光の翼、闇を超えて②
リリアたちが退いたのを確認し、我は前へ視線を戻した。
そこに立つのは、かつてこの手で葬り去ったはずの存在――ヴァルギルス。
だが今の姿は、我が知る奴とは異なる。
かつての威容は失われ、今や残滓となってカケルの肉体を支配している。
……やはり、器としての適性が高かったのだろうな。
肉体と魂を呑み込み、なお顕現に耐えうるとは。
しかし、それが同時に奴の弱点でもある。
ヴァルギルスは完全ではない。
この器に依存している限り、カケルという存在を切り離せば、その力は瓦解する。
問題は、その境界をどう突くかだ。
「……始める前に、一つだけ問おう」
ヴァルギルスは鼻で笑い、黒き靄を纏った剣を肩に担ぐ。
「ふん。冥土の土産に答えてやろうではないか」
「カケルを召喚する時に用いた魔導書……あれは確かに何の変哲もない魔導書であった。お前の残滓の気配など、欠片も感じられなかった」
一拍置いて、問いを突きつける。
「――どんな細工をしていたのだ?」
ヴァルギルスは喉の奥から嗤いを響かせた。
「はっはっは! そんなことか!」
闇の靄が、愉悦を示すように揺らめく。
「貴様はただの興味本位で、あの書に手を出したと思っているだろうが……」
紅の光を宿した瞳がぎらつき、嗤いはさらに深まる。
「その実、貴様の意志そのものに余の力が働いていたのだ! 無意識の奥底に潜む『知りたい』『見たい』という欲望を媒介にしてな!」
我はわずかに眉を動かし、短く息を吐く。
「……なるほど。無意識のうちに、お前の手中にはまっていたというわけか。してやられた、というわけだな」
ヴァルギルスは誇らしげに嗤い、剣を構え直した。
「ふははは! それこそが余の真髄よ! 貴様のその好奇心すら、余を呼び覚ます糸となったのだ!」
我は漆黒の剣を構え直し、目の前の旧き魔王を見据えた。
「さて……これ以上の問答は不要だ。二度目の死をくれてやるぞ」
ヴァルギルス――かつてこの世界を闇で覆い尽くそうとした存在。
「ふん……笑止千万よ」
ヴァルギルスの口元に、歪んだ嗤いが浮かぶ。
その声音は地の底から響くように低く、耳の奥をざらつかせた。
「完全な姿となった余に勝てる道理などない」
紅蓮の炎に包まれた戦場に、その言葉が重く響き渡る。
「完全? 笑わせるな。お前は器に縋っているだけだ。己の力で立ってはいない」
我は冷ややかに言い放つ。
ヴァルギルスの紅の瞳がぎらりと輝き、闇が奔流のごとく溢れ出した。
「器だと? むしろ都合がよいではないか。余が望むのはただ、この世の支配。器など、使えれば何でもよい」
嘲笑と共に、黒い瘴気が周囲に満ちていく。
地面はひび割れ、炎が闇に呑まれるように揺らいだ。
世界そのものを塗り潰そうとする欲望。
その宣告に、我はただ冷ややかに目を細める。
「……やはり変わらぬな。力に溺れ、器を弄び、支配を謳う……だからお前は勇者に討たれ、そして我に仕留められた」
ヴァルギルスの顔が歪む。
怒りか、あるいは過去の敗北を抉られた屈辱か。
紅の瞳がぎらつき、周囲の空気が震えた。
「黙れぇ!!」
怒声と同時に、闇が爆ぜる。
炎と影が混ざり合い、戦場全体が震えた。
轟音が大地を揺らし、空に渦巻く黒雲が稲光を孕む。
ガギィィィン!!
