さようなら。
エドワードさんが見事に魔王を倒した三日後。
ペガサスに乗って大教会まで戻ってきました。エドワードさんに高い所を怖がっている様子はありませんでしたが、表情が固めでした。
死の浜で海を眺めながら私の思い出話をしていると、ケイさんと、首都にいたはずのマリアさんと、他数名の教会の人たちが迎えにきてくれました。私たちはミール村まで戻り、そこで十分休ませてもらってから、今日こうして戻ってきました。
見送ってくれた時のように、たくさんの人が鳥居のそばにいて、私たちを待っていました。
知り合いの何人かは怪我をしているようです。例えばルファットさんは眼帯をしていますし、ブラウンさんは手に包帯を巻いています。
私たちがペガサスから降りると、
「お疲れ様でしたー」
高そうな服を着た金髪の少年がにこにこしながら真っ先に声をかけてきました。誰かと思えば国王です。約一年でかわいさが減ってかっこよさが増えたようです。それに……
「コバヤシさん? どうかしましたか?」
おっといけない。まじまじ見てしまいました。
「ごめんなさ……申し訳ありません。その、ずいぶん背が伸びたと思って」
十センチは伸びたのではないでしょうか。まだ私の方が背が高いですがギリギリです。
「そうなんですよ。背が伸びるのは嬉しいんですけど、毎日膝が痛いんですよねー。座ってる時なんてもう泣きそうです」
成長痛ですか。魔王に飛ばしたらどんな反応をしたでしょうか。
……っていうか、私、こんな風に立ったままでいいんだっけ……?
出発前の謁見のために教わったことが頭の中を駆けめぐりましたが、だからといって今どうしたら良いかはわかりませんでした。
貴族の家の子なのでそれなりに知識があるはずのジークさんが特に何もしていませんし、周りの人も普通にしていますから、たぶんこのままでいいのですよね。
と、思った途端、国王が急にきりっとした顔になり、それまで潜んでいた謎の威厳というか、威圧感が出てきました。恐ろしい十五歳です。
そんな国王に視線を向けられて、エドワードさんが身を固くしたのがわかりました。
「勇者エドワード・ハルクロード殿」
「はい」
エドワードさんは返事をするだけで精一杯に見えます。
国王はエドワードさんだけでなく、私とジークさんの名前も呼びました。
「国民を代表して、僕からお礼を」
一人称が「僕」でしたが直しません。格好つかないから直さないのか、気付いていないのか、背伸びするのをやめたのか……。
「本当に、ありがとうございました」
お礼の言葉と共に国王の頭が下がりました。
まだ子供とはいえ国のトップが自分に対して頭を下げたことに慌てたらしいエドワードさんは、
「えっ、あー、えー、どういたしまして?」
どうしたらいいのか全然わからない、といった顔で言いました。爽やかさがどこかに吹っ飛んでいます。
「当然のことをしたまでです」
ジークさんが小声でそう言いました。どうやら彼は彼なりに緊張しているようです。
……これ私も何か言わなければなりませんよね。えっと……。
「お役に立てて、よかったです」
視界の隅で、ブラウンさんが微笑みました。今のでよかったようです。
元の姿勢に戻った国王は、威厳を引っ込めて言いました。
「報酬は何がいいですか? お金出しますけど、他に何か欲しいものはありますか?」
国王が、にやーっと笑いました。悪役みたいな笑い方です。
「ちょーっと言いにくいあんなのやこんなのまで用意しちゃいますよ!」
楽しそうに言う国王に、
「こら、ダビッド。その顔はしない約束でしょう」
そばにいたエリエント先生がデコピンしました。
「ほうわっ。ひどいです」
いとことはいえ、国王にデコピンしちゃっていいものなのでしょうか……。
国王のお付きの人は、やれやれ、といった表情です。特にエリエント先生を咎めるような様子はありません。
エリエント先生は少しだけ怒った表情で国王に言いました。
「教会の敷地内で約束を破ることは許されません」
「はい……」
国王はしゅんとしましたが、すぐに、にこにこ笑顔に戻りました。
「というわけで、今すぐでなくてもいいので、欲しいものとかあったら言ってくださいね。……ところでコバヤシさん」
む、私ですか。
「はい」
いったい何でしょうか。
「『アーサー王』はあとどれくらいですか?」
ああ、翻訳の話ですか。
「本文があと少しと、作者と訳者の後書きが残っています」
「そうですか! 終わるの楽しみに待ってますね! あ、せっかくですからコバヤシさんの訳者後書きも付けてください」
ええっ、私に後書きを書けというのですか!
