闇の誘い、過去が紡ぐ絆⑤
床に倒れ込んだアンナロッテの胸が、荒い呼吸に合わせて上下している。
広間を覆う静寂の中、ただ一人くすくすと笑い声を上げた者がいた。
黒龍だ。
「ふぅん……? ねぇ、わざと殺さなかったでしょ~? ……ほんと、甘いのね」
その声音は楽しげでありながら、残酷な棘を孕んでいた。
黒龍は倒れ伏すアンナロッテを一瞥する。
「それとも命を奪うのが怖いビビりちゃんなの~? そんな力を持ってるのに~?」
その言葉に、他の龍たちも俺へ視線を向ける。
血の滲む拳を見下ろし、深く息を吐いた。
「……俺は殺しはしない。たとえ、この力がどんなに強くてもな」
そう言った俺の視線は、自然とリリアへ向いていた。
彼女はじっとこちらを見つめ――ふわりと柔らかな笑みを浮かべる。
その笑みは、俺の決意を肯定するようで……胸の奥に熱が灯るのを感じた。
「はぁ~……つまんな~い!」
黒龍はあくび混じりに立ち上がり、ゆっくりとアンナロッテのもとへ歩み寄った。
「黒龍様……っ」
かろうじて意識を保つアンナロッテを、彼女は無造作に足蹴にする。
鈍い音が響き、アンナロッテの身体が小さく震える。
「このゴミが死ねばぁ、カケルと契約できたのに!」
吐き捨てるその声音は、笑っているのに残酷極まりなかった。
「黒龍ッ! 自分の守り人に何をしている! いい加減にしろ!」
赤龍が椅子を蹴る勢いで立ち上がった。
「会合は理を交わす場。暴力と嘲笑で貶める場所ではありません」
青龍も冷ややかに声を響かせる。
「……放ってはおけんが、下手に刺激すれば……」
黄龍は険しい顔で視線を逸らし、低く唸る。
「……白龍、どうするつもり?」
緑龍は息を吐き、白龍へ視線を投げた。
しかし白龍は答えなかった。
黄金の瞳をただ静かに黒龍へと向ける。
その沈黙は、今は静観するという意思表示のように思えた。
「……テメェ! 自分の守り人だろ! なんでそんな残酷になれる!」
怒鳴ってもなお、ふつふつと怒りが膨れ上がっていく。
拳に闇の力が滲む。もう抑えきれない。
その叫びに、黒龍が楽しげにくるりと振り向いた。
まるで子供が新しい玩具を見つけたかのように笑みを浮かべる。
「へぇ~……怒ったの?」
その声音は甘く、挑発的で、悪意に満ちていた。
「いいわ……遊んであげる」
黒龍はアンナロッテを足蹴にした姿勢のまま、余裕たっぷりに笑みを浮かべる。
迷わず転移した。
一気に間合いを詰め、闇の剣を振り下ろそうとする。
気づけば、黒龍の白く細い指先が俺の額に触れていた。
「……っ!?」
――バチンッ!
次の瞬間、デコピンが放たれる。
ただそれだけなのに、視界が爆ぜ、全身を雷鳴のような衝撃が貫いた。
「ぐあっ……!」
俺の身体はとてつもない勢いで後方に吹き飛び、床を転がる。
止まった時には呼吸が乱れ、意識が遠のきかけていた。
「カケル!」
鋭くも必死なリリアの声が耳を打った。
揺らぎかけていた意識が、一気に現実へと引き戻される。
――まだだ。ここで倒れるわけにはいかない。
血の味を噛みながら、軋む身体に力を込めて立ち上がった。
足は震えていたが、拳を握ると再び闇が応えるように滲み出す。
「……俺は、まだ終わっちゃいない」
黒龍は唇に指を当て、楽しげに目を細める。
「ふふっ……その顔、いいじゃない。もっと見せてちょうだい♪」
「来い……!」
掌を突き出し、闇の力を解き放つ。
黒き霧が渦巻き、そこから二体の魔獣が姿を現した。
獣のごとき咆哮を上げる四足の影と、黒き甲冑に身を包んだ騎士の影。
どちらも俺の力の具現だ。
「……行くぜ!」
剣を構え、魔獣たちと同時に黒龍へと襲いかかる。
しかし黒龍は、小首を傾げただけだった。
「ふふっ……そんな小細工で私に勝てると思うの?」
俺と魔獣たちの連撃が奔る。
獣の爪が、騎士の刃が、俺の闇の剣が黒龍を狙って重なり合う。
だが、彼女は舞うように軽やかに避けていった。
その表情には余裕しかなく、戦いそのものを楽しんでいるようだった。
「遅くて鈍くて……退屈ね」
そして、細い手が闇に染まる。
黒い瘴気を纏った掌が閃き、魔獣たちへ叩きつけられた。
「……消えなさい」
轟音と共に影が弾け、獣も騎士も悲鳴を上げる間もなく霧散していく。
一瞬にして、俺の切り札は消滅させられた。
「なっ……!」
目の前の光景に言葉を失う俺を、黒龍は嬉しそうに見つめていた。
「うふふっ、この程度じゃないでしょ? カケル♪」
(……まずい。このまま力を使い続けたら……!)
