↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
89/127

血戦の果てに顕つ闇⑥

私は息を呑んだ。

だが、次に響いたその声は、私の知っているカケルのものではなかった。


低く、濁り、耳の奥をざらつかせるような、不気味な響き。

背筋に氷が這い上がる。


――これは、カケルじゃない。


違う何かが、彼の口を借りて、私の名を呼んでいる。


「余だ……」


ぞわりと空気が震える。


「余の名はヴァルギルス。かつて魔を統べていた、真なる魔王……」


目の前のカケルの瞳は、もはや彼自身のものではなかった。

紅い光が揺らぎ、深淵そのものを思わせる眼差しが私を射抜く。


「カケル……?」


その名を呼んでも、返ってきたのは冷酷な嗤いだった。


「ふふ……その名はもう、虚ろな器にすぎぬ。リリアよ。余を覚えているか?」


低く濁った声が、燃え盛る炎の中に響いた。

カケルの口が動いているはずなのに、そこに彼の面影はどこにもない。


闇に呑まれた瞳が紅い光を帯び、私を射抜く。

全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。


「……忘れもしないわ。仕えていたもの」


震えそうになる唇を引き結び、私は睨み返した。

心臓は早鐘のように鳴り、握りしめた拳に力がこもる。

かつて従っていた頃の記憶と、あの闇の王の姿が蘇り、吐き気にも似た恐怖が込み上げてきた。


「余への敬意は、忘れているようだがな」


冷たい声が、重い枷のように胸にのしかかる。

その一言だけで、かつて彼に縛られていた日々の絶望が蘇った。


「今はアビス様に仕えているからね。それに……」


私は息を整え、胸を焼くような痛みを押し殺す。


「あんたは、あの人の命を――」


「ああ、あの勇者か」


愉悦を含んだ声が、炎の轟きに重なって私を嘲弄する。

ヴァルギルスはわざとらしく口角を吊り上げ、嗤った。


「お前が愛したという、あの男のことだな」


胸の奥が強く締め付けられた。


「……知っていたの?」


「当然だ。愛ゆえに、お前は奴の命を奪えなかった」


ヴァルギルスの声は冷酷で、響くだけで心を削り取られるようだった。


「全く、下らん感情だ。おかげで余は奴に深手を負わされたのだから」


紅に染まった瞳が細まり、燃えさかる業火よりもなお濃い闇を宿す。

胸が張り裂けそうになる。


カケルの顔を借りて、私の最も大切な記憶を嘲笑する――それが何よりも耐え難かった。


「しかし、余は新たな肉体を手に入れたのだ!」


ヴァルギルスの声が高らかに響き渡る。

闇に包まれたカケルの姿は、もはや別人のようだった。

あの温かな背中が、今は恐ろしく冷たい影に覆われている。


「リリアよ。もう一度、余に仕えぬか? この肉体なら、貴様も満足であろう?」


ヴァルギルスが低く嗤う。

紅い瞳には、かつて私を縛り付けた圧倒的な支配と嘲笑が宿っていた。

そして、その口から吐かれた言葉は、あまりにも冒涜的だった。


「……お断りよ! カケルを――彼を返して!」


込み上げる恐怖を押し殺し、私は叫んだ。

彼の名を呼ぶ声は震え、涙に滲んでいた。


けれどヴァルギルスは、愉快そうに嗤うばかりだった。


「はっはっは! それは出来ぬな!」


カケルの声を借りているはずなのに、そこに彼の優しさは欠片もない。


「この男の肉体と魂は余が支配した! もうこの男は戻っては来ぬ!」


その言葉が胸に突き刺さる。


「そんな……」


膝から力が抜けそうになる。

心の奥底から冷たい闇が這い上がり、呼吸すら奪っていく。


信じたくなかった。

愛した人が、もう戻らないだなんて。


けれど、目の前の“彼”は確かにそう告げていた。


「余に忠誠を誓えぬのなら、仕方あるまい。ここで死んでもらおう」


奈落の底から響くような声とともに、ヴァルギルスの手に握られた闇の剣がゆっくりと持ち上がる。


炎に照らされてなお光を拒むその刃は、漆黒に染まりきっていた。

その切っ先が私へ向けられた瞬間、全身が強張る。


――怖い。


心臓が潰れそうなほど激しく脈打ち、喉から声すら出ない。

逃げなければと思うのに、身体は縫い止められたように動かなかった。


目の前にいるのは、愛しい人の顔をした“闇”。

その事実が、どうしようもないほど私の心をかき乱していた。


「その魂、余に捧げるが良い!」


宣告とともに、剣が振り下ろされる。

迫りくる暗黒の刃を前に、私は反射的に目を強く閉じた。


身体を貫く痛みを覚悟する。

耳に響くのは、自分の激しい鼓動だけだった。


「リリア!」


「リリアさん!」


ヴァネッサとエリシアの声が聞こえる。

けれど、私の身体は動かない。

全身を絡め取る恐怖が、生きようとする意志すら奪っていた。


――死ぬ。


ここで私は、終わる。


ギィィィンッ!


耳を劈く金属音が響いた。

衝撃とともに巻き起こった風が頬を打ち、炎を激しく揺らす。


……痛みは、来ない。


恐る恐る瞼を開けると――そこには、一つの影が立ちはだかっていた。


「……っ!」


炎の中、漆黒の衣を翻し、悠然と剣を構えるその背中。

燃えさかる地獄の只中にあってなお、その姿は微動だにしない。


重厚な威厳と圧倒的な力の気配が、辺りを支配していく。

決して折れぬ大樹のようなその背中は、恐ろしいほどに頼もしかった。


「アビス……様……」


震える唇から、かすかにその名がこぼれた。


絶望に沈みかけた私を庇うように、揺るぎない背中が立ちはだかっている。

そう、私の目の前に立っていたのは――魔王アビス様だった。


そして、振り返ることなく告げられたその一言が、世界を震わせた。


「――余の眷属に、指一本触れさせんぞ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。