第12話「帰路と種、そして母」
王都の城壁が、背後に遠ざかっていった。
朝の光の中で、石造りの壁がゆっくりと小さくなっていく。しばらく振り返らずに馬を進めた。
「帰ろっか」
隣でエリーゼが言った。
「ああ」
それだけで、十分だった。
しばらく、二人で無言のまま街道を進んだ。風が吹いて、エリーゼの蜂蜜色の髪が流れた。馬の蹄の音だけが続いた。
(……悪くない)
この沈黙が心地よい、と——内心で思った。
王都にいる間は、常に何かを考えていた。誰かの思惑を読んで、次の手を用意して、言葉の一つ一つに気を配っていた。
それが今は、ない。
ただ馬を進めるだけでいい。
それだけで、少しだけ息ができる気がした。
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街道を一刻ほど進んだころ、俺の頭は次のことを考え始めていた。
王都の市場を歩いたとき、観察した光景が頭の中で整理されていく。
食料の格差。
物流コストが価格に乗っている現実。庶民の食卓は、豊かに見える王都の市場とは別の場所にある。
だが——問題の根源は王都の流通ではない。
生産地側にある。
ヴァルナー領の農業そのものだ。
(問題を整理するか)
前世の記憶が、静かに動き始めた。
現在ヴァルナー領で行われている農法は「連作」だ。同じ土地に、同じ作物を毎年植え続けている。それがどういう結果をもたらすか——前世の農業知識が即座に答えを出した。
土が痩せる。
同じ作物を毎年育てると、その作物が必要とする特定の栄養素だけが土から失われ続ける。害虫や病原菌も同じ場所に居着く。年々収穫量が下がるのは当然の結果だ。
(解決策は輪作農法だ)
麦→マメ科→根菜→休耕のサイクルで土地を使い回す。作物を変えることで土壌の栄養バランスを保ち、特定の害虫・病原菌が定着するのを防ぐ。前世のヨーロッパでは中世から実践されていた農法だ。この世界では誰もやっていない。
ただし——輪作だけでは足りない。
土に窒素を補給する必要がある。前世で言えば化学肥料がその役割を担うが、この世界にそんなものはない。代わりになるのが「緑肥」だ。
マメ科植物を育てて、花が咲く前に土に鋤き込む。マメ科の根には根粒菌が共生していて、空気中の窒素を土に固定する働きがある。それをそのまま肥料にする。
問題は——どのマメ科植物を使うかだ。
効果が高いのは根粒菌を多く持つ特定の植物に限られる。前世ならクローバーやアルファルファが最適だが、この世界の植生で対応するものを探すと——
(黒豆草だ)
ヴァルナー領の古い農業記録の記憶が浮かんだ。
黒豆草。湿地帯に自生する、小さな紫の花をつけるマメ科の植物。根が深く、根粒菌の密度が他のマメ科と比べて格段に高い。かつてヴァルナー領の一部で育てられていた記録があるが、いつの間にか使われなくなった。
理由は単純だ。
ヴァルナー領の気候では育ちにくいからだ。
黒豆草が自生するのは——湿地帯。
ブラックウッド領の、南部湿地帯だ。
(ブラックウッドか)
頭の中で、赤い瞳が一瞬よぎった。
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「またなんか考えてる」
エリーゼが横から言った。
「農業の話だ」
「農業?」
「ヴァルナーの収穫量を上げる方法を考えていた」
エリーゼが少し考えた。
「今から? 王都出たばっかりなのに」
「帰ったらすぐ動く。考えておく方が早い」
エリーゼが「アシュくんらしい」と笑った。それから「どうするの?」と聞いた。
「輪作に切り替える。土に窒素を返すマメ科の植物を使う」
「窒素?」
「土の栄養分だ。今の農法では土が痩せ続けている。それを補う植物が必要だ」
「その植物って、領地で育てるの?」
俺は少し間を置いた。
「育たない。黒豆草という植物が最適だが——ヴァルナーの気候では根付かない」
エリーゼが「黒豆草ってブラックウッドにしかないやつ?」と言った。
「知っているのか」
「領地の植物の話は子供の頃から聞いてたから。確かブラックウッドの湿地帯にしか生えないって」
「そうだ」
エリーゼが俺を見た。
「……つまり、リーシャに頼むってこと?」
「交渉する」
「そっか」
少し間があった。
「私も行く」
「わかった」
エリーゼが目を丸くした。
「即答なんだ」
「お前が護衛だろう」
「……まあ、そうだけど」エリーゼが少しだけ唇を尖らせた。「もう少し別の理由を言ってくれてもいいのに」
「……一人より二人の方が心強い」
エリーゼが「それでいい」と笑った。
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三日後の夕方、ヴァルナーの領地が見えてきた。
街道の丘を越えた瞬間、見慣れた屋敷の輪郭が夕陽の中に浮かんだ。王都の洗練された建物とは違う、無骨で重みのある石造りの屋敷だ。
(帰ってきた)
それだけを、思った。
門をくぐると——玄関の扉が開いた。
「おかえり、アシュくん」
イザベルが立っていた。
銀がかった灰色の髪が夕陽を受けて柔らかく光っている。翠の瞳が目を細めて、こちらを見ていた。穏やかな笑顔だった。王都で見てきたどんな貴族夫人とも違う、飾り気のない温かさがそこにあった。
