一つ目鍛冶師の秘めたる強さ③
それから――三年の月日が流れた。
季節が幾度も巡るうちに、訓練場の地面は剣と足音で踏み固められ、鍛冶場の壁には新しい煤が何層も重なった。
ライアは背が伸び、筋肉が締まり、剣の振りは迷いがなくなった。
倒れる回数は減り、立ち上がるまでの時間も短くなった。
一方の私は、気づけば両手の甲に火傷の跡がいくつも刻まれ、それは痛みよりも「鉄と向き合ってきた証」として日常に溶け込んでいた。
痛みはとっくの昔に怖くなくなっていた。
火に近づいたときの熱さも、鉄の重さも、すっかり身体に馴染んでいた。
鍛冶場の奥。
母の背中の隣には、もう“座るだけの子ども”はいない。
火に向き合い、鉄と向き合い、槌を振るうようになっていた。
まだぎこちなく、まだ未熟で、まだ弱い。
けれど、それでも「打つ側」に立っていた。
三年という時間は、大きな変化を見せないようでいて、全部を変えていた。
そんなある日。
ライアは母との訓練を終え、汗を拭いながら一人剣を収めていた。
母の姿が家へと消え、訓練場に残るのは朝の光と、まだ熱を帯びた土の匂いと、ライアだけ。
心臓が強く跳ねた。
三年間の火傷と努力と想いをすべて抱えて、歩み寄った。
「……ライア」
振り返った彼女の目には、あの日から変わらないまっすぐさが宿っていた。
両手で抱えていた一本の剣を差し出した。
「……これ。私が、打った」
ライアは驚いたように目を瞬かせ、剣を受け取った。
刃を確かめ、重さを感じ、しばらく黙っていた。
その沈黙は拒絶ではなく、丁寧に向き合おうとする時間だった。
やがて彼女は小さく息を吐き、ほんのわずかに口元を緩めながら言った。
「……すげぇよ。エルザ」
その一言が強く響き、鍛冶場の火でも鉄の熱でもない温かさが、心を満たしていくのを感じた。
三年間、言葉にできなかった想いが、ようやく形になった瞬間だった。
◇ ◇ ◇
それからしばらく経った、ある日。
いつものように槌を置き、訓練場へ向かった。
昼下がりの空は澄んでいて、風は少し強かった。
地面には、昨日までの足跡が薄く残っていた。
いつもなら、この時間――ライアとその母が現れる。
無言で待った。
石壁に背を預け、ただ立ったまま、影が伸びていくのを見つめた。
けれど、時間が流れていくだけで、誰の足音も聞こえなかった。
太陽はゆっくりと傾き、訓練場の影を長く伸ばした。
木の葉がざわめき、砂が足元をかすめた。
それでも、ライアは来ない。
言葉にならないざわつきが、少しずつ膨らんでいった。
(……今日は、休み?)
声に出すことはなかったけれど、そんな思いが一瞬だけよぎった。
それも、理由のわからない不安に押しつぶされ、消えていった。
陽が沈みはじめた。
訓練場は冷たい色に染まり、風が肌に刺さるように感じた。
もう一度だけ入口の方を見た。
(……やっぱり、来ない)
踵を返し、家路についた。
背中に落ちる夕陽が、やけに重かった。
◇ ◇ ◇
家に戻ると、工房はもう暗く、昼間まで熱を帯びていた鉄の匂いが、ひんやりとした空気に溶けていた。
台所からは煮物の湯気が立ち、小さな家の中にだけ、かすかな温もりが漂っていた。
それなのに――心は冷えたままだった。
食卓には三つの皿。
毎日見ている、変わらない並び。
向かいで母が淡々とフォークを動かしていた。
無表情で、音ひとつ立てない。
いつも通りのはずなのに、今日だけはその沈黙が妙に重く感じた。
父は笑おうとして、どこかぎこちない顔をしていた。
かちゃ、かちゃ――
食器が触れ合う小さな音だけが、家の中を満たしていた。
料理の味は、よくわからなかった。
胸のざらつきが、ずっと消えなかった。
堪えきれず、口を開いた。
「今日……ライア、来なかった」
父のフォークが、その瞬間、ぴたりと止まった。
ほんの一瞬。でもはっきり分かった。
母は相変わらず無表情で、料理を口に運んでいた。
しかし、動きがほんのわずかに遅れたように見えた。
そのわずかな変化が、逆に確信を生んだ。
「……そうか。たまたま、だろう」
父の声は明るさを装っているけれど、その明るさが薄い紙みたいに頼りなくて、触れたら破れそうだった。
父をじっと見つめた。
「お父さん」
「ん? な、なんだ?」
「……何か、隠してる?」
父の肩がわずかに揺れた。
その反応は、嘘のつけない人のものだった。
「別に……いや、その……」
濁った声が食卓に落ちていく。
父の視線は皿の上をさまよい、私の方を見ようとしなかった。
黙ったまま、父を見つめた。