闇と闇が、真正面からぶつかり合った。
甲高い金属音が炸裂し、剣と剣が火花を散らす。
刃の衝撃が空気を震わせ、石畳を砕き、砂塵を巻き上げた。
我は踏み込み、ヴァルギルスの剣を押し返す。
しかし、奴は獣のような膂力で再び剣を叩きつけてくる。
その一撃一撃は凄まじく重く、受け止めるたびに腕へ鈍い痺れが走った。
至近距離で交わす剣戟。
呼吸のたびに熱気が肺を焦がし、互いの視線が激しくぶつかり合う。
一合ごとに雷鳴のような音が爆ぜ、その余波が周囲の炎を揺らした。
だが、奴の剣を弾いた瞬間、その気配が霧のように掻き消える。
転移――直後、背後から殺気が迫る。
「ふん……」
我は振り向きざまに剣を振り抜いた。
刹那、我の背を裂かんと迫った闇の剣を受け流し、その軌道を逸らす。
火花が散り、耳を劈く金属音が響き渡った。
剣がぶつかり合った衝撃で、周囲の炎が大きく吹き飛ぶ。
ヴァルギルスの口元が歪み、再びその姿が掻き消えた。
「同じ手を繰り返すか」
今度は我が先に動く。
背後に転移の気配が集まる瞬間を、すでに読み切っていた。
即座に左手をかざす。
魔力が一気に収束し、空間が震えた。
「――砕けよ」
轟音と共に、紫紺の光が奔流となって迸った。
眩い閃光が戦場を染め上げ、闇夜の炎を呑み込みながら一直線に走る。
地面を深く抉り、石畳を巻き上げながら、凄まじい勢いでヴァルギルスへと襲いかかった。
直撃した奴の姿が光に呑み込まれ、爆風と砂塵が周囲に吹き荒れる。
やがて光が収束し、煙が晴れていく。
そこには、焼き裂かれた肉体が立っていた。
皮膚は黒く爛れ、骨が露出し、身体の一部は今にも崩れ落ちそうになっている。
――だが。
ぐじゅ、と肉が蠢く音が響いた。
闇が傷口を覆い、瞬く間に肉体を形作っていく。
失われたはずの腕も、引き裂かれた胸も、紫の残滓を纏いながら再生していった。
「……再生能力か」
我は剣を構え直し、唇に冷笑を浮かべる。
この程度では倒れぬと知り、むしろ闘志が研ぎ澄まされていくのを感じた。
奴の瞳がぎらりと輝く。
そして、戦場に高笑いが響き渡った。
「――無駄だ! 余の力は、この世の闇や負の感情が原動力となっている!」
我は剣を構えたまま、目を細めた。
この世から負の感情が消えぬ限り、奴の力もまた尽きぬということか。
「貴様の闇の力では、余を消し去ることはできん!」
ヴァルギルスは片手を大きく掲げ、紅い光を迸らせる。
「出でよ――我が眷属たち!」
地面が震動する。
幾筋もの亀裂が奔り、そこから次々と瘴気が溢れ出した。
紫黒の霧の中から、異形の魔獣が這い出してくる。
牙を剥く獣。
翼を広げる蝙蝠。
無数の眼を持つ虫。
槍のような尾を振るう蛇。
それは、かつてカケルが使役したものよりも遥かに数が多く、その姿も多種多様であった。
呻き声と咆哮が重なり合い、戦場が地獄と化していく。
圧倒的な数の魔獣を背に、ヴァルギルスは愉悦に満ちた笑みを浮かべた。
異形どもが一斉に雄叫びを上げ、こちらへと殺到する。
闇から生まれし魔獣の群れが、津波のごとく押し寄せてきた。
「来るがよい」
この程度の数を前に、怯む理由などない。
紫と黒の魔力が我が身を中心に膨れ上がり、周囲の空気を震わせた。
漆黒の刃を振るう。
紫黒の奔流が戦場を駆け抜け、迫り来る獣どもをまとめて断ち切った。
血飛沫が炎の中へ散り、焦げた臭気が鼻を突く。
それでも勢いは止まらない。
獣の群れが牙を剥き、我へと殺到する。
目の前へ躍りかかった大狼の顎を、迷わず薙ぎ払った。
紫黒の刃が走り、硬い骨ごと頭部を斬り裂く。
断末魔と共に鮮血が舞い、炎に照らされて赤黒く染まった。
背後から飛びかかる影――蝙蝠の群れ。
我は振り向きもせず、左手を払った。
魔力が弾け、紫黒の奔流が鞭のようにしなり、群れをまとめて叩き落とす。
翼を焼かれた蝙蝠どもが次々と地に落ち、やがて灰となって消えていった。
続いて、足元を這う蠕動。
