第13話「ブラックウッドへの道、そして湯煙の宿」
返信が届いたのは、手紙を出してから五日後だった。
封を開けると、中身は簡潔だった。
『黒豆草の手配は可能です。ただし現物を確認した上での取引をご希望でしたら、こちらにお越しください。農業改革の詳細についても直接説明していただく必要があります。 リーシャ・フォン・ブラックウッド』
「やっぱり来させようとしてる」
横から覗いていたエリーゼが言った。
「合理的な判断だ」
「……アシュくんってリーシャの肩持つよね、最近」
「事実を言っただけだ」
エリーゼがじとっとした目で俺を見た。
「……ふーん」
何かを言いたそうな顔をして、それ以上は言わなかった。
出発は三日後に決まった。
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出発の朝。
馬の準備をしていると、イザベルが玄関に出てきた。
「気をつけてね」と言って、エリーゼの頬に手を当てた。「リーシャさんのこと、ちゃんと見てきてね」と小声で言った。
エリーゼが「え?」と聞き返した。
「お母さんの勘よ」
イザベルが笑って手を振った。
俺は馬に乗りながら、その会話を聞いていた。
(……聞こえていないと思ったのか、母上)
内心で思いながら、馬を進めた。余計なことを言う人だ、とも思った。ただ——否定はしなかった。
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街道は穏やかだった。
王都からの帰路と違って、今日は急ぐ必要がない。ブラックウッド領までは馬で二日の道のりだ。
「ブラックウッド領って行ったことある?」
エリーゼが馬上から聞いた。
「ない」
「私も初めて。どんなとこかな」
「湿地帯が多い。農業よりも林業と養蜂が主産業のはずだ」
「養蜂!」
エリーゼの目が輝いた。
「蜂蜜好き! もしかして買えるかな」
「産地だから質はいいはずだ」
「やった。楽しみ」
エリーゼが鼻歌を歌い始めた。
その横顔を、一瞬だけ見た。
蜂蜜が好きで、蜂蜜色の髪をしている。
(……よく似合っている)
その感想を、即座に打ち消した。
関係のない話だ。
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夕方、宿場町に着いた。
街道沿いの小さな町だ。温泉が湧いていて、旅人が立ち寄る場所として知られているらしい。宿の看板に「名湯あり」と書かれていた。
「温泉だ!」
エリーゼが看板を見て言った。
「入っていい?」
「明日も早いが——まあいい」
「やった!」
エリーゼが飛び跳ねた。その拍子に蜂蜜色の髪が揺れた。
宿に入って、部屋を取った。夕食を済ませて、エリーゼが「じゃあ温泉行ってくる!」と言って廊下に消えた。
俺は部屋で明日の段取りを考えた。
ブラックウッド領での交渉。黒豆草の現物確認。輪作農法の説明。対価の設定——
廊下から足音が近づいてきた。
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扉を開けようとした瞬間、廊下でエリーゼと鉢合わせした。
一瞬、目が止まった。
薄い寝巻き一枚だった。湯上がりで濡れた蜂蜜色の髪が首筋から肩にかけてはりついている。肌が上気して、頬が赤い。柔らかい布地が体のラインに沿って落ちていて——豊かな胸の膨らみと腰のくびれが、布越しにはっきりとわかった。
「あ」
エリーゼが固まった。
俺も、一瞬止まった。
沈黙が、二秒ほど続いた。
「……見た?」
エリーゼが上目遣いで聞いた。
「……見ていない」
「嘘つき」
エリーゼが笑った。
湯上がりの赤い頬のまま、目を細めて笑った。その笑顔が——なんというか、困った。
「じゃあおやすみ」
エリーゼが自室の扉を開けた。
「……ああ」
扉が閉まった。
俺は廊下で一人になった。
(……護衛の仕事に支障が出ると困る)
内心でそう言い訳した。
視線が一瞬泳いだことは——否定しなかった。
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翌朝。
食堂でエリーゼが「おはよう!」と言った。
昨夜のことなど何もなかったような顔だった。温泉でよく眠れたのか、いつもより顔色がいい。蜂蜜色の髪が朝の光を受けてさらさらと輝いていた。
