第二話 雨上がりの絶望と灰色の首輪
【読者の皆様へ※閲覧注意】
このお話には物語の展開上、土砂崩れや水害など、自然災害に関する描写が含まれています。苦手な方や心身の体調に不安のある方はお控えいただくか、ご注意の上お読みください。
――鳥の囀りさえも聞こえない、静かな朝だった。
昨日までの雨雲は、まるでなかったかのように過ぎ去り、西方に少しだけ夜の気配を残した空だけが広がっている。
山に囲まれたこの小さな村は、空が白み始めてから、日が昇り村を照らし出すまでの時間が長い。
高台にある僕の家の前にクロヴィスと手を繋いで並び立ち、その瞬間を待つ。
山の稜線が輝き出し、差し込んだ光が救いようのない村の惨状を僕たちに見せつけた。
「……あ……あ、あ、あぁぁ……」
足元から迫り上がってくる絶望に、押し出された空気が喉を震わせ、ただ意味を持たない音となる。
崩れ落ちそうになる僕を、クロヴィスの逞しい腕が抱き支える。
――腕の中から見る村の光景。
剥き出しになった山肌――
岩や泥、瓦礫に覆われ消滅した川――
土砂に埋もれた畑――
ジョナス爺さんの家も、山の斜面や川沿いに点々と建っていた家も、一軒も見えない。
それらがあった場所には薙ぎ倒され折れた大木や、遠くからでもそれとわかる巨岩が転がっている。
「……助けなきゃ」
クロヴィスに支えられながら、よろめく足で村だった場所へと向かった。
――そこにはもう、僕の見知った村は存在しなかった。
生まれ育った村。
この世界に混ざり込んだ異物のような僕。
そんな僕とこの世界を結ぶ、細くても唯一の繋がりだった、小さな村。
僕の薬師としての師匠でもある母が手入れをしていた薬草畑も――
可愛らしい花が揺れていたジョナス爺さんたちの家も――
この村にはもう年寄りしかいないからと僕のことを孫のように気にかけてくれていた村人たちも――
――全て。
土砂に流され、埋もれ、なくなってしまった。
誰かこの災いから逃れられた人はいないかと、まだ助けられる人はいないかと、岩や瓦礫の間を彷徨うように歩き、クロヴィスの嗅覚を頼りに探し回った。
土に埋まり、木や岩に挟まれた人も見つけた。
――けれど。
誰一人生きている者はなく、掘り出し埋葬しようにも、僕たち二人では大木や巨岩を動かすことができない。
立ち尽くすことしかできなかった。
何もできない無力感に苛まれ、心細く立っていることもやっとだった。
――なくなった。
喪失感から、急激な孤独感に襲われる。
宙に放り出されたような感覚に眩暈が止まない。
僕がもっと早く、山や川の異変に気付いていれば……
もっと早く避難してもらっておけば……
絶え間ない後悔が押し寄せ、その重みが胸を締め付ける。
こんな独りぼっちになった世界でどうやって生きていけばいいのかわからない。
頬を幾筋もの涙が伝い落ちる。
地面に膝をつき、全てを奪った土砂を握りしめ、理不尽さへの怒りや行き場のない焦燥感、自責の念、何もかもがぐちゃぐちゃに混ざり合ったやり場のない感情に、慟哭するしかなかった。
「――いっそ、みんなと一緒に土砂に押し潰されていれば……」
そう声を絞り出した時、僕の世界は反転した。
クロヴィスによって、仰向けに泥の中へと転がされ、掴まれた両手首は頭の上に押しつけられた。
彼は僕の上に跨り、この世界に縫い止めるように地面に組み敷いてくる。
背中を打ちつけた痛みに顔を顰め、見上げたそこには、昨日までの雨雲が嘘のように去った雲一つない青空と、逆光で表情の見えないクロヴィスの顔。
雨は降り止んだのに、僕の顔には温かい雫がぽた、ぽた、ぽたと落ちてくる。
「アズ、オレを見ろ! どこへも行くな! オレがいるだろ? オレがアズの鎖になってこの世界に繋ぎ止めてやる!」
悲しみが滲み、だが、決意に満ちたクロヴィスの声が耳に届き、僕は我に返った。