無数の蛇が尾を槍のように尖らせ、我が足を貫かんと迫る。
我は地を踏み鳴らした。
足元から魔力が円環状に広がり、地面が爆ぜる。
衝撃に巻き込まれた蛇どもは弾け飛び、断末魔と共に霧散した。
その刹那、巨躯の獣が前へ飛び出す。
牙は柱のごとく、爪は鋼鉄の槍のごとし。
我は一歩踏み込み、刃を縦に振り下ろした。
紫黒の閃光が走る。
獣の巨体は抵抗する間もなく、真っ二つに斬り裂かれた。
腸が飛び散り、血が地を赤黒く染めた。
息をつく間もなく、背後から羽音が迫る。
我は剣を反転させ、振り向きざまに横薙ぎに払った。
漆黒の刃が弧を描き、迫り来る群れをまとめて斬り裂く。
甲高い悲鳴が空へ消えていく。
「ふん……」
なおも押し寄せる魔獣どもを前に、我は左手をかざした。
魔力を収束させ、光を一気に解き放つ。
轟音と共に奔流が戦場を駆け抜けた。
大地を抉る光線が一直線に走り、十数体の魔獣をまとめて呑み込んでいく。
それでも、魔獣は次から次へと溢れ出す。
だが、我は一歩も退かぬ。
斬り、貫き、焼き払い、粉砕する。
一太刀ごとに死を刻み、魔獣どもの屍を築き上げてゆく。
炎の中に立つ我が身は、血と闇、そして紫光に包まれていた。
――これこそが、魔王。
奴らがそう思い知るには、十分な姿であろう。
斬っても斬っても、数は尽きぬ。
群れを切り裂き、魔力で薙ぎ払っても、その空隙を埋めるように新たな魔獣が押し寄せてくる。
大地を揺らす咆哮は、絶えることがない。
「ぬっ……!」
突如、魔獣の群れを割って影が飛び込んできた。
ヴァルギルスだ。
闇を纏った剣が、我が頭上へと振り下ろされる。
我は瞬時に剣を合わせた。
激しい火花と共に衝撃が腕を突き抜け、その余波で周囲の魔獣が吹き飛ぶ。
「ぐははは!」
奴は笑いながら、間髪入れずに追撃を放つ。
拳に渦巻く闇が爆ぜ、大地を穿った。
破砕音と共に地面が割れ、我の足元を激しい衝撃が襲う。
我は跳ね退き、迫る獣を斬り払う。
ヴァルギルスの剣が再び振り抜かれた。
刃と刃が噛み合う。
その背後からは、牙と爪を剥いた魔獣の群れが迫る。
魔獣を屠りながら、ヴァルギルスの攻撃をも捌く。
一合ごとに体勢を崩され、我は数歩ずつ後退を強いられていった。
「どうした、アビス! 余と我が眷属を相手に、果たして持ち堪えられるか!」
ヴァルギルスの嘲笑が響く。
闇の奔流が唸りを上げて迫る。
我は息を整え、剣を構え直した。
――退くことは許されぬ。
ここで奴を屠らねば、ヴァルギルスと魔獣どもは我が眷属を蹂躙するだろう。
ならば、我がここで食い止めるまで。
押し寄せる魔獣を斬り伏せながら、ヴァルギルスの剣を受け流す。
だが、尽きることのない猛攻は、確実に我から余裕を奪っていった。
そして、四方から群がる魔獣どもが我が四肢に食らいつく。
牙が肉を抉り、爪が皮膚を裂いた。
紫黒の魔力を放って振り払おうとするも、数が多すぎる。
次々と身体へ群がる魔獣に動きを封じられ、ついに我が剣が止まった。
「終わりだ、アビス!」
ヴァルギルスが高らかに嘲笑し、剣を振りかざす。
だが――。
「……ふん!」
両目に紫黒の光が収束する。
次の瞬間、眩い閃光が一直線に迸り、ヴァルギルスの右腕を呑み込んだ。
「ぬぅっ!?」
肉が弾け、骨が砕け、奴の腕が跡形もなく消し飛ぶ。
支えを失った闇の剣が、無様に地へと落ちた。
その隙を逃す我ではない。
両足に食らいつく獣の頭を踏み砕き、腕に絡みつく蛇を斬り払う。
さらに魔力を全身から一気に放ち、群がる魔獣どもを吹き飛ばした。
「ちっ……だが、それがどうした!」
呻きながらも、ヴァルギルスは笑みを浮かべる。
右腕を失ったことなど意にも介さず、残された左腕に闇を纏わせた。
「ぬぅっ!」
奴が一気に間合いを詰める。
闇を纏った拳が、我の腹部へと叩き込まれた。
「ぐっ……!」
肺を押し潰すような衝撃に、身体がよろめく。
だが、怯むことはない。
「まだだ……!」
左手をかざし、すかさず魔力を放つ。
