第一話 降り続く雨と色のない僕
【読者の皆様へ※閲覧注意】
このお話には物語の展開上、土砂崩れや水害など、自然災害に関する描写が含まれています。苦手な方や心身の体調に不安のある方はお控えいただくか、ご注意の上お読みください。
「――あ、」
カクン、と落ちるような感覚に僕は驚き目を開いた。
治療をしている患者の投薬経過記録を整理している途中、机に頬杖をついた姿勢のままで、少し眠ってしまったらしい。
開いたままの記録帳にインクやペンを落としてしまわなくてよかったと、ほっと胸を撫で下ろした。
それほど長い時間、眠っていたわけではないのだろう。眠りに落ちる前に、短くなってきたのでもう少ししたら取り替えようと見ていた蝋燭はまだ燃え尽きてはいなかった。
いつもであれば、窓から差し込む月明かりや星明かりで、たとえ蝋燭の灯りがなくとも室内にある家具の輪郭がわかるほどには明るい。
しかし、今日の空は分厚い雨雲に覆われ、わずかな明かりも届かなかった。
この火が消えてしまえば、自分の存在すらわからなくなってしまうほどの暗闇に飲み込まれる。
僕は急いで机の引き出しから新しい蝋燭を取り出し、火を移した。
外ではまだ容赦のない雨が降り続いている。
止む気配のないそれは、屋根や窓を打ちつけ絶えず激しい音をたてていた。
この世界の何もかもがその凄まじい雨音にかき消され、隔離された部屋に一人取り残されたようで募る心細さに小さく身を震わせる。
そんな弱気を隠すように、羽織っていた大きな厚手のガウンの襟をかき寄せ、ピッタリと身を包んだ。
このガウンは二年前、僕が十五歳の時に母と共に行方不明となった父が愛用していたものだ。
しばらくすると机で居眠りしたことで冷えてしまった体も温まり、気持ちも落ち着いてきた。
僕は書きかけで止まっている投薬記録のページをペラペラとめくり、日付の横に記入した天気をたどる。
――雨が降り出したのは、ちょうど一週間前。
猟師だったジョナス爺さんが具合を悪くした日からだ。
ジョナス爺さんの家は、村の中を流れる小川のすぐそばにある。
古いけれど手入れが行き届いた建物で、庭には奥さんのマーサおばさんが世話をする可愛らしい花が咲き誇っていた。
「この花は主人がプロポーズの時に贈ってくれた花なんだけど、あの人ったら根っこごと山から引き抜いてきたのよ」
若き日の思い出を笑いながら語るマーサおばさんの顔は、四十年共に過ごした今でも変わらない幸せに満ちていた。
誰かと縁を繋ぎ、その人と共に長い時を過ごす。
――それは、一体どんな感覚なのだろう。
ほんの少し羨ましいような気持ちもある。
けれど僕には、世界との間に一枚のガラスが嵌め込まれているような、不自然な現実感のなさがずっと付きまとっていた。
川沿いと、山の斜面に数軒の家が建つだけのこの村で、僕は生まれ育った。
村の人たちのことは全員知っているし、毎日普通に接している。
それなのに僕の心はいつも、この世界の住人ではないような冷たい孤独感の中にあった。
違う世界で生きていたようなぼんやりとした記憶――
それがあるために、僕はこの世界の異物なのだろう。
一昨日、ジョナス爺さんの診察に行った時、庭の思い出の花は雨粒に打たれ項垂れてはいたが、川はそれほど増水していなかった。
――けれど、
鳴り止まぬ雨の音が不安を煽り、心配は澱のように胸の底に溜まっていく。
雨は激しいが、風はない。
「よし、川の様子を見に行って、もし水が増えて危ないようならば、ジョナス爺さんや村のみんなに声を掛けて、この家に避難してもらおう」
以前は村長が住んでいたこの建物は、古いが部屋数はある。
そこを購入した両親が行方知れずとなり、一人で暮らすようになってからも掃除をして風を通しているので、布団さえ出せばすぐに使ってもらえる。
ランタンに火を灯し、雨用の上着を羽織って外に出ようと、玄関のドアノブに手をかけた。
――ミシリッ。
家が鳴った。
続いて遠くから押し寄せて来るような地鳴り。
窓ガラスが震え、掴んだドアノブからはビリビリと確かな振動が伝わってくる。
本能的な恐怖に身を竦ませた時――。
山が咆哮をあげた。
僕は、突き上げられるような不安に突き動かされ、家の外へ飛び出した。
雨で霞む視界の先、川の上流に位置する山から不気味な音が響く。
大地に根を張っていた木々が裂かれる――悲鳴。
激しい雨の音すら掻き消すような何かが崩れる――轟音。
この夜の闇の中を、雨を突き飛び去っていく鳥の群れ。
村を見下ろす高台にあるこの家から、雲の切れ間に一瞬だけ見えてしまった。
――村を完全に飲み込まんとする、巨大な、黒い影。
耳の奥で心臓が鼓膜を激しく殴打する。
空気を求めて口を開くが、うまく息を吐けず短く吸うことしかできない。
胸に溜まるものを吐こうともがくが、臓腑がせり上がり締め付けられるような感覚が襲いくる。
瞬きも出来ず、やがて――
――僕は声にならない声で、絶叫した。
「――アズ、ダメだ!!!!」
衝動に駆られ、村へと走り出そうとした僕を、横から走り込んで来た影が抱き止めた。
森の中にある棲家から全力で走ってきたのだろう、彼の荒い息遣いと、冷たい雨に濡れた服越しにもわかる熱い体温と、僕がよく知る匂い。