額を伝う汗が視界を曇らせ、胸の奥で焦りが膨れ上がる。
言葉にならない恐怖が込み上げてくる。
暴走の影が、確実に俺の中で蠢いている。
そんな俺を、黒龍は嬉しそうに覗き込む。
「カケル? ねぇ、早く“本気”を見せてよ」
囁く声は甘やかで、それでいて残酷に響く。
「力を解き放ちなさい。そうじゃないと、退屈で死んじゃうわ」
「……っ!」
拳を握りしめたが、どうしても踏み切れない。
暴れ出す闇を恐れて、足が竦んでしまう。
黒龍はそんな躊躇いをつまらなそうに眺め、肩をすくめた。
「ふぅん……まだきっかけが必要なのかしら?」
――深紅の瞳が、リリアを射抜いた。
「じゃあ……あそこのサキュバスを殺してあげましょうか?」
「――ッ!!!」
血が沸騰するような感覚に、全身が焼けつくようだった。
黒龍の言葉が落ちた瞬間、頭の中で何かが切れた。
(……リリアを……殺させてたまるか!)
胸の奥から、熱に似た感情が沸き上がる。
それは怒りでも恐怖でもない――殺意だった。
自分でも認めたくない感情が、しかし確かに俺を突き動かしていた。
全身を闇が覆う。
背後に黒い影が蠢き、やがて二本の巨大な腕が生まれ落ちる。
その両腕が、俺の殺意と同調するように震えていた。
「カケル……!」
リリアの声が届いたが、もう止められない。
「あはっ♪ そうこなくっちゃ!」
黒龍が嬉しそうに両手を叩き、その瞳を爛々と輝かせる。
「その顔、その力! ねぇ……もっと、もっと見せてよ!」
闇を纏った俺と、黒龍の視線がぶつかり合う。
「っらあああああッ!!」
闇の拳を振り抜く。
背後の黒腕が同時にうなりを上げ、連撃を叩き込む。
「きゃはっ♪ いいわねぇ!」
黒龍は楽しげに笑い、舞うように身体をひねってかわす。
それでも一撃は肩口をかすめ、彼女の黒衣が裂けた。
だが、黒龍の細い脚が俺の鳩尾を撃ち抜く。
「がっ……!」
息が詰まり、全身が痺れるほどの衝撃が走る。
「もっと! もっとよ!」
黒龍は瘴気を纏った拳を振るう。
殴るたびに、爆ぜるような衝撃波が生まれる。
俺も負けじと闇の剣を生み出し、斬撃を繰り出す。
闇の腕が追撃を重ね、殴撃と斬撃が交錯する。
拳と拳、闇と瘴気がぶつかり合い――轟音と共に広間全体が揺さぶられた。
「ぐっ……!」
足元の石床が砕け、ひび割れが周囲へ走る。
それでも黒龍は笑い続ける。
「もっと殺意を! もっと力を! その方がずっと“遊べる”わ!」
「……はぁ、はぁっ……!」
膝をつき、剣を杖代わりに地へ突き立てる。
息を吸うたびに胸が苦しく、喉は焼け付くように乾いている。
視界は揺れ、声を絞り出そうとしても、かすれた息しか漏れなかった。
「ふふ……もう限界?」
黒龍の声は甘やかで、どこまでも残酷だった。
答えられない。
唇が震えるだけで、声は空気に消えていく。
その沈黙を、黒龍は勝利の証と受け取ったのか。
「じゃあ残念だけど、これで終わりね!」
翼が大きく広がり、空気を切り裂く轟音が響く。
風圧が吹き荒れ、瓦礫が宙に舞った。
鋭い爪が光を反射し、巨大な影が覆いかぶさる。
ぎりぎりまで待つ。
胸を裂かれる寸前で、振り向いた。
――その刹那。
「……ここだ!」
迷わず、闇の剣を自らの腹へ突き立てた。
