凍てつく大地と精霊の息吹④
何度目かの眠りだっただろう。
肩を軽く揺すられる感触に、うっすらと瞼を開ける。
目の前では、もこもこの毛並みに包まれたイエティ娘が、にっこりと俺を覗き込んでいた。
「カケル、そろそろ出発してもいいかも~」
まだ寝ぼけた頭に、その声が染み込んでくる。
周囲を見渡すと、皆すでに起きていた。
トーラは火のそばで防寒具を直し、リリアは手早く荷物をまとめている。
エリシアもすでに身支度を済ませていた。
どうやら、いつの間にか朝を迎えていたらしい。
外では相変わらず風が唸っているが、昨夜のような耳を裂くほどの荒れ方ではない。
息を吐くと、白い霧がふわりと立ちのぼった。
今日こそ氷の聖域へ向かう――そう思うと、自然と気が引き締まる。
皆の支度が整うと、最後に火の始末をして、小屋の扉を押し開けた。
途端に、冷たい外気が容赦なく肌を刺す。
それでも昨日の雪嵐に比べれば、風は幾分か弱まっていた。
「こっちだよ~」
先頭を行くイエティ娘が、軽やかに雪を踏みしめながら振り返る。
分厚い毛並みに覆われたその背中が、今はひどく心強い。
俺たちは彼女の足跡を一歩ずつ辿り、深雪を掻き分けて進んでいく。
足元の雪は昨日よりも硬く締まり、一歩ごとにギュッと音を立てる。
時折、氷の粒を含んだ風が横から叩きつけ、防寒具の隙間まで容赦なく入り込んでくる。
雪原を歩き続け、ようやく視界の奥にそれは現れた。
雪と氷に閉ざされた大地の中、聖域の入り口だけが異様な存在感を放っていた。
天を突くような氷壁には紋様が刻まれ、生き物のように光を脈打たせている。
近づくほどに、肌を刺す氷気が強くなっていった。
「……ここが、氷の聖域」
リリアが、緊張を滲ませた声で呟く。
「見ただけで骨まで冷えるぜ。こりゃ普通の場所じゃねぇな」
トーラは氷壁を見上げ、眉をひそめた。
「……この空気、ただの寒気ではありません。精霊の力が、乱れています」
エリシアは周囲を見回し、目を細めた。
「中に入れば、もっと強く感じるはずだよ~。でも……ここから先は、本当に気をつけてね~」
イエティ娘はそう言って、聖域の入り口を指差した。
「……行こう」
雪を踏みしめ、俺たちは氷の聖域の中へと足を踏み入れた。
中へ入った瞬間、外の寒気とは質の違う空気が肌を撫でる。
外とは違う、張り詰めた冷たさが肌の奥まで染み込んできた。
天井も壁も透明な氷でできており、青白い光が奥へと続く回廊をかすかに照らしていた。
「……きれい、ですけど」
エリシアの声が回廊に反響し、やがて静寂の中へ消えていく。
その瞳の奥には、わずかな不安の色も浮かんでいた。
「音が少ないわね。風も、雪も、ここじゃほとんど止まってるわ」
リリアが周囲を探るように視線を巡らせた。
外の吹雪が嘘のように、辺りは静まり返っている。
俺たちの足音だけが氷の床に硬く響き、まるで遠くから別の足音が返ってくるような錯覚を覚えた。
◇ ◇ ◇
回廊を抜けた瞬間、息が詰まる。
そこには、氷そのものが築き上げたような巨大な広間が広がっていた。
「……あれを見て」
その沈黙を切り裂いたのは、リリアの低い声だった。
視線の先、白く凍りついた床の上に、人影が二つ倒れていた。
近づくにつれ、それが雪と氷に半ば埋もれた人間だとわかった。
分厚い外套を着ているが、その身は不自然なほど硬直し、顔の半分まで氷に覆われていた。
俺は片方のそばに膝をつき、肩に手を置いて軽く揺すった。
返事はない。冷たく、硬い。
長い沈黙が、すべてを物語っていた。
「小屋にあった手記を書いたのって、この人たちかもしれないわね」
リリアは倒れた二人へ視線を落とした。
「……あそこを」
不意に、エリシアが広間の奥を指差した。