日は徐々に空の高い場所へと昇り、強い輝きとなって僕の視界を灼く。
僕はその眩しさに目を細めた。
「――それでも、もしこの世に居場所が無いって思うのなら、オレがアズをこの世界から消してやる」
静かに告げられる言葉に、僕は救いを与えられたと安心感を覚え、微笑んだ。
クロヴィスは手首を押さえつけていた両手を離し、僕の首を優しい手つきでするりと撫でる。
そしてそのまま首の周りに手のひらを沿わせ、軽く力を込めた。
「――アズ。その時はオレも一緒に行く」
首に回された温もりは、まるでどこにも行けないようにつけられた首輪のようだと感じた。
「――だからアズ。まずはこの世界にアズの居場所があるかどうか探しに行こう?」
僕に降り注ぐ、温かなもの。
それはクロヴィスの瞳から零れ落ちる涙だけではなく、クロヴィスの心そのもの。
「……わかったよクロ、泣かないで?」
僕は手を伸ばし、泥に汚れごわついた灰色の毛並みを撫でつける。
仔犬の頃の面影を残した、雨上がりの澄んだ空色の瞳で僕を見つめながら、手に頬を擦り寄せてきた。
僕は寝転んだまま、クロヴィスを抱きしめる。
「クロ、一緒にいてくれてありがとう」
クロヴィスは抱きしめられたまま、スピスピと鼻を鳴らした。
この日、クロヴィスは僕のそばを離れようとしなかった。
僕は旅の支度をする。
しばらくは歩きの旅になるだろうから荷は多く持たない。
金貨二十枚と小銭、最低限の服と、薬草や薬。
それに調剤道具と薬草学の本。
食器やテント、敷物を合わせると、結構な荷物になった。
両親の思い出の品もそれぞれ一つずつ。
父の思い出の品は、半透明の小さな石が付いた指輪。
母の思い出の品は、彫刻の施されたくすんだ金属の指輪。
どちらもたいした価値はないだろうが、両親がとても大事にしていた物なので持って行くことにした。
僕の指に、父の指輪は少し大きい。だが母の指輪を重ねてはめると、ピッタリと収まった。
旅の出発は明日の朝。
僕が旅に出ている途中、両親が帰ってくるかもしれない。
両親に宛て、手紙を書いておくことにした。
村を襲った昨晩の出来事と、友達のクロヴィスと一緒に旅に出ることを記し、戸棚にしまう。
ここならきっと母さんがすぐに見つけてくれるだろう。
夕食は、残っていた食材をなるべく使い切るように作ったので、とても豪華になった。
僕一人ではきっと食べ切れなかっただろうけど、クロヴィスはお腹が減っていたのか残さずに食べてくれた。
まだ残っている材料は明日の朝の分。
――夜がやって来た。
昨晩とは違い、窓の外には月明かりに照らされた木々の影が見える。
それでも、またどこからか恐ろしいものに襲われるのではないだろうかと、血の気が引き、身体が震えだした。
「アズ、大丈夫だ。オレがいる」
そう言って僕を抱きしめ、背中を撫でるクロヴィス。
底の見えない恐怖に引き摺り込まれそうな僕は、そこに落ちてしまわないよう、彼の服にしがみついた。
伝わってくる鼓動と体温に安心感を覚え、震えは少しずつ治ってくる。
「アズ、今日は疲れただろ。もう眠ったほうがいい。側にいるから」
クロヴィスに促され、二人で寝室へと向かう階段を上った。
ベッドに入れられ、布団を掛けられてもクロヴィスから手を離すとまた恐怖に襲われ、震えだす。
僕はクロヴィスの服を離すことができなかった。
「ベッド、狭くなってしまうけど一緒に寝てもいいか?」
首を少し傾げ、フサフサした尻尾を大きく左右に振りながら、そう言ってくれるクロヴィスに、僕は小さな頷きを何度も返す。
この寝台は大きめなので、二人で並んでも眠れないことはない。
クロヴィスが小さかった去年までは、遊びに来た彼と二人で寝ていた。
僕は壁際に少し寄って、クロヴィスのために場所をあけた。
その場所に横になった彼は、大きく成長してしまったので少し窮屈そうだ。