逃げ道を与えないように、まっすぐに。
父は観念したように、大きく息を吐いた。
「……今朝、ライアが来たんだ」
心臓が、ひゅっと縮んだ。
父の声は低く、どこか悔やむように沈んでいた。
「剣を……買わせてくれって言ってな」
母のフォークがそこで止まった。
顔は動かない。だけど空気が変わった。
父は続けた。
「ライアは……真剣だった。何も言わなかったけど、あの目は、もう決めてる目だったよ」
言葉が胸に刺さり、息が浅くなった。
「多分……旅に、出たんだ」
世界が、すっと遠のく感覚。
音が消えた。匂いも消えた。
食卓の温かさすら、感じなくなった。
理解が追いつかない。
言葉も浮かばない。
ただ――胸の奥に、ぽっかり穴が空いた。
椅子の脚が床を擦った音が、妙に大きく響いた。
気づけば立ち上がっていた。
自分が立ち上がった理由を、まだ言葉にできていなかった。
ただ――身体が先に動いていた。
父が驚いたように目を見開いた。
母は相変わらず無表情のまま、ゆっくりフォークを置いた。
その仕草だけで、場が引き締まった。
「……どこへ行くつもり?」
母の声は低かった。
怒っているわけでも、慌てているわけでもない。
ただ、その声が私の動きを止めた。
喉が張り付いて、声がなかなか出なかった。
けれど、絞り出すように言葉がこぼれた。
「……ライアを」
母の一つ目が、わずかに細くなった。
「探すの?」
問いというより確認。
逃げ場を与えない声音。
唇を噛んで、ぎこちなく頷いた。
「どこに行ったかも、わからないのに?」
母の視線が突き刺さった。
そこには冷たさも優しさもなく、ただ事実だけ。
本当に、そうだ。
行き先も、理由も、手がかりすらない。
それでも――胸が燃えるように痛んだ。
「……それでも……見つけ出す」
鍛冶場の火が消えたあとのような静寂が、二人の間に落ちた。
母はまっすぐに私を見据えたまま、もう一つ問いかけた。
「どうして?」
その一言には、迷いがなかった。
一瞬だけ目を伏せた。
喉の奥が熱くなった。胸の穴が広がっていった。
理由なんて、うまく言えない。
言葉を飾ることもできない。
だけど、はっきりしていることが一つだけあった。
顔を上げると、母の一つ目と自分の一つ目が正面からぶつかった。
「……友達、だから」
その言葉は、掠れていた。
でも嘘じゃなかった。
父が息を呑む気配がした。
母の表情は変わらなかった。
「見つけ出して、その後は?」
母の問いは鋭い。その先まで見据えているようだった。
「……わからない。でも」
息を吸い込んだ。
心臓が痛いほど脈打っていた。
「このままお別れは……嫌」
そこには涙も叫びもない。
ただ、決意だけが残った。
火花が散るような、言葉のない時間。
その時間が、永遠みたいに長く感じられた。
母と見つめ合ったまま、誰も動かなかった。
父は息を潜め、私たちを見守るだけだった。
やがて、母が椅子を引いた。
母は立ち上がり、私の正面まで歩み寄った。
一歩ごとに、床が重く鳴った気がした。
「――わかった。追いかけなさい」
胸が大きく跳ねた。
許された。止められなかった。
それだけで、息が戻ってきた気がした。
けれど、続く言葉は鋼のように硬かった。
「ただし、条件がある」
言葉を失い、固まったまま母を見上げた。
「ライアのための剣を打ちなさい。今度は――“本物”を」
母の声は淡々としていて、感情を乗せていなかった。
だけどその言葉は、火のように熱かった。
「エルザはまだ子どもだぞ……!」
父の声は震えていた。
心配と動揺が滲んでいた。
けれど母は、揺るがなかった。
「子どもでも構わない。打たなければ、追わせない」
その一言で、場が張り詰めた。
「……できるの?」
母の問いは、挑むようでも、突き放すようでもなかった。
ただ、試す声。
喉を動かし、言葉を絞り出した。
「……やる」
震えていた。でも、逃げなかった。
母のまつげが、ほんのわずかに揺れた。
「教える」
短い。だが重さがあった。
「鍛える。折れない剣を打つまで、終わらせない」
父は目を見開き、何か言おうとして――言葉を失った。
胸はまだ痛い。
穴は埋まっていない。
でも――
「……必ず、打つ」
その言葉は小さかったけれど、迷いはなかった。
母は背を向け、工房の扉に視線を向けた。
「明日から始める。夜明け前に降りてきなさい」
それだけ告げて、歩き出した。
ライアに会うための道は――いなくなったその日ではなく、“剣を打つ”と決めたこの瞬間から始まった。




