50 偽り
母はゆっくりと正確に話す。
躊躇いはなくなったようだった。
「大学を出て、働いて、あやめを身籠って、幸せだった。
お父さんもあやめが小さかった頃は、それはそれは可愛がってね。写真もいっぱい撮って……。でもね……仕事に復帰してから状態が変わった。
家事と育児と仕事と……、目が回るような忙しさだった。ただカレンダーの土日を待って家事を片付けるような日々だった」
母が躊躇っている。言葉を選んでいる。
「なにかが可笑しいとは思っていたのよ。でも、夫婦で会話もなくなって……。
お父さんは会社の異動で転勤になったの。あやめもまだ保育園に慣れた頃だったし、私は仕事を変えたくなかったの。だから信じて、お父さんを単身赴任してもらったのよ」
かあさんは溜息を吐く。そして、ハンカチで涙を拭う。
「毎日忙しくて忙しくて……でも、二人の生活になってお父さんという手間がなくなってね。少しの部屋の汚れや洗濯物も気になくなったら楽になってね」
母はおばあちゃんの手紙を強く握り締めた。
「可笑しいなとは思っていたのよ。でも、群馬のおばあちゃんの家に家族で遊びに来たり、お父さんの両親もあやめを可愛がってくれてね。気づかないふりをしたのよ」
コタツテーブルの上に手紙を載せて皺を伸ばし始める母。そして、あやめを真正面から見た。
「お腹の大きな女の人が家に訪ねに来たの」
あやめは息を飲んだ。言葉が見付からない。話の展開が分からなかったからだ。
「あやめが三歳の時にね……。お父さんの赴任先の会社の人と言ってたわ。でも、その女の人は仕事も辞めてお父さんのお金で養われてるみたいだったわ。だから、私達二人の生活は私のお金で何とか回していたの……それで……」
母はカバンからペットボトルを出して、飲み込んでいる。
あやめは立ち上がると、台所に行き、冷蔵庫からおばあちゃんの作った麦茶を出して、コタツテーブルに置いた。
二人は沈黙した。
あやめがコップに麦茶を注ぐと、母の前に出した。
「それで……」
母はコップの麦茶も飲んだ。
「それで……、お腹の子はお父さんの子供だから、お父さんと離婚してくれって言われて……」
母が震えている。
「あやめも小さかったし、後から来たお父さんが慌てて家に帰って来てね。私の前でその人と話し合いをするの……ただ呆然と二人を見てたわ。
何分かしたらね。
あやめが鼻歌歌いながら、私達前を横切って、テレビの前に座ったのよ。『ワンワン見る!』って言ってね。笑ったのよ。毎日見てるから自分で来たみたいだったわ」
母が微笑む。
「その日は二人とも帰ってもらって……、お父さんが話を聞いてくれって何度もドアの前で叩いて辛ったわ」
あやめと母は視線を逸らせない。
「諦めようと思ったのよ。辛いしあやめは小さいし……。
でもね。
離婚を拒んだのはお父さんの方なの……。二つの家庭を行ったり来たりして、あやめの学費だけは出すってお父さんが言ってね。父親としての役割を果たすと言ってね。
まだ籍は抜けてないのよ。私はあやめが大きくなる迄は黙ってる選択をした。私も踏ん切りがつかなかったのよね」
あやめは沈黙した。言葉が出ない。あの優しいとうさんが?だが、母が嘘を付いているとは思えない。
「私も悪いの。自分で決められなかったのだから……。だから、今もお父さんは家に居る。二つの家庭を生き来してるの。
相手のお子さんも大きい筈よ。あちらには会った事はないけど……。お父さんが悪い意味で上手く立ち回ってるのだと思うわ。」
母は溜息を付いてから長く目を瞑った。
あやめは母の言葉を待った。
「あやめ……。お母さん戦おうと思う。長い不貞行為の慰謝料と生活費と養育費を取ろうと思う。調停を起こして、戦おうと思う。
きちんと戦うべきだったのに、あやめが小さいと偽って、傷みを飲み込んでた。」
あやめは答えられない。
「付いて来てくれる?お母さんに……?
おばあちゃん家に住むから、学校も変わらないといけないし、友達とは直ぐに会えなくなるけど、お母さんに付いて来てくれる?」
「解らない……」
「おばあちゃんの葬儀があるから、ゆっくり考えるといいわ。
お父さんは葬儀に呼ぶつもりもないから……。呼んでも意味のない事だわ」
母はおばあちゃんの手紙を畳んで上着のポケットに閉まった。
玄関から戸を叩く音がする。
「〇〇〇〇葬儀屋です。」
母は玄関に向かうと、戸を開いた。
「あやめ、おばあちゃんの所に行ってなさい。お母さんは大丈夫だから……」
「分かった……」
あやめは襖を占めて、おばあちゃんの亡骸の横に座った。蚊取り線香の臭いがする。
欄間から母と葬儀屋の話が聞こえる。気丈に母は対応しているようだ。




