凍てつく大地と精霊の息吹③
翌朝。
窓から差し込む陽光が、白いカーテン越しに部屋を照らしていた。
外は相変わらず冷え込んでいるが、あの雪の咆哮はなく、静かな朝を迎えている。
ベッドに腰を掛けたまま、しばらく外の雪景色を眺めていた。
今日、俺たちはいよいよ氷の聖域――氷祠へ向かう。
昨日は、迷わず行くと決めた。
……だが、本当にそれで良かったのか。
無意識に自分の手を見つめていた。
山岳地帯での戦いが、脳裏に蘇る。
あの時、気づけば俺は暴走しかけていた。
赤黒く染まった視界。耳にこびりついた怒声。そして、止まらなかった拳。
トーラの怒声で、ようやく我に返ることができた。
だが、もしあの時、我に返れなかったら――。
握り締めた拳に力がこもる。
また同じことが起きたら。
今度こそ、自分の力を抑えられなかったら――。
そんな不安が、どうしても頭から離れなかった。
窓辺に立ち、拳を握った。
黒紫の靄が、指の隙間から滲み出す。
冷たさと熱さが同時に皮膚を走り、不快な感覚が広がった。
もう片方の手を開くと、闇が集まり、やがて一本の剣を形作った。
黒く濁った光を帯びたその剣は、何度見ても異質な存在だった。
軽く剣を構えてみる。異常はない。力も安定している。
制御できている――少なくとも、今は。
それでも、胸の奥の不安は消えなかった。
「……今は、な」
小さな呟きが、口をついて出た。
闇の剣が霧のように消え、指先を巡っていた熱も引いていく。
残されたのは、冷えた手と、心の奥底にこびりつく不安だけだった。
「カケル?」
控えめなノックに続いて、扉の向こうからリリアの声がした。
部屋から出るのが遅い俺を、迎えに来たのだろう。
「……ああ、今行く」
扉を開けると、リリアがこちらをじっと見つめていた。
穏やかな表情をしているものの、その瞳はどこか俺の様子を窺っているように見える。
「ちょっと寝起きでぼーっとしてただけだ。準備はできてる」
気取られないよう、わざと軽い調子で続ける。
……見透かされてるんじゃないか。
そんな考えを振り払うように肩をすくめた。
リリアは目を細め、唇の端を上げた。
「……無理だけはしないでね」
からかいでも、問い詰めでもない。
ただ俺を気遣ってくれているのが、その一言だけで伝わってきた。
「大丈夫だよ。ほら、行こうぜ。皆待ってるだろ?」
何でもないように笑ってみせる。
リリアもそれ以上何も言わず、踵を返した。
その背中を追いながら、小さく息を吐く。
……今はまだ、言えない。
話せば、皆を迷わせるだけだ。
◇ ◇ ◇
宿の広間には、すでに皆が集まっていた。
話し合った結果、寒さに弱いセレナ、ライア、ヴァネッサの三人は、都に残ることになった。
エルザは自分も行くと言って譲らなかったが、俺から残る三人を頼むと伝えると、しばらく黙り込んだ後、小さく頷いた。
こうして、氷の聖域へ向かうのは俺、リリア、エリシア、トーラの四人に決まった。
城から届けられた防寒具を身につけ、食料や簡易の野営道具をそれぞれの荷物に収める。
さらに女王の計らいで、道案内としてイエティの魔物娘が一人同行することになった。
白い毛並みに包まれた彼女は、俺たちを前に朗らかな笑顔を浮かべている。
雪原を知り尽くした彼女が一緒なら、心強い。
都を出てしばらくは、雲間から陽光が差し込み、雪も穏やかだった。
だが、進むにつれて空は厚い雲に覆われ、肌を刺す風も次第に強くなっていった。
氷の聖域へ近づくほど、天候が荒れているような気がする。
「……思ったより、風が強くなってきたな」
俺が声を張ると、隣を歩くトーラが鼻を鳴らした。
「この程度、まだ序の口だ。油断はするなよ」
「まるで、精霊が私たちを拒んでいるみたいね」
リリアがフードを押さえながら息を吐く。
その言葉に、前を行くエリシアも頷いた。
「……私も、先ほどから胸の奥がざわついています」
雪も静かに降るものから、横殴りに叩きつけるものへと変わった。
視界は白一色に閉ざされ、数歩先すら霞んで見える。
そんな中でも、先頭のイエティ娘は迷いなく雪原を進む。
「方向は……合ってるんだろうな?」
俺が半ば冗談めかして尋ねると、イエティ娘は振り返ってニカッと笑った。
「大丈夫、大丈夫! 雪の匂いが道を教えてくれるの!」