「放せ! 行かなきゃ! 助けなきゃ! じゃないと――みんなが」
「ダメだ、アズ! 危なすぎる! それにもう――」
――間に合わない。
大きな彼の腕が、押し留めようと僕を強く抱きしめる。
腕の中で暴れる僕の耳元へと、悔しげに歯を食いしばりながら静かに告げられた言葉。
「どうして! まだ間に合うかもしれないじゃないか! 放せ! 行かせろよ!」
僕は顔を上げ、狼の獣人であるクロヴィス――クロを睨みつけるように見た。
「――だって、もう全部村は土砂に飲まれたんだ」
いつもはピンと立ったクロの耳は、今は力なく伏せられていた。
「――え? そんなの行ってみないとわからないじゃないか!」
僕の身体を強く抱き止める腕が微かに震え、濡れぼそった尻尾も地面につくほどに垂れ下がっている。
「オレには全部見えてる……川沿いの家も、山の斜面にあった家も……、アズの薬草畑も全部……」
僕には暗闇にしか見えないが、獣人であるクロの目には全てがはっきりと見えているのだろう。
瞬きを忘れた瞳に、前髪から流れ落ちる雨の雫。
霞む視界を拭うように一度まぶたを閉じてから、村へと目をやった。
暗闇は水滴で歪み僕には何も見えない。
震える唇からようやく言葉を吐き出すことができた。
「……嘘だ……」
その言葉を否定するように、クロは僕を抱きしめたまま首を横に振った。
心臓はなお一層激しく打ち、身体は強張ったまま崩れ落ちる。
僕は、濡れた草の上に膝をついた。
「それでも助けなきゃ」
僕は力の入らない足に、情けなくも震える拳を何度も叩きつけた。
ちっとも言うことを聞かない体を叱りつけ、少しでも早く助けに行こうと地面を這う。
止める彼の手を何度も払い除けようともがくが、クロヴィスのしなやかな筋肉のついた身体にかなうはずもない。
「――アズ。それじゃオレが行ってくる」
僕の上から、静かだが強い声が降ってきた。
「オレなら、この暗闇でも見えるし、鼻も利く」
決意を秘めたクロヴィスの瞳が、暗闇の中、銀の光となり僕を射すくめた。
「ダメだ! それはダメだ! クロ、クロヴィス! 危険過ぎる! やめて!」
この暗闇を、雨の中を、あんなにも恐ろしい音を響かせた山へと――
いまだ、不気味な唸りを上げる山。
何が起こっているのか、何が起こるのかもわからない場所。
そこへクロヴィスが、行く――。
その想像だけで胸が潰されそうな不安が押し寄せる。
止めようと必死に、泥と草の汁がついたままの汚れた手で、クロヴィスのズボンを掴み、腰に縋りついた。
指に力がこもらない。
クロヴィスの濡れた服の裾を指に絡みつけ引き止める。
そんな僕を見て、クロヴィスはゆっくりと膝をつき、安心させるように温かな手のひらを冷え切った僕の頬に添えた。
「――アズ、オレもアズのことが心配なんだ。日が昇ったらすぐ、一緒に村へ助けに行こう」
一言、一言区切りながら僕に言い聞かせる。
浅い呼吸を繰り返す僕を落ち着かせるように、クロヴィスは瞳を見つめ、ゆっくりと息を吸ってから、細く長く吐き出してみせた。
そうして、いつの間にか僕も、彼に合わせて呼吸をしていた。
僕の身体はようやく息を吐き出すことを思い出し、強張りがゆっくりと解けていく。
次第に思考も少しずつ落ち着きを取り戻してきた。
クロヴィスの服に絡めたまま強張っていた指も解け、手がぱたり、と地面に落ちる。
「アズ、このままここに座り込んでいたら身体が冷え切ってしまって、朝動けなくなるよ。だから、家に入ろう?」
首筋に鼻先を埋め、甘えるような声で囁くのは、僕が抱き上げ怪我の手当をしてやった二年前の仔犬のようなあの頃と変わらない。
しかし、狼獣人の成長は早い。
この二年の間であっという間に大きくなり、僕の背を追い越して大人の姿となった。
力が抜けたまま立つことのできない僕を軽々と抱き上げ、そのまま家の中へと向かった。
家の中に入る。
暗闇に慣れた目には温かな色をしたランプの仄かな明かりでさえ眩しく感じる。
しかし、初夏だというのに重く冷やりとした空気に、無意識に僕は腕を撫でさすった。
僕もクロヴィスも雨に濡れ泥まみれだ。
そのまま水場に連れられ、泥を洗い流し乾いた布で拭いてもらう頃にようやく立てるようになった。
乾いた服に着替える。
失った体温を取り戻し、濡れた身体を乾かすために、暖炉に火を入れた。
クロヴィスにも父の大きめのシャツとズボンを渡し、着替えてもらう。
ベッドから布団を引き剥がし、暖炉の前に広げ、クロヴィスと一緒にその上に座った。
「アズ、まだ寒い?」
背中から僕を抱きしめるように座り離れないクロヴィスに、止まらない僕の震えが伝わっているのだろう。
暖炉の熱と背中から伝わる体温に温められて、寒さはずいぶんと和らいだ。
だけど、震えは止まらない。
僕は身じろぎしてクロヴィスへと向き直り、縋り付くように背中へと腕を回した。
彼はフサフサとした尻尾を前に回し、ぱたりぱたりと軽く僕の腰あたりを優しく打つ。
僕たちは眠ることもできず、ただ音だけを聞いていた。
山鳴りも、叩きつけるような雨の音も次第に小さくなり、暖炉で薪が爆ぜるパチッ、パチという音と、二人の呼吸音、そして耳を寄せたクロヴィスの胸から刻まれる鼓動だけしか聞こえなくなった頃――
――とても静かな朝を迎えた。