そこには巨大な氷の扉がそびえ、その手前の台座には青白く輝く球体が浮かんでいた。
「この先に……氷雪の精霊がいるのかもな」
俺たちは球体には触れず、そのまま扉へ向かおうとした。
だが、台座に半歩近づいた瞬間――球体が脈打つように明滅し、周囲の空気が震えた。
「……止まれ!」
反射的に声が出た。
背後で足音が止まり、皆の視線が俺に集まる。
次の瞬間、床や壁から氷片がひとりでに剥がれ落ち、次々と宙へ浮かび上がった。
それらは渦を巻きながら、球体の周囲へ吸い寄せられていく。
氷の破片はぶつかり合い、軋みを上げながら形を変え、やがて人の姿を象っていく。
現れたのは、女性を思わせる巨大な人型だった。
全身は鎧のような硬質な氷殻に覆われている。
「アイスゴーレム! やばいやつだよー!」
イエティ娘が半ば悲鳴のような声を上げ、広間の隅へ避難していく。
普段はおっとりしている彼女が、ここまで慌てる姿は初めて見た。
「……何人たりとも、ここを通すことはできない」
氷の巨人が、感情を欠いた冷たい声で告げる。
「こいつも……魔物娘、なんだよな?」
思わず、冗談めかして呟いた。
「そうね。でも……ちょっと大きいかも」
リリアが肩をすくめて、小さく笑った。
右手に闇を凝縮させ、剣を形作る。
背後ではエリシアが光の弓を構え、トーラも両の拳を打ち合わせて鈍い音を響かせた。
もう、言葉は必要ない。
「行くぞ!」
氷の拳が唸りを上げて振り下ろされる。
反射的に身を翻すと、凄まじい風圧が肩をかすめた。
直後、足元の氷床に拳が叩きつけられ、砕けた氷が煌めく飛沫となって宙を舞った。
「危ねぇな……っ!」
今度は空中に無数の氷の欠片が集まり、鋭い槍へと形を変えていく。
闇の剣を横薙ぎに振り、正面から迫る氷槍を弾き飛ばした。
背後から迫った一本は、リリアが魔力を込めた蹴りで粉砕する。
「油断しないで、カケル!」
「ああ、わかってる!」
「おらぁっ!」
トーラが巨体の懐へ踏み込み、拳を叩き込む。
しかし、分厚い氷装甲に阻まれ、巨体はほとんど揺らがない。
「硬えな。だけどまだまだぁ!」
それでもトーラは怯まず、続けざまに拳を叩き込んでいく。
巨体の胸部、その奥で瞬く光を捉えた瞬間、背後から弓弦を引く音が響いた。
「……あれです! あの球体が弱点です!」
エリシアが、氷の外装の奥で脈打つ球体へ狙いを定める。
あの核を狙えばいい――それはわかった。
だが、あそこまで分厚い氷に守られていては、正面から斬り込むのは容易じゃない。
……使うしかないのか。
胸の奥がざわつく。
背中から二本の異形の腕を生み出す、あの力。
あれを使えば、俺自身の剣と合わせて三方向から同時に攻撃できる。
あの分厚い氷装甲も、突破できるかもしれない。
「……チッ!」
歯を食いしばり、足を踏み込む。
背中の影が蠢き、二本の黒影の腕が伸びていく。
その手には、それぞれ黒刃が握られていた。
「――行くぞッ!」
ゴーレムの正面へ転移する。
巨体が反応し、俺を叩き潰そうと両腕を振り下ろす。
だが、その左側面からリリアが跳び込み、回し蹴りを叩き込んだ。
リリアの一撃で体勢が崩れた隙を逃さず、背後から伸びる二本の闇の腕を斜めに交差させ、一気に振り抜く。
――両足、切断。
鈍い破砕音と共に氷の脚が宙を舞い、巨体が大きく体勢を崩す。
さらに踏み込み、手にした剣をまっすぐ突き出した。
刃先は核の表面を覆う透明な氷にぶつかり、鋭い音を立ててひびを走らせる。
「トーラ!」
俺が声を張ると、拳を構えていたトーラがニヤリと笑った。
「任せろ!」
トーラは氷の床を蹴り、巨体の右脇へ滑り込む。
懐へ潜り込み、両の拳を胸部へ次々と叩き込んでいく。
ドガッ! バキィッ! ガンッ!