その自信たっぷりな笑顔に、ほんの少し肩の力が抜けた。
俺たちは防寒具のフードを深くかぶり、ただイエティ娘の背中を追った。
吹き付ける雪の音と、自分の呼吸だけが、世界のすべてになっていく。
しばらく雪原を歩き続けていると、吹きすさぶ雪の向こうに、ぽつんと黒い影が浮かび上がった。
真っ白な世界の中で、その黒い影だけがひどく目立って見えた。
「……あれ、小屋じゃないか?」
俺がかじかんだ指で遠くを指すと、イエティ娘が振り返り、ふわりと笑った。
「うん! 今日はあの小屋で休むよ~」
のほほんとした声色だが、その口調に迷いはない。
雪原を生きる者ならではの確信が感じられた。
「これって偶然かしら?」
リリアがマフラーに口元を埋めたまま、小首を傾げる。
「ううん、この辺りに小屋があるのは知ってたから~」
その言葉を聞いて、少し安堵した。
さすがは雪原で暮らすイエティだ。
この辺りの地理も知り尽くしているらしい。
「でも、まだ暗くなってないぞ?」
トーラが怪訝そうに眉をひそめた。
頬にはすでに雪が張り付き、吐く息は白い靄となってすぐにかき消える。
「それじゃ遅いよ~。これからもっと底冷えが強くなるしね~」
イエティ娘の言う通り、さっきから空気の質が変わってきている。
風に混じる冷気が重さを増し、肌を容赦なく打ちつけてきた。
「……体力も……温存しないと……いけませんしね」
エリシアがそう言うたび、白い息が途切れ途切れに漏れる。
声もわずかに掠れていた。
それでも、凍てつく空気に晒されながら、彼女の表情は崩れない。
「そーそー。それじゃ早く行こー」
イエティ娘はそう言って軽やかに雪を踏みしめ、小屋へと歩を進める。
俺たちも互いに視線を交わし、重くなった足を動かして、その背を追った。
◇ ◇ ◇
小屋の扉を押し開けると、中もすっかり冷え切っていた。
外よりはわずかにましだが、それでも吐く息は白い。
足元には吹き込んだ雪が薄く積もり、板張りの床を白く染めていた。
中央には簡素な炉があり、白くなった灰の中で、かすかに赤い炭が一つだけ燻っている。
「……これ、最近まで誰かが使ってたんじゃないか?」
俺がそう呟くと、イエティ娘が炉の中を覗き込んだ。
「うん、たぶんね~。雪原でこんなの残ってるの、珍しいよ」
その言葉に、場の空気が引き締まる。
誰かがここにいて、そして今はいない――その事実が、妙な生々しさを帯びて胸に残った。
とにかく今は、この火を絶やさないようにしないと。
リリアが薪棚から乾いた木を取り出し、炭の上にそっと載せると、ぱちりと小さな火の粉が弾けた。
やがて薪に火が移り、橙色の光が壁や天井を柔らかく照らし始める。
外では雪を巻き上げる風が容赦なく小屋を叩いているが、その音さえ今は遠くに感じられた。
「ふぅ……やっと一息つけるな」
トーラが火元のそばに腰を下ろす。
白い吐息が次第に薄れ、その顔にもようやく安堵の色が浮かんだ。
「小屋がなかったら、どうなっていたかしらね」
リリアも火に向かって両手を差し出し、指先をこすり合わせる。
ほんのりと頬に赤みが差し、凍えていた身体にも少しずつ温もりが戻っていく。
「皆さん、食料です。少しずつ食べましょう」
エリシアが背負い袋から包みを取り出し、炉の周りに集まった皆に配っていく。
皆が自然と腰を下ろし、橙色の炎を囲んで身を寄せ合った。
乾いたパンや干し肉を手に、誰もが一口ずつ噛みしめる。
炎の温もりと食べ物の力が、凍えた体と心をゆっくりとほぐしていった。
ふと、視線を火元から外す。
壁際の棚に置かれた、古びた木箱が目に留まった。
蓋は半ば開き、その隙間から革表紙の冊子が覗いている。
手に取ってみると、革の表面はひやりと冷たかった。
だが、革の色はまだ濃く、わずかな光沢を帯びている。
新しさが残る一方で、角や背表紙は丸くすり減り、何度も開かれた跡が残っていた。
「……これは?」
俺の呟きに、皆の視線がこちらへ向く。
「それ、ここに来た人の持ち物か?」
俺が手にした冊子をしげしげと眺めていると、トーラが顎をしゃくった。
「多分……でも、ずっと放置されてたにしては、きれいな状態だな」
「最近まで誰かが使っていたのかもしれませんね」
エリシアがそう言って、身を乗り出して冊子を覗き込む。
その瞳の奥には、緊張が宿っていた。
「……あまりいい予感はしないわね」