肉が裂け、腹の奥から鈍い痛みが全身を駆け抜ける。
刃は俺の身体を貫き、背中から突き出た。
普通の人間なら、即死だろう。
だけど俺には――再生がある。
この身を賭けても立ち上がれる。
だからこそ、この一撃を選んだ。
「……っ!?」
背後から、黒龍の息を呑む声が聞こえた。
だが、もう遅い。
突進の勢いを殺せないまま、黒龍が背中から突き出た刃へと飛び込む。
直後、闇の剣を通して重い衝撃が伝わった。
「ぐっ……あ、ぁぁ……!」
背後から苦悶の声が漏れる。
剣を握る手に重みが伝わり、黒龍を捉えたことを悟った。
――入った。
「……俺は、まだ……終わっちゃいねぇ……!」
血を吐きながらも、剣を握る手に力を込めた。
「な、何これ……?」
背後から聞こえた声からは、先ほどまでの余裕が消えていた。
「……まだだ!」
歯を食いしばり、突き立てていた剣を勢いよく引き抜いた。
血が飛び散り、闇の刃が唸りを上げる。
そして振り返りざま、拳を叩き込んだ。
「――っ!!」
黒龍の頬が跳ね、長い黒髪が舞う。
さらに闇の剣を振り下ろす。
刃と瘴気がぶつかり合い、火花のような黒光が広間を照らした。
「クク……やるじゃない……人間のくせに……ッ」
苦悶の声を洩らしつつも、黒龍の口元はかすかに笑みを残していた。
だが、その呼吸は確かに乱れ、先ほどまでの余裕は感じられなかった。
荒い息を吐きながら、剣を構え直す。
「……今です」
その時、清澄な声が広間に響いた。
声の方へ目を向けると、白龍は目を閉じ、胸元で両手を組んでいた。
その唇から、聞き取れない言葉が絶え間なく紡がれている。
――まさか、俺と黒龍が戦っている間、ずっと……?
床に刻まれた紋様が白光を放ち、強大な力が広間を包む。
空気が震え、眩い光が黒龍を中心に立ち上がった。
「っ、これは……!」
白龍の黄金の瞳が冷ややかな光を帯びる。
「理を乱す闇よ――その身を鎮め、眠りにつきなさい」
広間全体を覆うような荘厳な声とともに、封印の光が黒龍を呑み込んでいく。
光の柱に絡め取られながら、黒龍はなおも無邪気な笑みを浮かべていた。
「白龍、初めからこれが目的で!?」
驚きこそ滲んでいたが、その声音に焦りはない。
未だ戯れの最中にでもいるような余裕さえ感じられた。
白龍は一切の揺らぎを見せず、その瞳を細める。
「……貴方は理を乱しすぎたのです。しばし眠りにつきなさい」
封印の光はじわじわと黒龍を締め付け、闇の気配を塗り潰していく。
「あーあ、叱られちゃった」
黒龍は楽しげに肩をすくめ、血の滴る唇を歪めて笑った。
その余裕は恐ろしく、まるで自らの敗北すら“遊戯の一幕”としか思っていないようだった。
「……黒龍様?」
アンナロッテが震える声で呼びかけた。
目に涙を浮かべ、手を伸ばす。
「そーゆー訳だから、後はよろしくね」
黒龍は片目を細め、投げやりに告げる。
「そんな! 黒龍様!」
必死な声が広間に響く。
だが、黒龍はアンナロッテを鬱陶しげに睨みつけた。
「うるさいわね。会いたいなら自分でなんとかしなさい。……まぁ、そう簡単じゃないでしょうけど」
――残酷なまでに冷たい言葉だった。
アンナロッテは絶望したように顔を歪める。
そして黒龍は最後に俺へと顔を向けた。