紫黒の光が一直線に奔り、ヴァルギルスの顔面すれすれを掠めた。
「おのれ!」
奴は舌打ちし、爆ぜる瘴気を纏いながら距離を取る。
我も体勢を立て直し、剣を構え直した。
互いに距離を取ると、戦場の空気はさらに張り詰めていった。
ヴァルギルスの笑い声が、その静寂を破った。
吹き飛ばしたはずの右腕が、蠢く闇に覆われながら再生していく。
さらに背から伸びた二本の異形の腕が大きく蠢き、奴の姿をより禍々しいものへと変貌させていった。
黒く爛れた筋肉が瘴気を纏って脈動し、その四本の腕には、岩をも砕かんばかりの力が漲っている。
「いよいよ大詰めといこうではないか!」
ヴァルギルスが吠え、四本の拳を同時に振り下ろす。
瞬時に剣を構え、迫る一撃を受け止めた。
漆黒の刃と闇を纏った拳が激しく軋む。
だが、残る三撃が大地へと叩き込まれた。
地面が砕け、凄まじい地響きと共に土煙が爆風のように吹き荒れる。
「……っ!」
足元から突き上げる衝撃に、肺の奥まで揺さぶられた。
咄嗟に身を翻すが、拳が巻き起こした風圧が肩口を掠めていく。
ただの打撃でさえ、この威力。
まともに受ければ、肉体ごと粉砕されるであろう。
だが、息をつく暇すら与えられぬ。
右から、左から、そして背後から――四本の拳が次々と殺到する。
拳が空を裂くたびに風圧が頬を切り、轟音が耳を打つ。
我は魔力を纏わせた刃で捌き、弾き、わずかな隙間を縫うように躱していく。
しかし、一撃を受けるごとに腕は痺れ、足は地を滑り、徐々に体勢を崩されていった。
遂に一撃、拳が鳩尾を掠めた。
直撃こそ免れたものの、凄まじい衝撃が腹の奥まで突き抜ける。
鈍痛に膝が揺らいだ。
だが、我が唇に浮かんだのは苦悶ではなく、笑みであった。
「……これしきで屈する我と思ったか!」
低く告げると、ヴァルギルスは愉悦に瞳を細める。
「ふはは! ならば次を見せてやろう!」
奴の背から伸びた異形の腕が、ずるりと形を変え始めた。
纏わりつく闇が凝縮し、瘴気が鋭い刃へと変貌していく。
一本、また一本と禍々しい剣が形を取り、やがて三本の闇剣が揃った。
その刃は炎の明滅を受けて鈍く紫黒に輝き、周囲の空気を震わせる。
「三方から一度に斬り裂かれる気分、味わうがいい!」
咆哮と共に、三本の闇剣が一斉に閃いた。
目で追うことすら困難な速さで、三筋の斬撃が我へと迫る。
我は刃を構え直し、全身に魔力を巡らせた。
直後、金属が噛み合う甲高い音が耳を裂き、激しい閃光が視界を白く染めた。
斬撃が同時に叩きつけられ、我が足元がさらに砕け散る。
凄まじい余波が地を這い、周囲の家屋を粉砕していった。
「ぬぅっ……!」
正面の一撃を受け止め、左から迫る刃を弾き返す。
残る右の斬撃を身を翻して躱し、すかさず紫黒の魔力を放って反撃に転じた。
刹那、闇と紫光が交錯する。
閃光が爆ぜ、轟音が戦場を揺るがした。
互いに一歩も退かぬまま、幾度となく刃を交える。
だが、数合を重ねるうち、奴の猛攻はさらに苛烈さを増していった。
三本の刃が舞うように襲い掛かり、我が剣を翻弄する。
ひとつを防げば、残る二撃がわずかな隙を狙って容赦なく迫る。
その刃が我が守りを捉え始めた。
肩を浅く斬り裂かれ、続く一撃が腹を掠める。
鮮血が散り、息が詰まった。
防いだとて、その余波だけで大地は裂け、身体の奥まで震わせる。
互いに譲らなかった均衡は、徐々に崩れ始めていた。
奴の笑い声が、闇に満ちた戦場へと響き渡る。
「終わりだ、アビス!」
ヴァルギルスの咆哮が轟く。
三本の闇剣が一斉に振り下ろされた。
正面、左、右――三方から致命の斬撃が迫る。
我は残る魔力を振り絞り、迎え撃つ。
だが、わずかに奴の刃が速い。
紅き光が煌めき、その切っ先が我が首筋を捉えかけた――その瞬間。
横合いから凄まじい衝撃が叩き込まれ、迫る刃を弾き飛ばした。
紫の閃光と共に、細い肢体が我の前へと割り込んでくる。
――リリアだ。




