凍てつく大地と精霊の息吹②
翌朝。
目を覚ますと、真っ先に窓の外へ目を向けた。
昨日まで吹き荒れていた雪は止み、空は薄曇りながらも、遠くまで見渡せる。
風も弱い。これなら、外に出ても問題なさそうだ。
「……ようやく、だな」
そう呟いて身支度を整え、仲間たちの様子を確認しに部屋を出た。
セレナもライアも、まだ本調子ではないものの、自分で動ける程度には回復していた。
セレナも昨日までの青白さは薄れ、表情には余裕が戻っている。
「二人共、もう大丈夫なのか?」
俺が問いかけると、セレナはこちらに視線を向け、小さく息を吐いた。
「なんとかね。このまま寝てても仕方ないし、行きましょ」
その声にも、昨日のような弱々しさはない。
その隣では、ライアが腕を組み、眉をひそめていた。
昨日ほど顔色は悪くないが、まだ完全に疲れが抜けたわけではなさそうだ。
「だけど油断はできない。私たちの身体は冷えやすいんだから」
その言葉に、セレナも小さく頷いた。
「わかった。無理だけはしないようにな。何かあったらすぐ言ってくれよ」
まずは女王に会って、この雪の都で起きている異変の手がかりを掴まないとな。
◇ ◇ ◇
朝の光が雪の街を柔らかく照らしていた。
昨日の吹雪が嘘のように、今日は穏やかな空が広がっている。
空気は相変わらず冷たいが、昨日のように視界を遮る雪煙はない。
俺たちは宿を出て、城のある方角へと歩き出した。
踏み固められた雪の道を、キュッキュッと足音を立てながら進んでいく。
「……人の姿がまばらだな」
俺の言葉を聞いたリリアが、静かな通りを見渡す。
「昨夜は雪がひどかったもの。まだ家から出てない人が多いのかもしれないわね」
それでも、家々の煙突からは白い煙がゆるやかに立ち上り、人々の暮らしの気配を感じさせた。
家々の屋根には雪がこんもりと積もり、白い帽子をかぶっているようだった。
街を歩いていると、広場の一角に大小さまざまな氷の彫刻が並んでいるのが見えた。
子供の背丈ほどの小さなものから、人の背を超える大作まで、どれも細部まで繊細に作り込まれている。
透明な氷が朝の光を受け、まるで宝石のように煌めいていた。
「……これ、手作りでしょうか」
エリシアが足を止め、目の前の彫刻を興味深そうに見つめる。
そこにあったのは、花冠を頭に載せた氷の鹿だった。
脚の筋肉や首の曲線、瞳の細かな造形に至るまで、本物の生き物を思わせるような生命感が宿っている。
「すごい……毛並みまで、ちゃんと作ってある」
エルザは氷像へ近づくと、その細かな造形をじっと眺めた。
その一つ目が、いつもより少しだけ大きく見開かれている。
「もしかしたら、精霊の力を借りて作ってるのかもな」
俺がそう言うと、エリシアは小さく頷き、もう一度氷像へ目を向けた。
「きっと、この都に住む方々の祈りや願いも込められているのでしょうね」
その言葉に、俺も改めて氷像を見つめる。
冷たい氷でできているはずなのに、不思議とそこから温もりを感じた。
◇ ◇ ◇
雪化粧をまとった巨大な城壁が俺たちの前に姿を現した。
城門には白銀の装飾が施され、その両脇には二人の門番が控えている。
俺たちに気づいた門番たちの視線が、鋭くこちらへ向けられた。
「止まれ。用件を述べよ」
年嵩の門番が手にした槍をわずかに傾け、俺たちの行く手を遮る。
一歩前へ出て、門番に向き直った。
「俺たちは、女王陛下にお目通りを願いたい。事情があるんだ」
一瞬、空気が張り詰めた。
もう一人の門番が、訝しげに眉を寄せる。
「貴様ら、旅の者だな? 身分を証すものも、事前の通達もない。容易く謁見できるとでも思っているのか?」
……やっぱり、そう簡単には通してもらえないか。
「まぁ、案の定って感じだな」
トーラが苦笑まじりに呟いた。
さて、どうしたものか。
そう考えていると、不意に隣から声が上がった。
「あの!」
エリシアだった。
彼女が一歩前へ出て、真剣な眼差しを門番へ向ける。
「この国の精霊の加護が弱っていると耳にしました。私は精霊たちの声を聞くことができます。もしかしたら、何かお役に立てるかもしれません」
門番たちが驚いたように顔を見合わせる。
「なんだと……?」
どうやら『精霊の声が聞こえる』という言葉は、彼らにとって無視できないものだったらしい。
