く整えた、細身の青年だった。リーシャと同じ赤い瞳だが、鋭さより冷静さが勝っている。貴族服を自然に着こなして、背筋が真っ直ぐに伸びていた。
「ヴァルナー卿、噂はかねがね」
一礼した。笑顔だった。
(測られている)
俺は内心で確認した。
笑顔の奥で、何かが静かに動いている。俺の言葉を、動作を、呼吸のタイミングまで——情報として処理している目だ。
カイル・フォン・ブラックウッド。リーシャの兄だ。
「カイル・フォン・ブラックウッドと申します。妹がお世話になっているようで」
「こちらこそ」
「リーシャさんのお兄さんですか!」
エリーゼが明るく言った。
カイルがエリーゼを一瞥した。一秒もかからなかった。それだけで何かを判断したらしく、視線をこちらに戻した。
「エリーゼ・クロード様ですね。護衛兼幼馴染と聞いています」
「そうです! よろしくお願いします」
「こちらこそ」
カイルが微笑んだ。笑顔は自然だったが——目は、まだ俺を見ていた。
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応接室でガゼル侯爵と対面した。
白髪混じりの黒髪。リーシャと同じ赤い瞳だが、鋭さはなく穏やかな光がある。体格はがっしりしていて、長年の領地経営の重みが顔に刻まれていた。
「よくおいでくださいました。リーシャから話は聞いています」
ガゼルが言った。
「農業改革とはずいぶん地に足のついた話ですな。神話級スキルの保有者が、真っ先に領地の土を考えるとは」
「スキルがあっても、民が食えなければ意味がありません」
ガゼルが少し目を細めた。
「……なるほど」
それだけ言って、お茶を一口飲んだ。
「リーシャが動いたなら、それだけの理由があるはずです。ヴァルナー卿、ブラックウッドを信用してくれていい。——カイル」
「はい」
「案内してやれ」
カイルが一礼した。
俺は立ち上がりながら、カイルの目を確認した。
まだ——判断が出ていない目だった。
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庭園へ向かう廊下を、四人で歩いた。
リーシャが先を歩いている。カイルが少し後ろ。エリーゼが「お屋敷、広いですね」と辺りを見回している。
庭園に出ると、空気が変わった。
湿地帯に続く庭の奥——低い位置に、紫の小さな花が群生していた。
「これが黒豆草です」
リーシャが言った。
群生の手前でしゃがんで、根元を指差した。深いドレスの胸元が、しゃがんだ拍子に視界に入った。
(……見るべきところは別だ)
俺は視線を根元に戻した。
「根の深さが特徴です。通常のマメ科植物の倍以上の深さまで根を張ります。それが根粒菌の密度の高さに繋がっていると考えられていて——」
リーシャが振り返った。
「何を見ていたんですか」
「根が深い」
「……今の説明を聞いていましたか」
「聞いていた。根粒菌の密度が高い理由が、根の深さにあるという話だ」
リーシャが少し間を置いた。
「……正確です」
それだけ言って、立ち上がった。
(……視線が一瞬泳いだことは、否定しない)
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黒豆草の群生を一通り確認して、屋敷に戻った。
応接室の卓に、ヴァルナー領とブラックウッド領の地図が広げられた。
本格的な交渉が、始まった。
俺は輪作農法の全体像を説明した。麦→マメ科→根菜→休耕のサイクル。緑肥として黒豆草を鋤き込む工程。収穫量の試算——現状比で三年後に一・五倍、五年後に二倍を見込んでいる。
リーシャが手帳を広げて書き込んでいた。
「ブラックウッド領でも同じことができますか」
「土質と水路の整備次第だが、可能だ」
「水路の整備、とは」
「ブラックウッド領は湿地帯が多い。水が多すぎる土地では根が腐る。排水の制御が必要だ。そのためには既存の水路のデータが要る」
「水路のデータを対価として求める理由は」
俺は地図に目を落とした。
「ブラックウッド領の水系は南部の広域水系と繋がっている。そのデータがあればヴァルナー領の水路整備に応用できる。それだけじゃない——将来、両領地間の流通経路を作るとき、水路が最も効率的な輸送手段になる。今は農業の話だが、十年後には物流の話になる」
リーシャが手を止めた。
カイルが俺を見た。
「……今の段階で、十年後を考えているんですか」
「考えていない方がおかしい」
カイルがしばらく俺を見た。
それから手帳に何かを書き込んだ。
「……一点、確認させてください」
静かだったが、鋭かった。
「輪作農法の効果が出るまでに何年かかりますか。その間の収穫量の変動はどう補いますか」
「移行期間は二年。その間は実験区画と従来区画を並行して運用する。収穫量の減少リスクを分散させる」
「実験区画の割合は」
「初年度は全体の二割。結果を見て翌年に拡大する」
カイルがしばらく何も言わなかった。
それから、静かに言った。
「……合理的だ」
