闇の誘い、過去が紡ぐ絆⑥
――瞼を開けると、部屋は闇に沈んでいた。
小さなランプの灯りが揺れ、炎の淡い橙が石壁に不規則な影を落としている。
「……カケル?」
かすかな声が耳を震わせる。
声の方へ顔を向けると、リリアがベッドの傍に座っていた。
赤い瞳はランプの灯を映し、細かく揺れている。
長い睫毛の先には、今にも零れそうな雫が溜まっていた。
それを見ただけで、どれほど心配をかけたのかが伝わってくる。
「リリア……」
名前を呼んだ瞬間、彼女は小さく笑みを作った。
けれどその笑顔は一瞬しかもたず、堰を切ったように涙が頬を伝った。
「……よかった。本当に……」
震える声とともに、俺の手を両手で包み込む。
細い指先が、縋るように俺の手を握りしめた。
その小さな温もりと、わずかな震えが胸に突き刺さる。
「……泣くなよ。俺はこうして生きてる」
なんとか軽く言葉を返すが、声は自分でも驚くほど掠れていた。
リリアは首を振る。
涙の雫が藍色の髪に落ち、ランプの灯りを受けてきらめいた。
「違うの……怖かったのよ。また……大切な人を失うんじゃないかって」
その言葉を聞いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
胸の奥に熱と痛みが同時に広がる。
けれど、引っかかったのは別の言葉だった。
「……また?」
思わず問い返す。
リリアの肩がぴくりと震えた。
その瞳が揺れ、リリアは涙に濡れた顔を伏せる。
その沈黙が、逆に答えを物語っていた。
「……昔、私には――」
絞り出すような声で、リリアが言葉を紡ぎ始める。
ランプの炎がわずかに揺れ、その横顔を照らした。
「私が……心から愛した人がいたの。勇敢で、まっすぐで……誰よりも強い人。でも……」
そこまで言うと、リリアは唇を噛み、堪えていた涙がまた零れ落ちる。
「その人は……もう、この世界にいないの」
部屋に流れる沈黙は、夜の闇よりも深かった。
――思い出す。
夜の海辺、寄せる波音を聞きながら、リリアがふと語った言葉。
あの時は深く聞けなかったけれど……彼女が言っていた『大切だった人』のことだと、今ならわかる。
「それって……あの時、海で話してくれた……」
俺の問いに、リリアの肩が小さく震えた。
伏せられた睫毛が、揺れる灯りに影を落とす。
「……昔のことよ」
声は掠れていたが、そこには隠し切れない痛みが滲んでいた。
「聞いてくれる?」
そう言って、リリアは静かに語り始めた。
◇ ◇ ◇
私は──いけない恋をしてしまった。
許されざる愛を、知ってしまったの。
彼と初めて出会ったのは、古びた教会だった。
疲れ果てて身体を休めていた彼を、私は奇襲した。
人間の勇者と、魔族の私。
敵同士で、本来なら殺し合うしかない運命だったはずなのに――。
けれど。
剣を振るい、傷を負って倒れた私に、彼はとどめを刺さなかった。
「……殺せない。君は、俺たち人間と、大して変わらないじゃないか。角や尾や翼が、一体なんの差になるっていうんだ」
信じられなかったわ。
情けをかければ、殺されていたかもしれない関係だっていうのに。
それでも彼は、私を生かしたの。
それからよ。
彼の旅の途中で、何度も顔を合わせるようになったのは。
もちろん、先代魔王の命令があったから、戦わざるを得なかった。
でもね――もう、本気で殺し合おうなんて、私たちは思っていなかった。
「また君か、リリア」
「ふん、次は負けないわよ。覚悟しなさい」
そんな他愛ないやり取りが、たまらなく愛おしかった。
……気づけば、彼を見る瞳は、戦う者のそれではなくなっていた。
サキュバスらしく、誘惑しようとしたこともあった。
淫らな夢を見せて、堕とそうとした。
けれど――夢の中でも、彼は変わらなかった。
まっすぐな目で、私を見つめて。
「こんな形でするのはよくない。君は、もっと純粋なはずだ」
その言葉が、胸に痛かった。
何度も手を伸ばしたのに、どうしても彼を堕とせなかった。
心の奥に潜む『本当の私』が顔を覗かせるたび、苦しくなった。