年嵩の門番はしばらく俺たちを見定めるように見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「……話はわかった。だが、我らに判断する権限はない。責任者を呼ぶので、しばし待たれよ」
そう言うと、門番は城門の奥へと駆けていった。
俺たちは顔を見合わせ、ひとまず安堵の息をつく。
隣のエリシアも、ほっとしたように胸を撫で下ろしていた。
しばらくすると、門の奥から一人の女性が姿を現した。
蒼の外套に身を包み、背筋をまっすぐに伸ばして歩いてくる。
その落ち着いた佇まいから、門番たちより上の立場にある人物なのだと窺えた。
「あなた方が、精霊について話があるという旅の方々ですね?」
穏やかな口調だったが、その声には凛とした響きがあった。
一歩前へ出て、軽く頭を下げる。
「はい。俺たちはこの都を越えて旅を続けるつもりです。ですが、ここへ来る途中で酷い吹雪に遭いました。それに、精霊の加護が弱まっているという話も耳にしました。エリシアの力なら、その原因を探る手がかりになるかもしれません」
この異変の原因がわかれば、この国の人たちを助けられるかもしれない。
それに、俺たちもここを越えて旅を続けることができる。
「だから、協力させてください。この異変を解決するために」
そう言って、深く頭を下げた。
しばしの沈黙の後、女性が口を開く。
「事情は、よくわかりました。では、こちらへ。女王陛下のもとへご案内いたします」
女性に案内され、俺たちは雪の積もる中庭を抜けて城内へと足を踏み入れた。
石造りの回廊は静まり返り、窓には精霊を象ったステンドグラスが嵌め込まれている。
そこから差し込む淡い光が、石床を色鮮やかに彩っていた。
数人の衛兵に付き添われながら回廊を進み、大きな扉の前へと辿り着く。
衛兵の手によって、重厚な扉がゆっくりと開かれていった。
その向こうには、氷と光に彩られた謁見の間が広がっていた。
白と蒼を基調とした空間に、金の装飾が鮮やかに映えている。
そして、その最奥。
高座には、一人の女性が静かに座していた。
長い白銀の髪が、謁見の間の光を受けてきらめいている。
氷のように透き通った蒼い瞳は、穏やかに俺たちへと向けられていた。
その身を包むのは、白と淡い青を基調とした優雅なドレス。
雪の結晶を模したティアラが頭上で輝き、その姿はまさに、この氷雪の都を統べる女王そのものだった。
「ようこそ、旅の方々。私はシェリザーンを治める者、イゼリア・フロステアと申します」
その声には、俺たちのような見知らぬ旅人を警戒するような響きはなかった。
俺たちが揃って頭を下げると、女王は口を開いた。
「あなた方が、精霊の異変について話があると聞いております。どうか、顔を上げてください」
促され、俺たちは顔を上げた。
そして、この都へ来るまでに遭った吹雪のこと、エリシアが精霊の声を聞けることを簡潔に伝える。
話を聞き終えると、女王はそっと目を伏せた。
「……やはり、これ以上、民に不安を募らせるのはよくありませんね」
女王の視線が、ふと謁見の間の窓へと向けられた。
その先には、雪に覆われた都の景色が広がっている。
「あなた方が耳にした通り、この国とその周辺は、“氷雪の精霊”の加護によって厳しい寒さから守られています」
玉座の背後には、氷を象った紋章が光を放っていた。
「私たちは代々、その加護への感謝を捧げ、精霊を讃える儀式や祭事を欠かさず行ってきました……ですが、ここ数年、精霊はそれに応じなくなっているのです」
女王の重く沈んだ声に、謁見の間の空気が張り詰めた。
彼女は窓の外から俺たちへと視線を戻す。
「どう祈っても……どう語りかけても……冷たい壁の向こうから、返事が来ることはありません。都を包む加護も乱れ始め、外の冷気を防いでいた境界も、徐々に蝕まれているのです」
言葉を紡ぐ女王の声には、隠しきれない苦悩が滲んでいた。
「……私たちは、この異変には何らかの外的な原因があるのではないかと考えています」
そう告げた女王は、何かを確かめるように俺たちを見渡した。
「……あなた方の中に、精霊と言葉を交わせる者がいると聞きました」
女王の問いかけに、エリシアが一歩前へ出た。
