血戦の果てに顕つ闇⑥
私は息を呑んだ。
だが、次に響いたその声は、私の知っているカケルのものではなかった。
低く、濁り、耳の奥をざらつかせるような、不気味な響き。
背筋に氷が這い上がる。
――これは、カケルじゃない。
違う何かが、彼の口を借りて、私の名を呼んでいる。
「余だ……」
ぞわりと空気が震える。
「余の名はヴァルギルス。かつて魔を統べていた、真なる魔王……」
目の前のカケルの瞳は、もはや彼自身のものではなかった。
紅い光が揺らぎ、深淵そのものを思わせる眼差しが私を射抜く。
「カケル……?」
その名を呼んでも、返ってきたのは冷酷な嗤いだった。
「ふふ……その名はもう、虚ろな器にすぎぬ。リリアよ。余を覚えているか?」
低く濁った声が、燃え盛る炎の中に響いた。
カケルの口が動いているはずなのに、そこに彼の面影はどこにもない。
闇に呑まれた瞳が紅い光を帯び、私を射抜く。
全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。
「……忘れもしないわ。仕えていたもの」
震えそうになる唇を引き結び、私は睨み返した。
心臓は早鐘のように鳴り、握りしめた拳に力がこもる。
かつて従っていた頃の記憶と、あの闇の王の姿が蘇り、吐き気にも似た恐怖が込み上げてきた。
「余への敬意は、忘れているようだがな」
冷たい声が、重い枷のように胸にのしかかる。
その一言だけで、かつて彼に縛られていた日々の絶望が蘇った。
「今はアビス様に仕えているからね。それに……」
私は息を整え、胸を焼くような痛みを押し殺す。
「あんたは、あの人の命を――」
「ああ、あの勇者か」
愉悦を含んだ声が、炎の轟きに重なって私を嘲弄する。
ヴァルギルスはわざとらしく口角を吊り上げ、嗤った。
「お前が愛したという、あの男のことだな」
胸の奥が強く締め付けられた。
「……知っていたの?」
「当然だ。愛ゆえに、お前は奴の命を奪えなかった」
ヴァルギルスの声は冷酷で、響くだけで心を削り取られるようだった。
「全く、下らん感情だ。おかげで余は奴に深手を負わされたのだから」
紅に染まった瞳が細まり、燃えさかる業火よりもなお濃い闇を宿す。
胸が張り裂けそうになる。
カケルの顔を借りて、私の最も大切な記憶を嘲笑する――それが何よりも耐え難かった。
「しかし、余は新たな肉体を手に入れたのだ!」
ヴァルギルスの声が高らかに響き渡る。
闇に包まれたカケルの姿は、もはや別人のようだった。
あの温かな背中が、今は恐ろしく冷たい影に覆われている。
「リリアよ。もう一度、余に仕えぬか? この肉体なら、貴様も満足であろう?」
ヴァルギルスが低く嗤う。
紅い瞳には、かつて私を縛り付けた圧倒的な支配と嘲笑が宿っていた。
そして、その口から吐かれた言葉は、あまりにも冒涜的だった。
「……お断りよ! カケルを――彼を返して!」
込み上げる恐怖を押し殺し、私は叫んだ。
彼の名を呼ぶ声は震え、涙に滲んでいた。
けれどヴァルギルスは、愉快そうに嗤うばかりだった。
「はっはっは! それは出来ぬな!」
カケルの声を借りているはずなのに、そこに彼の優しさは欠片もない。
「この男の肉体と魂は余が支配した! もうこの男は戻っては来ぬ!」
その言葉が胸に突き刺さる。
「そんな……」
膝から力が抜けそうになる。
心の奥底から冷たい闇が這い上がり、呼吸すら奪っていく。
信じたくなかった。
愛した人が、もう戻らないだなんて。
けれど、目の前の“彼”は確かにそう告げていた。
「余に忠誠を誓えぬのなら、仕方あるまい。ここで死んでもらおう」
奈落の底から響くような声とともに、ヴァルギルスの手に握られた闇の剣がゆっくりと持ち上がる。
炎に照らされてなお光を拒むその刃は、漆黒に染まりきっていた。
その切っ先が私へ向けられた瞬間、全身が強張る。
――怖い。
心臓が潰れそうなほど激しく脈打ち、喉から声すら出ない。
逃げなければと思うのに、身体は縫い止められたように動かなかった。
目の前にいるのは、愛しい人の顔をした“闇”。
その事実が、どうしようもないほど私の心をかき乱していた。
「その魂、余に捧げるが良い!」
宣告とともに、剣が振り下ろされる。
迫りくる暗黒の刃を前に、私は反射的に目を強く閉じた。
身体を貫く痛みを覚悟する。
耳に響くのは、自分の激しい鼓動だけだった。
「リリア!」
「リリアさん!」
ヴァネッサとエリシアの声が聞こえる。
けれど、私の身体は動かない。
全身を絡め取る恐怖が、生きようとする意志すら奪っていた。
――死ぬ。
ここで私は、終わる。
ギィィィンッ!
耳を劈く金属音が響いた。
衝撃とともに巻き起こった風が頬を打ち、炎を激しく揺らす。
……痛みは、来ない。
恐る恐る瞼を開けると――そこには、一つの影が立ちはだかっていた。
「……っ!」
炎の中、漆黒の衣を翻し、悠然と剣を構えるその背中。
燃えさかる地獄の只中にあってなお、その姿は微動だにしない。
重厚な威厳と圧倒的な力の気配が、辺りを支配していく。
決して折れぬ大樹のようなその背中は、恐ろしいほどに頼もしかった。
「アビス……様……」
震える唇から、かすかにその名がこぼれた。
絶望に沈みかけた私を庇うように、揺るぎない背中が立ちはだかっている。
そう、私の目の前に立っていたのは――魔王アビス様だった。
そして、振り返ることなく告げられたその一言が、世界を震わせた。
「――余の眷属に、指一本触れさせんぞ」