「ただいま、母上」
「怪我はない? ちゃんと食べてた?」
「問題ない」
「その答え方がもう問題ありそうだけど」
イザベルが苦笑した。それからエリーゼを見た。
「エリーゼちゃん!」
「イザベル様!!」
エリーゼが駆け寄って、そのままイザベルに抱きついた。
イザベルが「もう」と言いながら、自然にその背中を受け止めた。
「ちゃんとアシュくんのこと守ってくれてた?」
「もちろんです! ずっと一緒にいました!」
「偉いわ。ありがとう」
イザベルがエリーゼの頭をぽんと叩いた。エリーゼが嬉しそうに顔を上げた。
俺はその光景を、黙って見ていた。
(いつもこうだ)
イザベルは、俺が十歳の時に父の後妻として屋敷に来た。実母のエレナが病で亡くなってから六年後のことだった。一人で領地を切り盛りするカルロスを見かねた親族の勧めで、縁が結ばれたと聞いている。
前世の記憶を持つ俺には、素直に「母」と呼ぶことに、最初はどうしても慣れなかった。三十二年生きた人間の感覚が、どこかで距離を置かせた。
それでも——イザベルはそういうことを一切気にしなかった。
「アシュくん」と呼び続けた。茶を出し続けた。笑い続けた。数年かけて、その温かさが俺の中にじわじわと染み込んできた。今では「母上」と呼ぶことに、違和感はない。
エリーゼが初めてこの屋敷に来た日から、ずっとこうだった。母はエリーゼを娘のように扱い、エリーゼは母に懐いた。どちらも自然にそうなった。
悪い光景ではない、と——内心で思った。
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執務室でカルロスへの報告を行った。
王都での出来事を簡潔に伝えた。クロイツ侯爵との頭脳戦。国王謁見。宰相ドルフの罠とその切り抜け方。ルーカスの援護。レイン王子との接触。
カルロスは腕を組んで、一言も口を挟まずに聞いていた。
報告が終わった。
沈黙。
「……よくやった」
それだけ言った。
カルロスが立ち上がりかけた、その瞬間。
扉の向こうから声がした。
「あなた、お茶が入りましたよ。アシュくんも座って話して」
カルロスが——座り直した。
俺は内心で確認した。
(この人だけだ。父が頭が上がらないのは)
扉が開いて、イザベルが茶器を持って入ってきた。エリーゼが後ろからついてきた。
「農業を変えるつもりなの?」
イザベルが茶を置きながら言った。
「……聞いていたんですか」
「扉越しに全部」
「……盗み聞きはよせ」
カルロスが低く言った。
「聞こえてきたんですもの、仕方ないでしょ」
イザベルが涼しい顔で返した。カルロスが何も言わなかった。
イザベルが席に着いて、俺を見た。
「黒豆草を使うつもりなんでしょ。あれはブラックウッドにしか生えないわよ」
「知っています」
「扉越しにブラックウッドのお嬢さんとの縁談の話も聞こえてたけど——交渉はうまくいきそう?」
「縁談とは別の話です。農業上の取引として交渉します」
「そう」
イザベルがお茶を一口飲んだ。
「うまくいくといいわね」
それだけ言って、特に何も言わなかった。
余計な口出しをしない。それがこの人の流儀だ。
カルロスが俺を見た。
「やってみろ」
短く、そう言った。
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夜、書斎でリーシャへの手紙を書いた。
文面は簡潔に書いた。
『農業改革に黒豆草が必要です。ブラックウッド領での調達を手配していただけますか。対価については交渉させてください。 アシュレイ・フォン・ヴァルナー』
「見せて」
エリーゼが後ろから覗き込んできた。
読んで、少し考えた。
「もう少し丁寧に書いたら?」
「これで十分だ」
「リーシャさん、怒らないかな」
「怒らない。あの人は合理的だ」
エリーゼが「……詳しいね」と言った。
「観察した結果だ」
「ふーん」
エリーゼが短く言って、それ以上何も言わなかった。
代わりに——俺の肩に、少しだけ寄りかかった。
俺は手を止めなかった。
羽根ペンを動かし続けた。
エリーゼの重みが、肩にあった。
しばらく、その沈黙が続いた。
「ねえ、アシュくん」
「なんだ」
「王都、大変だったね」
「……そうだな」
「頑張ったね」
俺は少し間を置いた。
「お前もな」
エリーゼが小さく笑った気配がした。
寄りかかる重みが、少しだけ増した。
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手紙を封じて、使者に渡した。
書斎の窓を開けると、夜風が入ってきた。
ヴァルナーの夜空が広がっていた。星が出ていた。王都の夜空より暗くて、その分だけ星が多い。子供の頃から見てきた、慣れ親しんだ空だ。
農業改革。ブラックウッドとの交渉。領地の整備。
やることは、山積みだ。
(王都は凌いだ。本当の戦いはここからだ)
「ただいま」と——心の中だけで、呟いた。
夜風が、静かに吹いた。
カクヨムで先行公開しています。
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