「で、できる限りのことはします……」
あっという間に、帰る日がやってきました。
私がいなくなった後、エドワードさんも大教会を去る予定です。彼も故郷に帰るのです。
今日までに、いろいろなことがあって、たくさんのことをしました。
まず『アーサー王』の翻訳を終わらせて提出しました。あとは神様と神主さんが突然一緒に現れて、魔法や二人の思い出話などを聞かせてくれたり、体調を崩してしまった大司教さんの所にお見舞いを兼ねた報告に行ったり、日本語講習の実施をお願いされたり、首都を誰かに案内してもらったり一人で歩き回ってみたり、魔法の開発に少し協力してみたり……。
緊張や恥ずかしさでどうにかなりそうなこともありましたが、基本的に楽しい毎日でした。魔物が出たという話は一度も聞きませんでした。
今は、起きて着替えを済ませたところです。
着ているのは、この世界に来た時の服です。全く同じ格好というわけではありません。暑いので腕まくりをしていますし、上着は鞄の中にしまいました。
寝る間着ていた服を畳んでいると、部屋の戸がノックされました。こうやって朝来るのはマリアさんです。
大教会はこれから朝の掃除の時間なのです。私はマリアさんと同じ所の掃除をします。
戸を開けるとやっぱりマリアさんがいました。
「おは……」
朝の挨拶が途中で止まって、マリアさんの目が大きく大きく見開かれました。どうしたのでしょうか。
「あの……?」
「れっ、れ、れ、レ、レイちゃん?」
マリアさんの様子がすごくおかしいです。声はなんとか出しているという感じで、顔がひきつっていて、手がブルブル震えています。
「何ですか」
「何ですか、じゃないよ! 黒いよ!」
へ?
「魔人だよ!」
……え、
「えええ!? 私黒いんですか! 髪の毛と目が黒に見えてるんですか!」
「黒いよ! 私きみのこと殴った方がいいかな!?」
「魔人じゃないから殴らないでください!」
そう叫んだところに、
「マリア、どうしたの?」
と、騒がしい私たちの様子を見にきた人がいました。
「だ、駄目、見ちゃ駄目!」
マリアさんは部屋の戸をバン! と乱暴に閉めました。
部屋の外から、興奮気味のマリアさんと、戸惑う女性の話し声が聞こえてきます。
「一体何なの?」
「レイちゃんが黒い!」
「どういうこと?」
「わかんない!」
「そんなあ」
「じゃあ見て!」
戸が開かれました。部屋を覗いた教会戦士の女性と目が合いました。彼女は目をまん丸にして固まりました。
パタン、とマリアさんが戸を閉めました。
「ねえ、レイちゃん、どういうこと?」
戸の向こうからマリアさんが話しかけてきました。
「私元々黒いんです。でも黒いと半殺しにされるので、違う色に見えるように神様がしててくれました」
このことは首都に戻って四日目に神様に教えてもらいました。日によって違うのは、そうした方がミステリアスで面白いから、だそうです。ちなみに神様は、ローズとその仲間たち以外には、小さい私の見た目を、大人くらいの人物に見せていたこともありました。その大きい私の顔は、私のお母さんを参考にしたそうです。
「そう……。もう今日で最後だから、特別にかな」
「さあ……」
ゆっくりと戸が開き、マリアさんが顔を覗かせました。美人は困り顔でも美しいです。
「何かかぶって顔隠してくれる?」
はい、わかりました。
鞄の中から上着を出して、それを頭に掛けてみました。
マリアさんともう一人の女性に、ブラウンさんの所まで連れていかれることになったのですが……これ、逮捕されて顔隠して連行されていく犯人に見えるんじゃ……。
長い廊下を歩いていると、エリエント先生の声が聞こえました。変な格好の私を見て声をかけてきたようです。
「何かあったのですか?」
「レイちゃんがこうなったので、ブラウン司教に相談に行くところです」
マリアさんの言葉と共に、上着が軽く持ち上げられました。
エリエント先生が持っていたバケツが床に落ちて大きな音を立てました。水が入ってなくてよかった……。
上着が元に戻されました。
「本人が言うには、これが本来の色なんだそうです」
「……そ、そうですか」
「それじゃあ、私たちはこれで」
エリエント先生と別れた後、教会の出入り口の一つに向かいました。人気の少ないそこで、ブラウンさんは丁寧に掃き掃除をしていました。
事前にマリアさんが色のことを説明してくれましたが、実際に私を見たブラウンさんからはわずかに殺気を感じました。
「あの……えっと、正常なので、殴らないでください」
「……そのようなことはしません」
そう言いつつもブラウンさんは私から視線を逸らしました。
「……私、どうしたらいいと思いますか」
「そうですね……」
結局、私は本来の掃除の場所には行かず、上着をかぶって視界があまりよくないままブラウンさんのお手伝いをしました。一緒に来た二人はそれぞれの担当場所へ行きました。
朝食は食堂でない所で食べることになりました。
使うことになったのは、小さめの会議室です。学校の教室の、三分の二程ですね。
ここで、私がこの世界に来たときに探しにきた六人と、エドワードさんと一緒に朝食をとります。
犯人の格好のまま、ブラウンさんと一緒に他の人が来るのを待ちました。
最初に来たのはルファットさんとマリアさんの二人で、次がエリエント先生、その次にエドワードさんとジークさんとケイさんが三人一緒に来ました。
全員が揃ったところでマリアさんが言いました。
「レイちゃん、見せて」
おおう、七人分の視線が……! そんなに注目しないでほしいのですが。
思い切って、上着を取ってみました。
ケイさんの目が見開かれました。ルファットさんの目がすっと細められました。ジークさんは無反応に見えて、あっ、エドワードさんの手が、こぶし!