「エリシアと言います。私は精霊たちと意思の疎通ができます」
その答えに、女王は頷く。
「では、まず貴女に、氷雪の精霊の声を聞いていただけますか? 加護が薄れた理由――あるいは、その手がかりだけでも構いません。何かわかることがあるかもしれません」
女王に促され、俺たちは謁見の間を後にした。
そのまま王宮の奥へと進み、『祭壇の間』と呼ばれる場所へ案内される。
そこは、物音ひとつない静謐な空間だった。
部屋の中央には祭壇があり、その表面には雪花を象った古い聖紋が刻まれている。
俺たちが見守る中、エリシアは祭壇へ歩み寄り、その前に膝をついた。
祈るように胸の前で両手を重ね、ゆっくりと目を閉じる。
……息を呑むほど、絵になる光景だった。
しばらくの間、誰も口を開かなかった。
女王もまた、エリシアの様子を見守っている。
目を閉じたエリシアは、まるで俺たちには見えない、遠く静かな世界を見つめているようだった。
やがて、彼女の肩がほんのわずかに震えた。
「……っ」
かすかな声が漏れる。
言葉というより、ため息に近かった。
それでも、彼女は祈りを解かない。
ただ一心に、耳を澄ませている。
エリシアが目を開き、こちらを振り返った。
その表情には疲労と、どこか戸惑うような色が滲んでいた。
「……声は、届いてきましたわ。けれど、はっきりとは。ただ……とても深い悲しみが、胸の奥に」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
女王は目を伏せ、しばらく沈黙した。
「……やはり、ここでは限界があるようですね」
女王は祭壇へと視線を向け、その聖紋を見つめていた。
「……仕方ありません。最後の手段を取るべき時が来たようです。この都から北へ進んだ先に、“氷の聖域”と呼ばれる場所があります。その最奥にある氷祠――そこに、氷雪の精霊が深く宿っていると言われています。加護が薄れた今、そこへ赴き、精霊の声を直接聞くほかありません」
だが、その声には期待よりもためらいが色濃く滲んでいた。
「……とはいえ、これまで何人も向かわせましたが、戻ってきた者はおりません。決して、容易に向かえる場所ではないのです」
その言葉に、重たい沈黙が落ちた。
そこへ向かうということは、命を懸けることになる。
沈黙を破ったのは、エリシアだった。
「……女王陛下、私に氷祠への旅をお許しください」
控えめな声だったが、その言葉ははっきりとしていた。
その瞳は、まっすぐ女王へと向けられている。
「私自身、精霊の声を受けて……その声に応える責任があるように思うのです。このまま何もしないでいることは……できません」
その表情に、迷いは見えなかった。
精霊との繋がりを大切にしてきた彼女だからこそ、その声を放っておくことができないのだろう。
女王はエリシアを見つめた後、傍らの侍従へ目配せした。
侍従が小さな箱を抱えて進み出る。
その蓋を開くと、中には雪の結晶を象った意匠が施された小ぶりのハープが収められていた。
「これは我が一族が代々守ってきた“精霊のハープ”です。精霊との対話の助けとなるでしょう」
女王はハープを両手で持ち、エリシアへと差し出した。
「貴女の力と心があれば、精霊に声が届くはずです」
「……ありがとうございます。必ずやり遂げてみせます」
エリシアは驚いたように目を見開いた後、両手で大切そうにハープを受け取った。
ハープを胸元に抱え、エリシアはこちらを振り返った。
「……カケルさん。どうか私に、行かせてくださいませんか?」
その声は、ほんのわずかに震えていた。
それでも、俺を見つめる瞳は逸らされない。
「ああ、いいさ。俺も一緒に行くよ」
俺の言葉に、エリシアは目を見開き、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「……ありがとうございます」
エリシアはハープを胸元に抱き、小さく頭を下げた。
「……勇気ある申し出に、感謝いたします。あなた方が氷祠へ向かうのであれば、我々も可能な限り支援いたしましょう」
女王は静かな表情のまま、俺たち一人一人へと目を向けた。
「どうか、この想いを精霊のもとへ届けてください」
エリシアはその言葉を受け止めるように頷いた。