「……ああ」
「昨日のこと、覚えてる?」
俺は一瞬間を置いた。
「覚えていない」
「嘘つき」
エリーゼが笑った。
二回目の「嘘つき」だった。
俺は黙ってパンを食べた。エリーゼがくすくすと笑い続けた。
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宿場町を出て、半日ほど馬を進めた。
街道が徐々に変わっていく。林が深くなり、道の脇に湿地が見え始めた。空気が少しだけ湿っている。木々の緑が濃くて、王都近郊とも辺境とも違う、独特の景色だった。
「ここがブラックウッド領?」
エリーゼが辺りを見回した。
「領境を越えた。あと半刻ほどで屋敷に着く」
「へえ。なんか雰囲気あるね。暗いけど綺麗」
確かにそうだった。
鬱蒼とした木々の間から、時折白い花が見えた。湿地に咲く花だ。
(あれが黒豆草に近い植生か)
俺が植生を確認していると——前方で何かが見えた。
街道の脇に、馬車が止まっていた。
黒い馬車だ。ブラックウッド家の家紋が側面に入っている。
馬車の横に、人が立っていた。
黒いドレスに深紅のマントを羽織っている。縦ロールの黒髪が湿地帯の風に揺れていた。赤い瞳が、こちらを見ていた。
リーシャだった。
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馬を止めた。
「……ずいぶん早いですね」
リーシャが言った。
「……出迎えに来たんですか」
俺が聞いた。
リーシャが、わずかに目を細めた。
「たまたまこの道を通っていただけです」
「馬車が止まってましたけど?」
エリーゼが馬上から言った。
「……休憩です」
「どのくらい休憩してたんですか?」
「……必要なだけ」
エリーゼがリーシャを見た。リーシャがエリーゼを見た。
三人の間に、微妙な沈黙が流れた。
エリーゼが——にっこりと笑った。
「一緒に行きましょう、リーシャさん!」
馬から降りて、自然な動作でリーシャの腕を取った。
リーシャが「……離してください」と言った。
振り払わなかった。
「屋敷まで案内してください。初めてで道がわからないので」
「……馬車についてくれば道案内は不要です」
「でも一緒の方が楽しいじゃないですか」
リーシャがエリーゼを見た。
何か言いかけて——やめた。
「……勝手にしてください」
そう言って、馬車の扉を開けた。エリーゼが嬉しそうに乗り込んだ。リーシャが後に続いた。
俺は馬上から、その光景を見ていた。
(……なんだあの組み合わせは)
内心でそう思った。
馬車の扉が閉まった。
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馬車に並走しながら、屋敷への道を進んだ。
馬車の窓が少し開いていた。
中からエリーゼの声が聞こえてきた。
「リーシャさんってブラックウッドの蜂蜜好きですか? 私すごく好きで、産地に来たらぜひ買いたいなって」
「……養蜂場は屋敷の東にあります」
「案内してもらえますか!?」
「……視察の合間にでも」
「やった! リーシャさん、意外と優しいですね」
「優しくしたつもりはありません」
「でも案内してくれるじゃないですか」
「……効率的な動線の話をしているだけです」
「同じことじゃないですか」
「違います」
馬車の中で、そんな会話が続いていた。
俺は前を向いたまま、少しだけ口元が動いた。
(悪くない)
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木々の間に、屋敷が見えてきた。
石造りの重厚な建物だ。ヴァルナーの屋敷より横に広く、左右に翼棟が伸びている。蔦が壁を覆っていて、湿地帯の景色に溶け込んでいた。
馬車が止まった。
扉が開いて、エリーゼが降りてきた。
「わあ、すごい屋敷」
リーシャが後から降りてきた。いつもの高慢な表情に戻っていたが——どこか、微妙に顔色が和らいでいた。
馬を下りて、屋敷を見上げた。
「では——始めましょうか、ヴァルナー卿」
リーシャが言った。
「ああ」
俺は答えた。
屋敷の扉が、静かに開いた。
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