リリアが押し殺すような声で呟いた。
その唇は、わずかに引き結ばれていた。
外では風が小屋の壁を叩き、木材がみしりと鳴る。
俺は無意識に、冊子を持つ手に力を込めていた。
ひとつ息を整え、膝の上で冊子を開く。
革の表紙が、ぎしりと小さな音を立てた。
筆跡は整っているものの、ところどころ急いで書いたように乱れていた。
黒いインクで綴られたかすれた文字が、灯火に照らされて浮かび上がる。
そこには、この手記の主が氷の聖域へ向かうために派遣された兵士であったこと、そして任務の途上で見聞きした異変が、断片的ながらも生々しく記されていた。
ページをめくると、初めの方は丁寧な字でびっしりと書き込まれていた。
出発前の準備や天候の様子が、淡々と綴られている。
〈聖域までの道のりは、もっと穏やかだと聞いていたが……状況は違った〉
〈雪が深く、風も鋭い。まるで聖域が近づく者を拒んでいるようだ〉
次のページでは、書く手が震えていたのか、筆跡がわずかに揺れていた。
〈氷雪の精霊の気配が、妙に荒れている。これまで儀式で感じてきたあの優しい温もりが、今はまるで……氷の棘のようだ〉
〈明日、この小屋を発って聖域に向かう。何事もなければいいが〉
そこまで読んだところで、記録は不自然に途切れていた。
最後の行には、滲んだインクでわずかに言葉が残されている。
〈もしこれを読む者がいるなら――〉
その先は、雪に濡れたように滲んで判別できなかった。
「なんだよ。気になる書き方しやがって」
トーラが鼻を鳴らし、手記を指で軽く突いた。
ページの端はまだわずかに湿っていて、触れた指先に冷たさが残る。
やはり、この手記がここに残されてから、そう長い時間は経っていないのかもしれない。
「これを書いた人が……ここに残したままということは……」
エリシアが不安げに眉を寄せ、俺の手元を覗き込む。
その先を口にしなくても、何を言おうとしているのかはわかった。
――誰も聖域から戻ってこなかった。
女王イゼリアから聞いた言葉が、脳裏によみがえる。
寒さとは違う悪寒が、じわりと背中を這い上がった。
「……これから先、もっと厳しくなりそうね」
リリアが火元の明かりを背に、ゆっくりと立ち上がる。
その瞳には、警戒の色がはっきりと宿っていた。
その言葉を肯定するように、外で風がひときわ強く唸った。
「……このまま全員で寝るのは、やめたほうがいいわね」
リリアがじっと炉の炎を見つめながら、真剣な声で言った。
「だな。この寒さだと、火が消えたり体温が下がったりして……最悪、目を覚まさないかもしれねぇ」
壁にもたれたトーラも、眉間に皺を寄せて頷いた。
「じゃあ、交代で見張りを立てるってことか?」
周囲を見回しながら口にした。
「わたしは寒さに強いから、ずっと起きてても平気だよ~」
イエティ娘が穏やかに笑い、白い毛に覆われた手をひょいと挙げた。
その様子は相変わらず飄々としているが、どこか頼もしさもあった。
「いや、君もずっと起きっぱなしじゃ疲れるだろ。全員で交代しよう」
そう提案し、炉の炎越しに皆の顔を順番に見やった。
その時、ふと元いた世界の話を思い出した。
「そういや、俺の世界に“スクエア”っていう都市伝説があってな」
「なんだそれ?」
トーラが片眉を上げてこちらを見る。
「四隅に一人ずつ座って、順番に相手の肩を叩いて回って、眠らないようにするんだけど……」
手振りを交えながら続ける。
「やってるうちに、誰もいないはずの場所から肩を叩かれることがあるって話だ」
「あっ、四人じゃ成立しないってことですね?」
エリシアが目を瞬かせ、首を傾げた。
「そう。そんな話を思い出してな」
そこまで話したところで、ようやく今の状況に気づいた。
「……あれ?」
皆は笑うでもなく、ほんの一瞬だけ沈黙に包まれた。
……どうやら、話すタイミングを間違えたらしい。
リリアが呆れたように息を吐き、俺を見る。
「カケル? こういう状況でする話じゃないわよ?」
「あー、いや。今回は五人いるから平気だろ。ははっ……」
軽く笑ってごまかすと、トーラが肩をすくめ、エリシアは小さく微笑んだ。
ぱちりと薪が爆ぜる音が、小屋の中に響く。
外では相変わらず風が唸っているが、張り詰めていた空気も、ほんの少しだけ和らいだ気がした。




