帰り道、猫に遭遇注意
家庭教師をさせてもらっている知り合いの家から、マンションに帰る道。辺りは既にすっかり暗く、先程から振り出した雨が夏の夜を肌寒くしていた。
透はカバンから黒いカーディガンを出し羽織ると、折りたたみの傘を広げた。
しばらく歩き、シャッターの閉まった店の軒下に人影を見た。
注意深く眺めていると、それが自分の同居人であることに気付く。
軒下でしゃがみ込み傍の猫に手を延ばしているのは、うちの凛だった。
しゃがむとチビに拍車がかかる。普段から緑と陰で凛をネコ扱いしていたが、猫と戯れるその姿は、冗談抜きに何かの小動物のようだった。
どうやら雨宿りをしているらしい。透は近付くと傘をしまい、同じ軒下に入った。
「それ、お前の友達?」
凛は全く透に気付いていなかったらしく、突然降りかかった声に驚いて顔をあげた。
大きく見開いた目が、本当にネコのようだ。透の姿を認めると、満面の笑顔になる。
「透くん!おかえりっ」
まだ、家じゃないんですけど。
そう心の中で突っ込みながらも、自分を見て嬉しそうに笑った凛に、芯から暖まる心地がした。
「あんなに大荷物で行ったのに傘持っていかなかったの?」
「う……うん」
「じゃあ会えてよかったね。入れば」
透は凛に傘を傾ける。凛は心なしか頬を染めたように見えた。暗いのでよく分からない。
ミニサイズの凛は、折りたたみ傘の中に入れても窮屈でなかった。だが彼女は、何故か自ら透から離れ、いそいそと濡れに行こうとする。
「そんな離れたら、傘に入る意味ないだろ」
透は凛の肩を掴み引き寄せた。
しゃっくりのような、小さな声が腕の中で聞こえた。
「ご、ごめん。ちゃんと中にいます……」
肩を縮こまらせ、凛は言われた通り傘の中へ留まった。
「『先輩』の所に行ってたんだろ?帰り、遅いな」
何か詮索みたいだな。言わなきゃよかった。
「夕飯作ることにしたの。先輩、今お芝居が忙しくて、家事まで手が回らないから」
「お人好しも、そこまで来るとすごいな」
素直な感想だったのに、何故か含みのある嫌味っぽく聞こえてしまった。凛が隣で怯えた表情を見せた。
やばい、何か言わないと。
「遅くに一人で帰るの危ないと思うけど。この前だってさ、危ない目にあったんだし……」
夜道を帰っていて、不審者に襲われた凛。
あの時助けていなかったら、今頃まだ俺は口をきいていなかったんだろうか?
今となっては、分からないことだ。
「あの時、本当にありがとう。透くんが通りかかってくれて助かったよ」
「いいよ、それは。でも、またあんな目に遭って、その時都合良く俺が通りかかるとは限らない、だろ?」
「……できるだけ、早めに帰って来るね」
その言葉を聞いて、透は思い切って言ってみた。
「もし連絡くれれば、迎えに行くけど」
驚いた勢いか、慌てて凛が再び傘の外へ飛び出していく。
そんな濡れたいのか。
「え、いいよ!!悪いし、そんなの!」
全力で拒否らなくても……
「毎日遅くなる訳じゃないだろ。一、二回なら大したことないよ」
「えー?え、でも」
「いいから、はい」
ポケットから携帯を取り出し、凛に手渡す。凛は透の携帯を手にただ途方に暮れている。
「連絡先、登録しておいて」
凛は勢いよく頷くと、透の携帯に連絡先を打ち込み始めた。
……あ、両手打ち。
何か一生懸命両手で打っている感じが凛らしい。
それにしても、同居二ヶ月目にして、あまりにも遅い連絡先交換だった。
「できた、入れたよー!」
何が嬉しいのか、えらい上機嫌で凛が携帯を返して来た。
「じゃあ、かけるよ」
透が凛の電話番号で電話をかけようとすると、凛は自分の携帯を探しながらまたあわあわし始めた。
「ま、待って!待って!心の準備が……」
隣で電話かけんのに、心の準備がいるか。
てか、登録のためだから別に出なくていいし。こいつ面白いな。
透は妙な誤解をする凛に付き合ってみることにした。
必要もないのに、凛に電話で話しかけてみる。
「……もしもし」
何も言うことがないのは山々なのだが、とりあえず呼びかけてみた。
すると妙な気合の入った声で、返事が返ってくる。
「もしもし、凛です!」
……いや、知ってますけど。
最早何がしたいのか分からない凛の行動は、何故か透のツボに入り、笑いがこみ上げて来た。
「……透、くん?」
「ははっ……いや、ちょっと、笑い止まんない……はは」
笑い続けた透は気づかなかった。大好きな透の笑顔を、同じ傘の中という超至近距離で見て、凛があまりの幸せに倒れそうだったことを。