彼の笑顔を裏切ることなんて、できなかったから。
周囲の魔物たちは私を『欠陥夢魔』と笑っていたわ。
そのことを彼に打ち明けたら、彼はひどく怒ってくれたの。
敵であるはずなのに、私のために。
その優しさが嬉しくて、でも――同じくらい苦しかった。
……焚火の夜。
何度目かの戦いのあと、布一枚にくるまって、彼と寄り添った。
私はひとときの充足感に身を委ねていた。
もっと触れていたい。
もっと声を聞きたい。
もっと一緒にいたい。
そんなささやかな願いを抱きながら、彼の言葉に耳を傾けていたわ。
「魔王からの恐怖に怯えない、平和な世界にしたい。種族の垣根も、ない世界に」
夢みたいなことを、彼は真剣に語っていたの。
私は立場上、複雑な気持ちだったけれど。
……それでも、心から、素敵だと思った。
どうかこの時間が、終わらなければいい。
何度も、何度も、願った。
でも、運命は私の願いを、容赦なく踏みにじった。
先代魔王の前に立つ、彼の背中。
私もそこにいた。必死に叫んだ。
「行かないで……!」
けれど、声にならなかった。
彼は振り向き、優しく微笑んで、自分が首から下げていたペンダントを私に託した。
中央に小さな羽根をかたどった繊細な細工。
「自由に、幸せに飛び立ってほしい」
そんな願いを込めたものだった。
「心配いらないよ、リリア。君には、優しい世界を見せたいんだ」
そう言って、彼は一人、先代魔王へ立ち向かっていった。
そして……帰ってはこなかった。
私の手は、ただ空を切った。
触れたかった。
抱きしめたかった。
たった一度でいい。想いを伝えたかった。
――でも、もう届かない。
一体何がこの結末を招いたのだろう。
彼を止められなかったこと?
堕落させられなかったこと?
それとも……愛してしまったこと?
私は、何もできなかった自分を心の底から憎んだ。
時間だけが空虚に過ぎていく。
何も感じられず、ただ彼の不在だけが胸を蝕んでいった。
そして、新たな魔王……アビス様が先代を討った。
「お前に居場所をやろう」と。
そうして私は、あの方の傍に仕えることになった。
でも……心の奥底では、ずっと空っぽのままだったの。
◇ ◇ ◇
リリアの声が途切れ、静かな夜が戻った。
「……それが、私の過去」
彼女は震える吐息を漏らしながら、そっと視線を落とした。
手の甲で涙を拭う仕草はあまりにも弱々しくて、俺の胸を締めつける。
「……貴方が闇に呑まれそうになった時、貴方がもう、貴方じゃなくなる気がしたの」
その声は細く掠れていたが、確かな痛みを帯びていた。
彼女の指先が、シーツをぎゅっと握りしめる。
「どこか、私の手が届かないところへ行ってしまうような気がした……」
彼女は震える肩をすくめ、喉の奥で押し殺した嗚咽をもらした。
「それに、このまま目を覚まさなかったら……そう思うと、怖くて……」
しばらくの間、リリアは俯いたままだった。
やがて、リリアは自分に言い聞かせるように小さく笑った。
「……不思議ね」
その笑みは、どこか儚げに見えた。
「貴方と出会ったばかりの頃は、面白い人が現れたぐらいにしか思ってなかった」
俺の方をちらりと見て、少しだけ恥じらうように視線を逸らす。
頬がうっすらと紅潮しているのが、灯火の下でもはっきりわかった。
「でも、ずっと一緒にいるうちに……だんだん、貴方を違う目で見るようになっていたわ」
彼女の声は震えていたが、最後の言葉は確かに俺の胸を撃ち抜いた。
リリアの瞳が揺れながらも、まっすぐに俺を映していた。
鼓動が高鳴るのを感じながらも、その眼差しを正面から受け止める。
そして、抗えない衝動のままに彼女を抱きしめた。
「……カケル」
耳元で小さく呼ばれる声が、熱を帯びて震えていた。
「……俺だって……同じ気持ちだよ」
その瞬間、リリアの両腕が俺の背に回され、ぎゅっと力を込められる。
離れてほしくない――そう言われているようだった。
俺もまた、二度と手放したくないと強く思った。
その夜、俺とリリアは互いの想いを確かに通わせた。
言葉よりも強いぬくもりを感じながら、離れないと誓うように抱き合い、静かな夜を過ごした。
