あの日の想いと、まだ見ぬ明日①
私はサキュバスの魔物娘――リリア。
人の精気を糧とし、長い時を生きる魔物。
少なくとも、かつての私はそうだったわ。
魔物と人間は互いに争い、命を奪い合う存在だった。
先代魔王ヴァルギルスに仕えていた頃、サキュバスとして人間から精気を奪っていた。
時には、その命が尽きるほどに。
今の私を知っている人が聞いたら、驚くかもしれないわね。
でもあの頃は、それを残酷だとも、間違っているとも思っていなかったわ。
けれど――そんな私が、一人の人間と出会ったの。
愛することを知り、そして……失った。
あの人がいなくなってから、どれほどの月日が流れたのかしら。
もう数えることもしなくなった。
忘れたわけではない。
忘れられるはずもない。
それでも時は流れ、世界は変わっていく。
私が立ち止まっていたって、時間は待ってなんてくれないもの。
だから私もまた――その世界の中で生き続けていた。
あの人との戦いで深手を負ったヴァルギルスは、アビス様によって討たれた。
そして、アビス様が新たな魔王となった。
アビス様の膨大な魔力は世界を覆い、それまで異形の姿をしていた魔物たちは、やがて人に近い姿――魔物娘へと変わっていった。
もちろん、変わったのは姿だけじゃない。
かつて争いを繰り返していた人間と魔物娘の間にも、少しずつ交流が生まれていった。
すべての争いがなくなったわけじゃない。
そんなに簡単に、それまでの関係を変えられるはずもないもの。
それでも、互いに言葉を交わし、同じ町で暮らす者たちの姿も、今ではそう珍しいものではなくなった。
そんな新しい時代を築いていくアビス様の傍らに、私はいたわ。
ヴァルギルスに仕えていた頃から数えれば、ずいぶんと長いこと魔王の側近を務めていることになるわね。
そしてアビス様がその勢力を広げていくにつれ、新たに三人の側近が加わった。
軍事や治安維持を担うデュラハン娘のベロニカ。
魔術の研究や記録を担うリッチ娘のモルガナ。
そして、人間との交渉をはじめ、内政や外交に携わるバフォメット娘のクラリーチェ。
三人とも、それぞれの分野で頭角を現した優秀な者たちだった。
最初の頃は、あくまで仕事上の付き合いでしかなかった。
特にベロニカは生真面目で、顔を合わせるたびに背筋を伸ばして挨拶をしてきたものね。
モルガナも必要なこと以外はほとんど口にせず、暇さえあれば書物や研究資料に目を通していたわ。
そんな私たちの関係を変えたのが、クラリーチェだった。
「ねえ、今度みんなでお茶でもしない?」
ある日の仕事終わり、彼女は突然そんなことを言い出したの。
「……茶?」
ベロニカは怪訝そうに眉を寄せていたわ。
ふふっ。今思い返しても、あの時の顔はよく覚えている。
「何か話し合うべき議題でもあるのかね?」
モルガナまで真顔でそんなことを尋ねるものだから、クラリーチェは呆れたように肩を落としてしまった。
「もう、二人とも。議題なんてないわよ。お菓子を食べて、お茶を飲んで、お喋りするの!」
「あら、楽しそうじゃない」
素直にそう思ったわ。
仕事を離れて、同じ立場の者同士でお茶を飲みながら話をする。
そんな時間があっても悪くないでしょう?
