25話
ガストンの邸宅に到着すると、そこはもはや商会長の屋敷ではなかった。門の前には鋭い目つきの兵士が立ち、中に入ればロビーから廊下に至るまで、不安げな表情の人々が肩を寄せ合って眠っている。一種の要塞、あるいは避難所といった趣だ。
ふと視線を向ければ、奥のソファーではリナがミラたち三人組と一緒に、疲れ果てたように身を寄せ合って眠っていた。
「キャワワ……」
後ろから、場違いな明るい小さな声が聞こえた気がした。振り返ると、聖女アカリが溢れんばかりの人々とその悲痛な光景を目の当たりにし、沈痛な表情を浮かべていた。
ちょうど、以前俺に鑑定の講義をしてくれた使用人が通りかかった。俺は彼を呼び止め、ガストンとの面会を頼み込み、そのまま執務室へと案内させた。
執務室のガストンは、山積みの書類に次々とサインを走らせていた。
「こんな夜中にどうしたんだい、サトウ殿」
「起きていてくださって助かりました」
「まだ争いが終わったとは言えないからな。……噂では王国軍には、どんな傷も治す『聖女』がいるとか……。もし本格的に攻め込まれれば、長期戦は免れんだろう」
俺は無言で一歩横にずれ、後ろにいたアカリをガストンの正面に出した。
「その聖女です」
「は?」
ガストンが手に持っていた羽ペンが、ぽとりと床に落ちた。
俺は机の上に、いつも腰に下げているコップを置く。そして空間から水を生成し、静かにコップを満たした。
「そして私は、勇者です。まあ、コップ一杯の水を作るだけのしょぼい能力だと言われて、王国を追放された身ですがね」
「なんと……」
ガストンは絶句し、力なく顔を覆って天井を見上げた。あまりに重い事実に、その肩が微かに震える。
「……というのは『冗談』でして」
「冗談……?」
ガストンがゆっくりと顔を戻す。俺はその目をまっすぐに見つめ、一拍置いてから言葉を重ねた。
「ええ、『冗談』です。私はただの水魔法しか使えない、そこら辺の狩人です。そして彼女は、単なる優秀な回復術師。その亡命してきた彼女を、どうか保護していただきたいのです」
「……そうか。わかった」
ガストンは深く、重い吐息をついた。俺の意図を察したのだろう。「冗談」ということにしなければ、この街に新たな火種を抱えることになるのだから。
「ひとまず君たちは今日ここで休みさない。明日にはここも戦場になっているかもしれないがね」
その悲観的な言葉に、アカリが強く反応した。
「あ、あの! 王国軍は撤退すると思います!」
「ほう……どうしてそう思うのかね?」
「主な戦力だった剛力の勇者が敗れ、爆炎の勇者もいなくなり、軍内で退却の話が出ていましたから。その上、聖女までいなくなったとなれば……」
「聖女もいなくなった、とな?」
「あ、いえ! 聖女もどこかに逃げてしまったと……噂! そう、噂で聞きましたから!」
必死に誤魔化すアカリに、ガストンはわずかに口角を上げた。
「そうか、噂か。だが優秀な回復術師も同時に消えたとなれば、向こうには大打撃だろうな。良い情報をありがとう。少し気が楽になったよ」
「あの、それと……!」
「まだ何かあるのかね?」
「その、怪我人が運ばれている場所に案内してもらえないでしょうか。獣人を、この街の傷ついた人たちを治したいんです。私にできることがあるなら、それで救われる人がいるなら……!」
「……邪神の従僕と言われる獣人もか?」
「私はそんな風に思ってません!」
アカリの真っ直ぐな瞳を見て、ガストンは静かに頷いた。
「いいだろう。案内させよう」
ガストンは案内役の使用人に、目立ちにくいフード付きのコートとマスクも用意するよう命じた。
「君が王国の人間だと騒がれるのも、今は困るのでね」
準備を整え、俺たちは屋敷を出た。夜の冷たい空気が頬を撫でる。
「しかし、勇者様でしたか」
先を歩いていた使用人が、ぼそりと呟いた。俺は心臓が跳ね、慌てて否定しようとしたが、彼は振り返らずに続けた。
「先ほどの『冗談』には驚きましたよ」
「あ……はい、すみません」
「色々、納得がいきました。……ひとまずは、これからもよろしくお願いいたします」
使用人は足を止め、俺に向かって深々とお辞儀をした。あまりに丁寧な、そして全てを察した上での敬意に、俺の方が調子を崩されてしまう。
「いえ、こちらこそ」
「それでは、向かいましょうか」
彼は顔を上げると、今このアイゼンで最も慌ただしく、そして苦悶の声が満ちている場所へと俺たちを導いていった。