「カケル? また遊びましょ?」
深紅の瞳が、愉しげに輝いている。
その眼差しに胸がざわついた瞬間、封印の光が一層強くなり、黒龍の姿は完全に呑み込まれた。
広間に残されたのは、余韻のように木霊する声と、重苦しい沈黙だけだった。
黒龍の気配は、完全に消えていた。
「……やったのか」
呟いた、その瞬間。
ズズズッ……と胸の奥で何かが蠢く。
黒い何かが、まだ身体の中に絡みついているかのように重い。
視界がぐらつき、脈打つ闇が血管を焼くように暴れ出した。
「ぐっ……あ、あぁ……!」
片膝をつき、こみ上げる吐き気と共に喉の奥から呻きが漏れる。
闇の剣が勝手に形を変え、刃の先が脈動するように震えていた。
背後に生じた闇の腕も俺の意思を無視して暴れ、空気を切り裂く音が響く。
「カケル!?」
遠くでリリアの叫びが耳に届くが、頭の中は黒いざわめきで塗り潰されていく。
――殺せ。
――壊せ。
耳元で囁くような声。
これは……黒龍の瘴気に触れて呼び覚まされた、俺の中の“力”なのか。
「やめろ……っ、俺は……!」
必死に抗うが、全身の血が逆流するような圧に飲まれていく。
繋ぎ止めていた意識が、闇に呑み込まれそうになる。
「カケルッ!!」
叫び声とともに、リリアが俺のもとへ飛び込んできた。
次の瞬間、細い腕が俺の身体を強く抱き締める。
「戻ってきて……! あなたは、そんな人じゃない!」
その声が、黒いざわめきに覆われていた意識へまっすぐ届く。
闇に呑まれかけていた意識が、かろうじて踏みとどまる。
(リリア……っ! 俺は……まだ……!)
ほんの一瞬、理性が戻った。
だが闇の奔流は止まらず、なおも身体の内側で暴れ狂う。
「――これ以上は危険です!」
白龍の声が広間を震わせる。
黄金の瞳が輝き、結界の光が降り注いだ。
光はリリアに抱かれた俺を包み込み、暴れ狂う闇を押し鎮めていく。
「……っ、はぁ……はぁ……!」
光に包まれる中、身体の内側で暴れていた闇がようやく鎮まっていく。
霞んでいた意識が少しずつ戻り、リリアの肩に額を押し当て、荒い息を吐いた。
リリアの体温が、最後の砦のようにそこにあった。
そして白龍の光が、なおも燻る闇を押さえ込んでいる。
まだ荒い息が止まらない俺を支えるリリアの手が、わずかに震えているのがわかる。
「……黒龍は眠りにつきました。けれど、この戦いが示したのは一つ――闇は理を踏み越え、人も龍も飲み込むという事実です」
赤龍は唇を噛み、青龍と緑龍はただ沈黙を守り、黄龍は重苦しげに視線を落とした。
白龍は続ける。
「人と龍の在り方を巡り、意見は裂けていました。けれど、この場で人と龍が共に闇へ立ち向かった――その事実は揺るぎません」
リリアが俺の肩を支えながら、そっと頷くのが視界の端に映った。
「人と龍は、共に未来を紡ぐことができる。私はそう信じます。そして、今日の出来事はその証となるでしょう。……ゆえに本日の会合はこれをもって終わりとします。各々、胸に刻みなさい」
白龍の黄金の瞳が、最後に俺をまっすぐに捉えた。
その眼差しから、戒めと、それでもなお向けられるわずかな希望を感じた。
やがて白龍の姿が霞んでいく。
意識が暗闇に呑まれ――世界は音もなく途絶えた。