「元々黒ですっ」
私が、杖を握って身構えつつ慌てて言うと、
「……知ってるよ? 前に聞いたし」
エドワードさんは変な微笑みを浮かべてそう返してきました。
「じゃあその手は何ですか」
何故こぶしをつくっているのですか。
「こうしてないとね、手が剣にいくんだよ」
そんなー。皆さんに座ってもらってから見せるべきだったかもしれません。
どうしたものかと困っていると、ジークさんが近寄ってきました。彼は私の髪を軽くつまんで言いました。
「恥ずかしがり屋が自慢するだけはある」
「え……」
それって、つまり、
「褒めてる」
わあ、やった!
「ありがとうございますっ」
この世界の人にも褒めてもらえました。嬉しいです。
喜んでいたらエドワードさんが目の前に来ました。な、殴られないよね……?
頭に彼の手が乗せられました。
「やっと本当のレイちゃんを見れて、僕嬉しいよ。綺麗だよ、レイちゃん」
エドワードさんは私が猛烈に恥ずかしくなるようなことを爽やかな笑顔で言って、頭を優しく撫でてくれました。
朝食の後は、お世話になった人たちにお礼とお別れの挨拶をして回りました。
それから、私はエドワードさんとジークさんと一緒に教会の中庭に来ました。
つい先程、鐘が鳴らされる様子を見ました。鳴らす人は相変わらず「アチョー!」と叫んでいました。
神主さんが教えてくれたのですが、この世界でのこの掛け声は、神様が元だそうです。健一さんがごろつきに絡まれて焦って思わず出してしまった言葉が「アチョー!」だったのです。それが気合いを入れる時の掛け声として世間に広まりましたが、今では教会で鐘を鳴らす人だけが言うようになったのだとか。
教会にお寺の鐘があるのも、鳥居があるのも、神様が原因です。神様が、人に置いてくれとお願いしたのです。このことは神様から聞きました。理由は教えてくれませんでしたが、日本的なものが欲しかったのではないかと思います。
そうそう、神様といえば、馬に手を加えてペガサスとユニコーンを生み出したり、新しい植物を作ったりと理系的なことをたくさんしています。が、文系だそうです。佐藤健一さんは文系の学生だったのです。
さて、私たちの目的は、ベンチに座って三人でゆっくりすることです。
今日は私が真ん中です。
しばし三人でいろんな話をしました。そうしているうちに、
「魔王を倒せなかったら、どうなってたかな」
空を見上げたエドワードさんが、ぽつりとそんなことを言いました。
「世界の危機だとか、滅ぶとか聞いてたし、そうなんだろうって思ってたけど、世界が滅ぶってどういうことかな」
あー、この場合の“滅ぶ”は……。
「世界が、っていうか、人間が滅ぶんじゃないですか。天気大荒れで魔物大暴れで。あ、あと巻き添えくらう動植物もいると思います」
世界の壁やバランスがどうのこうので歪みが広がってどうこうで世界が消滅、とかそういうことではなさそう?