「やっぱりちょっと狭いね」
「こうしておけば落ちないから大丈夫」
クロヴィスは少しいたずらっぽくそう言って、僕に腕と尻尾を巻きつけてきた。
「しっぽ、触ってもいい?」
クロヴィスは返事の代わりに、パタパタと二度尻尾を振った。
クロヴィスの尻尾を胸元に抱き込み、温もりとその柔らかな手触りを楽しむうちに僕はいつの間にか眠りに落ちた。
――朝、鳥の囀りで目が覚めた。
山の異変でどこかに逃げ隠れていた小鳥たちが戻ってきていた。
僕の頬を静かに涙が伝う。
戻るものと、戻らないもの――。
戻すことができないのならば、立ち止まって振り返りながらでも、少しずつ先に進もう。
そのために、旅に出ることにしたのだから。
キュッと拳を握りしめる僕の手に、白の混じった美しい灰色の毛並みがパタパタと優しく触れる。
「おはよう、クロ。窮屈だったと思うけど、眠れた?」
「うん。アズは眠れたみたいだね」
「クロが一緒にいてくれたから眠れたよ。ありがとう」
そう伝えて、耳の根元をわしゃわしゃと撫でると、気持ち良さそうに鼻を擦り付けてきた。
「アズ、朝ごはん作るの?」
「うん、作るよ。お腹空いたの?」
夜にあれだけ食べたのに、よく動く分お腹が空くのだろうか?
「お腹は空いたけど、アズが生きるためにご飯を作って食べようっていうのならば、少し離れても大丈夫かなって。オレも荷物を取ってくるよ」
いつもはピンと立っている耳が、今は心配そうに伏せている。
「大丈夫だよ、朝ごはん作って待ってるから。――あ、ジョナスさんの家の庭に植えられていた白い花はわかる?」
「わかるよ、山でもあの花が咲いてる」
「お願いがあるんだけど、三株ほど根元から掘り起こして持って来てくれないかな?……みんなのお墓も作れないから、墓標代わりに家の前の村全体が見渡せるあの場所に植えたいんだ」
「うん、わかった。じゃあ、行ってくる」
僕が朝ごはんの支度をして、余った食材をパンに挟んで持って行こうと包んでいる時に、クロヴィスは荷物と花を持って帰ってきた。
クロヴィスの棲家は、この家の裏にある森を二十分ほど走ったところに位置する崖の上にあるらしい。
途中まで連れて行ってもらったこともあるのだが、深い谷を飛び越えないと行けない場所だったので断念した。
「ありがとう、クロ。ごはんの前に、先に花を植えてしまおう」
家の前の村が見渡せる場所に花を植え、水を撒く。
適度に木陰のある場所なので、根付けば世話をせずとも元気に育ってくれるだろう。
家に戻り、香味野菜を浮かべた芋のスープ、豚の塩漬け肉を豆やトマトと一緒に煮たもの、それにチーズを挟んだパンを添えた朝食を済ませた。
片付けた後、しっかり戸締まりをして家を出る。
家の鍵を掛ける時、この場所を離れる寂しさが胸に押し寄せてきた。
――ああ、僕はこの世界の異物だと思い込んでいただけなのかもしれない。
だって、ここは確かに僕の『家』なのだから。
僕はガチャリと家の鍵を掛けた。
それと同時に胸の奥でもガチャリと僕とこの世界が繋がる音がした。
まだ頼りなくはあるが、確かな繋がりを感じた。
先ほど植えた白い花が風に揺れるのを見ながら、この小さな村で肩を寄せ合うように暮らしていた十八人の村人たちの顔を思い浮かべる。
――どうか、みんなの眠りが安らかでありますように。
僕たちは膝をつき、魂の平穏を祈り、立ち上がった。
「――行こう」
こうして、僕たちは新しい居場所を見つけるために、旅に出た。
物語のプロローグとなる【第一話】【第二話】をお読みいただき、本当にありがとうございました。
次回からは村を出た二人が、街へ向かう旅路、そして二年前の彼らの出会いのお話へと続きます。
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