笑みをこぼすと、クラリーチェは嬉しそうにこちらを向いた。
「でしょう? さすがリリア!」
そうして、クラリーチェの思いつきから始まった小さなお茶会。
最初の頃こそ、ベロニカは妙にかしこまっていたし、モルガナなんて気がつけばお茶を飲みながら本を開いていたものよ。
でも不思議なものね。
何度も集まっているうちに、仕事の話だけじゃなく、街で見かけたものや最近あった出来事、それこそ他愛もない話まで交わすようになっていった。
時には誰かの愚痴を聞いて、くだらないことで笑い合う。
気がつけば、それは四人だけの定期的な集まりになっていた。
◇ ◇ ◇
そして、その日も――
私たちはいつものように、テーブルを囲んでいた。
「まったく……最近の兵士たちは気が緩んでいる。今朝も巡回に遅れてきた者がいてな」
カップを手にしながら、ベロニカが深いため息をつく。
「あら、それは大変ね」
「大変、で済ませられる問題ではない。規律の乱れは、いずれ大きな問題に繋がる」
「ふふっ、相変わらず真面目なんだから」
私が笑うと、ベロニカは不満そうに眉を寄せた。
「リリア。自分は真面目な話をしているのだぞ」
「わかってるわよ。でも、せっかくのお茶会なんだから、少しくらい肩の力を抜いてもいいんじゃない?」
「む……」
言葉に詰まったベロニカを見ていると、なんだかおかしくなってしまった。
こういうところは、初めて会った頃からあまり変わっていない。
「規律を維持すること自体は合理的だ」
隣では、モルガナが淡々と口を開く。
「ただし、常に緊張状態を維持することによる精神的疲労も考慮すべきだろう。適度な休息を挟んだ方が、長期的な能率は――」
「モルガナは何でも難しい話にしちゃうわね」
「そうかね?」
「そうよ」
本人にはあまり自覚がないらしい。
思わずベロニカと顔を見合わせると、どちらからともなく小さな笑いが漏れた。
けれど――。
「…………」
いつもなら真っ先に会話へ入ってくるはずのクラリーチェが、今日は妙に静かだった。
カップを両手で包んだまま、時折こちらをちらちらと見ている。
「あら? どうしたの、クラリーチェ?」
「えっ?」
名前を呼ぶと、彼女の肩がぴくりと跳ねた。
「さっきからなんだか落ち着かないみたいね。何かあったの?」
「べ、別に何もないわよ?」
「そう?」
明らかに何かある顔をしているのだけれど。
問い詰めようとは思わなかった。
こういう時のクラリーチェは、放っておいたって自分から喋り出すもの。
案の定――。
「あのね、みんな」
クラリーチェはカップを置くと、少し照れくさそうに私たちを見回した。
「実は、話したいことがあるの」
いつもなら思ったことをすぐ口にする彼女が、こんなふうに言い淀むなんて珍しい。
私たちが次の言葉を待っていると、クラリーチェは意を決したように顔を上げた。
「アタシ、結婚することになったの」
「あら」
思わず声が漏れた、その直後だった。
「結婚だと!? それは本当か!」
「ちょ、ちょっとベロニカ。声が大きいってば!」
クラリーチェが慌ててベロニカをたしなめる。
「す、すまない。だが、これはめでたい話ではないか!」
ベロニカは慌てて声を落としたものの、興奮はまだ収まっていないようだった。
ふふっ。相変わらず仲間のこととなると、自分のことみたいに喜ぶのね。
「なるほど。最近の様子から、何かあるとは思っていたけど……婚姻だったとはね」
対してモルガナは驚く様子もなく、納得したように頷いた。
「気づいていたの?」
「なに、近頃公務から戻って来た君はやけに上機嫌だったからね」
モルガナは何でもないことのように答えた。
「えっ!? そんなにわかりやすかった?」
クラリーチェが驚いたように自分の頬へ手を当てる。
本人は隠していたつもりだったのかしら。
モルガナもよく見ているものね。
「ふふっ。おめでとう、クラリーチェ」
私がそう告げると、クラリーチェはぱっと表情を明るくした。
「ありがと! リリア」
照れながらも嬉しそうに笑うクラリーチェを見ていると、私まで嬉しくなってくる。
「それで? お相手はどなた?」
「どちらから求婚したのだ?」
「馴れ初めも知りたいものだね」
「もう、三人とも。食いつき過ぎよ!」
クラリーチェは困ったように笑った。
私たちに聞いてもらいたくて仕方がない――そんな顔ね。
けれど、すぐには答えず、クラリーチェは躊躇うように私たちの顔を見回した。
「人間のお相手なんだけど……」