窓の外では月が白く輝き、やわらかな光が部屋に差し込んでいる。
その光に包まれながら、リリアの確かな想いを胸に刻み込んだ。
きっと、この夜の記憶が消えることはないだろう。
やがて言葉は途絶え、ただ互いの体温だけを確かめ合うように抱き合ったまま、まぶたが重くなっていく。
――不意に、旅の始まりの夜を思い出した。
あの時、同じ布団に並んで横になり、俺ばかりが意識してしまってなかなか眠れなかった。
リリアはどこか余裕の笑みを浮かべていて、俺だけが落ち着きを失っていたっけ。
けれど今は違う。
胸に抱く体温は、確かな絆の証であり、互いに求め合う想いの形だった。
その変化を噛み締めながら、リリアの髪を撫で、彼女の安らかな寝息に導かれるように目を閉じた。
あの時とは空気も想いも、なにもかもが違う夜だった。
◇ ◇ ◇
翌日、俺たちは白龍のいる神殿に再び呼び出された。
白く清らかな空間の中、彼女の黄金の瞳が俺を見据えていた。
「……まずは、礼を言わせてください。カケル。あなたがいなければ、黒龍を封ずる機会は訪れなかったでしょう」
「……俺なんかで、役に立てたのなら」
視線を落とし、気恥ずかしさを誤魔化すように呟いた。
しかし白龍は首を横に振った。
「いいえ。役に立った、などという言葉では足りません。あなたは大陸の均衡を救ったのです」
その言葉の重さを感じながらも、どうしても気がかりなことがあった。
「……黒龍の守り人、アンナロッテは……どうなったんですか?」
最後に見た彼女の姿が脳裏に焼き付いている。
必死に黒龍へ縋ろうとしていた、白銀の女剣士。
あれだけの傷を負って、命は助かったのだろうか。
白龍は一瞬だけ瞳を伏せ、それから静かに応じた。
「彼女は今、この神殿で療養しています。黒龍との契約は失われましたが……命に別状はありません」
「……そうですか」
ほっと胸を撫で下ろす。
だが同時に、別の不安が芽生えた。
黒龍に囚われていた心。
その執念が、再び彼女を何かへと突き動かすのではないか。
そんな俺の不安を察したのか、白龍はゆるやかに首を振った。
「彼女は今、我らの庇護下にあります。すぐに心を変えることは難しいでしょうが……私も、できる限りの手を尽くすつもりです」
白龍は瞼を閉じ、ひとつ深く息を吐いた。
その仕草からは、理を司る厳しさとは違う、どこか温かなものが感じられた。
「……それと、あなたの中に眠る闇の力ですが――」
白龍の声音は、先ほどよりもさらに低く、慎重な響きを帯びていた。
「私は一時的に、その暴走を抑える術を施しました。しかし……それはあくまで応急処置に過ぎません」
「……!」
隣のリリアが息を呑むのが聞こえた。
「あなたが再びその力を酷使すれば、制御を失い、いずれは己をも呑み込むでしょう」
その言葉に、胸の奥がひやりと冷える。
……俺の中に流れる先代魔王の力の一端。
それは、人を滅ぼし、この世界を混沌に陥れようとした先代魔王の力。
そんなものが自分の血肉に根ざしているのだと改めて突きつけられ、息が詰まるような恐怖が込み上げた。
いつか完全に呑まれ、自分が自分でなくなるのではないか。
そんな不安が、喉元を冷たく締め上げてくる。
けれど、だからこそ、ここで怯えて立ち止まるわけにはいかない。
仲間たちがいて、リリアがいて、守りたいものがある。
俺はそれを守るために戦うと決めたんだ。
「……わかっています。この力に、俺は負けません」
拳を強く握りしめ、言葉に力を込める。
「俺には……皆がいますから」
そう言って振り返ると、仲間たちの眼差しが一斉に俺へ向けられていた。
誰も言葉を発しない。
それでも、その眼差しからは俺を信じてくれていることが伝わってきた。
――そうだ。俺は一人じゃない。
胸の奥に残る不安が消えたわけじゃない。
それでも、皆がいてくれる。
その事実が、俺の心に確かな光を灯していた。
その光は、内に潜む不安や闇を振り払うように輝いている。
そして今、再び前へ踏み出すための力を、確かに俺に与えてくれていた。