「それでも人には世界が滅んでくように見えるんじゃないか」
ジークさんが言いました。
確かにそうかもしれませんね。悪天候や魔物に襲われて街や自然がぐちゃぐちゃになって、人がどんどん死んでいったら、きっとそんなように思えてくるでしょう。
「それを僕らで防げたっていうなら、嬉しいな」
エドワードさんがどこか満足そうに言いました。
それから少しして、ジークさんがぼーっとしだしました。
そろそろ、帰る時間のようです。
教会の広間に移動してきました。ここは、神様が現れて、私にこちらの言葉がわかるようにしてくれた所です。
今日もまた、たくさんの人が見送りにきてくれています。
神様の姿はありませんが、声はどこからか聞こえてきて、指示を出してきます。私にだけ聞こえているようです。
私の近くに人がいてはいけないそうなので、皆さんには離れてもらうようにお願いしました。
さあ、エドワードさんもジークさんも離れてください。
「レイちゃん」
何でしょうか、エドワードさん。その何かをたくらんでいそうな笑顔は何ですか。
「最後だから、ちょっと我慢してね」
はい?……って、わあああああ!?
エドワードさんときたら、私をぎゅーと抱き締めてきましたあああああ!
「元気でね、レイちゃん」
驚いているうちにエドワードさんが離れ、今度はジークさんが近寄ってきました。そうして私の手を両手でしっかり握って、いつもの無表情で言いました。
「勉強頑張れ」
「は、はい……」
エドワードさんもジークさんも、私が苦手なことをちゃっかりやってくれました。
恥ずかしいのと嬉しいので頭の中がごちゃごちゃです。
「じゃ、いくぞ」
神様の声がまた聞こえました。気が付けば私の半径三メートル以内には誰もいませんでした。
涙が出てきました。やっぱり悲しくて寂しくて仕方がありません。
もうここの人たちと会うことはできません。
空中に金色の絵や文字を描くこともできません。魔法陣から何か出すこともできません。呪文はただの言葉で終わります。もう魔法を使うことができません。
体が引っ張られる感じがします。あちらの世界に帰るのだということが、よくわかります。
いろんな物語の主人公たちを思い出しました。別の世界に召喚されて、仲間たちと頑張って、最後に帰る彼らは、とてもつらそうにしていましたが、みんな立派でした。
泣いて消えるのはみっともないように思えます。笑うことなどできません。それでも、悲しいし寂しいけど、せめて、ちゃんと挨拶はしておかなきゃ。
顔を上げると、少し寂しそうに微笑んでいるエドワードさんに、難しい顔をしたジークさん、そしていろんな表情の、この世界の人たちが私を見ていました。
……恥ずかしいです。そうです、私は恥ずかしがり屋です。今後この状況を思い出した時のためにも、お世話になった彼らに無様な姿を見せているわけにはいきません!
泣くのを我慢して、震える声をなんとか出しました。
「私、この世界に来られて、よかったです。不思議なもの見れて、魔法使いになれて、嬉しくて、楽しかったです。……さようなら」
あまり大きな声は出せませんでした。エドワードさんたちに聞こえたでしょうか。
視界が歪みました。気持ち悪さはありません。そういえば「帰るときはちょっと楽」と神様が言っていました。
この世界の人たちに左手を振ってみて、振り返してもらって、そのうちに自分の手が動いているかどうかわからなくなりました。
そして、何も見えなくなって、何も聞こえなくなって――
自分が横になっているのがわかります。固くてザラザラしたものの上にいます。
目を開けてみました。
私は、自分の家の玄関前に寝ていました。
コンクリート久しぶりー……おっと、こんなところを誰かに見られてはいけません。
慌てて立ち上がり、服が汚れていないか確認しようとして、右手に握りしめていた杖が目に入りました。
「夢じゃなかった……」
異世界に行って魔法使いをしていた証拠を、私はしっかり持っていたのです。
鞄の中身を確認しました。上着と、魔法の本四冊と、あちらで買ったりもらったりした物と、探した我が家の物と、出かける前に入れた財布や携帯電話などがしっかり入っていました。
いやあ、いろいろ入って本当にいい鞄ですね、これ。
こちらに戻る直前は悲しくて寂しくてつらく思っていましたが、今は、こうして戻ってきたことにほっとしていて、それからファンタジーな世界に私がいたことを確認できて、
「ふふふっ」
嬉しくて笑わずにはいられません。
さて、家に入るとしましょうか。
玄関の戸を開けて、と。
「ただいまー」
すぐに家の中から返事がありました。
「おかえりー」
今のはお母さんです。
靴を脱いで、居間に行くと、お母さんがこたつにあたってテレビを見ていました。
「ねえ、お母さん、これ見て」
「んー?」
振り返ったお母さんに、私は杖を軽く振ってみせました。
そして、言いました。
「私ね、夢が叶ったよ!」