トーラが拳を叩き込むたび、核を覆う氷から白い氷屑が四方へ弾け飛ぶ。
それでもトーラは止まらない。
「おらぁぁっ!」
最後の一撃が、雷鳴のような音と共に核を覆う氷装甲を砕き飛ばした。
その奥から、青白く輝く核が露わになる。
「今だ、リリア!」
リリアは氷の残骸を踏み台にして跳躍する。
露わになった核へ、渾身の回し蹴りを叩き込んだ。
鈍い衝撃音が広間に響く。
しかし核は砕けず、表面に細いひびが一本走っただけだった。
着地したリリアが核を見上げ、口元に苦笑を浮かべる。
「……あら、案外しぶといのね」
「――これで終わりです!」
後方から、エリシアの凛とした声が響く。
弦の張り詰めた音と共に、白煌の矢が放たれた。
白い軌跡を描いた矢は、リリアの蹴りで生じた亀裂へ吸い込まれるように突き刺さる。
閃光が弾け、広間が一瞬、白く染まった。
バキンッ!
亀裂が一気に広がり、核全体が大きく震える。
それを中心にゴーレムの巨体が崩れ、砕けた氷塊が足元へと降り注いだ。
青白く輝いていた核も脈動を止め、その場に静止する。
氷の広間に、ようやく沈黙が訪れた。
「カケル!」
仲間たちがこちらへ駆け寄ろうとした、その時――
「来るな!」
俺の声に、皆の足が止まる。
背中から伸びた二本の異形の腕が、まだ消えていなかった。
二本の腕は、まるで別の生き物のように蠢いている。
(――消せ……消えろ……!)
強く念じる。
だが、二本の腕は消えるどころか、黒い輪郭を保ったまま蠢き続けていた。
焦りが胸の奥からせり上がり、額に冷たい汗が滲む。
<――もっと力を解き放て……壊せ……全て砕け散るまで……>
冷たい囁きが脳裏を満たす。
その声に呼応するように、胸の奥底から黒い衝動が湧き上がってくる。
(ダメだ……これ以上は――)
「カケル!」
はっとして顔を上げると、リリアが真剣な眼差しでこちらを見ていた。
「踏みとどまって。あなたは……私たちが知っているカケルでしょ?」
奥歯を噛みしめ、背中の異形の腕を押さえ込むように意識を集中させる。
(――消えろ……俺は、俺だ……!)
数拍の後、漆黒の腕が霧のように掻き消えていく。
それと同時に、胸の奥で渦巻いていた黒い衝動も少しずつ収まっていった。
「……よかった。あなたが戻ってきてくれて」
リリアの安堵した声を聞き、俺もようやく息を吐く。
強張っていた肩から、ゆっくりと力が抜けていった。
広間の床に転がる青白い核へと歩み寄る。
「……このゴーレム、死んじゃったのか?」
さっきまで命を懸けて戦っていた相手とはいえ、このまま壊れたまま放っておくのは、妙に後味が悪い。
リリアが隣にしゃがみ込み、核を覗き込む。
「……ひびが入っただけよ。まだ生きてるとは思うわ」
それを聞いたエリシアが、核の浮かんでいた台座へ視線を向けた。
「じゃあ、その台座にのせてみてはどうでしょう?」
エリシアの言う通り、青白い核を抱え上げて台座へと運ぶ。
そっと元の場所へ戻すと、核が光を放ち始める。
表面に走っていたひびも、少しずつ塞がっていった。
やがて核は光を湛えたまま、その動きを止める。
深い眠りに戻ったかのような様子に、俺たちはほっと息をついた。