リーシャがカイルを横目で見た。
兄が認めた——その空気が、室内に静かに広がった。
取引が成立した。黒豆草の継続的な供給と水路データ。それと引き換えに、ブラックウッド領への農業助言。
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「少しよろしいですか」
カイルが俺に声をかけたのは、交渉が終わって間もなくだった。
リーシャとエリーゼが別室へ移動した後——二人きりになった。
カイルが俺を見た。
「妹が王都から手紙を送ったと聞きました。匿名で」
「ああ」
「……読んだとき、どう思いましたか」
俺は少し間を置いた。
「素直だった」
「素直、ですか」
カイルが繰り返した。
「ああ」
カイルがしばらく俺を見た。
目に、初めて温度が宿った。
「……妹をよろしくとは言いません。あれは自分で動ける人間なので」
そう言って——かすかに笑った。
俺は内心で確認した。
(この男は、信用できる)
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夕食は屋敷の食堂で、四人と父ガゼルを囲んで食べた。
エリーゼが蜂蜜の小瓶を大事そうに持っていた。
「養蜂場に連れて行ってもらいました!」
「視察の合間と言ったのに、主客が逆転しました」
リーシャが言った。
「でも楽しかったじゃないですか」
「……否定はしません」
ガゼルが目を細めた。
夕食が終わり、ガゼルがアシュレイに小声で言った。
「娘が、珍しく楽しそうにしている」
「そうですか」
「娘をよろしく頼みますよ」
「……善処します」
ガゼルが「それでいい」と笑った。
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夜、屋敷の廊下でリーシャと鉢合わせした。
「少し話があります」
リーシャが言った。
エリーゼは先に部屋に戻っていた。廊下には二人しかいなかった。
「三年前、父が病に倒れました」
静かな声だった。
「領地経営が一時的に滞った。そのとき——クロイツ侯爵が資金援助を申し出てきました」
「……」
「表向きは友好的な支援です。父も、当時は感謝していた。しかし——返済が済んだ後も、クロイツは証文の写しを持っています。いつでも『あの時の恩を忘れたか』と言える状況を、意図的に作っている」
俺は黙って聞いた。
「それが——ブラックウッドがクロイツ派に名を連ねている理由です」
リーシャが俺を見た。
赤い瞳が、夜の廊下の光の中で静かに光っていた。
「なぜ俺に話すんですか」
「あなたは合理的な人間だから。知っておいた方が交渉の精度が上がる——それだけです」
「……そうか」
「それだけです」
リーシャが繰り返した。
少し間があった。
「証文の写しは、武器にはなりにくい」
俺は静かに言った。
「……どういう意味ですか」
「クロイツがそれを使えば、資金の出所を公にすることになる。あの男の派閥運営の手口が露見する。使えない札だ」
リーシャが俺を見た。
「……つまり」
「お前の家は、思っているほどクロイツに縛られていない」
リーシャが、しばらく動かなかった。
「……そういう見方をするんですね」
「事実を言っただけだ」
また間があった。
「兄様が最近、何か動いているみたいで」
リーシャが窓の外に目を向けた。独り言のような声だった。「詳しくは教えてもらえないんですが。私には関係ない、と」
(カイルが動いている)
俺は内心で確認した。
証文の件——カイルはそれを知っていて、黙っていない。何かを仕掛けている。それがいつ、どういう形で動くのか——まだわからない。
「……」
リーシャがこちらを見た。
何かを言いかけて、止めた。
「……今日の話は、ここまでにします」
そう言って、廊下を歩き始めた。
二歩ほど進んだところで、足が止まった。
振り返らなかった。
「……話してよかったです」
それだけ言って、角を曲がった。
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その夜。
自室に戻ってから、リーシャは一人で窓の外を見ていた。
今日の交渉を振り返る。
アシュレイが農業の話をしているとき——いつもと違う顔をしていた。政治や頭脳戦のときの冷静さではなく、もっと別の何か。目の奥に、静かな熱があった。
(好きなことを話している人間の顔だ)
そう気づいて、リーシャは少し動揺した。
【感情読取】を使った。
やはり——読み切れない。
表層は読める。嘘をついていない。計算している。でもその奥が、掴めない。
「……なぜ読めないんですか」
小さく呟いた。
廊下で言われた言葉が、頭の中で繰り返された。
「お前の家は、思っているほどクロイツに縛られていない」
その言葉が——なぜか、農業の話より長く残った。
灯りが揺れた。
リーシャは目を閉じた。
カクヨムで先行公開しています。
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