そのリザードマンは強さを知らない④
街道沿いの小さな町に辿り着いたのは、旅に出て数日後だった。
足は痛み、腹は空いていた。
けれど町の門が見えた瞬間、疲れも忘れて足を速めた。
この町には、故郷で知らなかった何かが待っている。
酒場は夕刻の喧騒に満ちていた。
荒々しい笑い声、酒の匂い、飛び交う怒号。
訓練場とはまったく違う活気が、そこにはあった。
その喧騒の中、壁に貼られた一枚の紙が目に留まった。
粗雑な似顔絵の横には、汚れた文字でこう記されていた。
賞金首:盗賊バルゴ。危険度:中。賞金:銀貨30枚。
銀貨が欲しいからでも、名声が欲しいからでもない。
私にとって、意味があるのはひとつだけだった。
倒せば――強さを証明できる。
訓練とは違う。
これは、本物の戦いだ。
迷うことなく手配書を壁から剥がし、カウンターへ差し出した。
「この賞金首、どこにいる?」
店主は一瞬、あっけにとられたように目を瞬かせた。
「嬢ちゃん、冗談だろ。あいつは傭兵でも手を焼いて――」
「関係ない。教えてくれ」
店主はしばらく私を見つめていた。
やがて小さく息を吐き、口を開いた。
「街道の外れ。森の廃屋だ。死ぬなよ」
答えず、踵を返した。
死ぬつもりなど毛頭ない。
勝つために行くのだから。
◇ ◇ ◇
日が落ち、森の影が濃くなった頃、朽ちた廃屋が姿を現した。
湿った木の匂いが鼻を刺し、風が抜けるたび、廃屋のどこかが軋んだ。
中へ踏み込んだ瞬間、冷たい刃で肌を撫でられたような感覚が走った。
背筋がぞくりと震えた。
(……なんだ、これは)
母との訓練でも、感じたことのないものだった。
「嬢ちゃんが来る場所じゃねぇぞ」
暗闇の奥から、低い笑い声が聞こえた。
巨躯がゆっくりと姿を現した。
太い腕には筋肉が盛り上がり、背に負った刃が鈍い光を放っていた。
賞金首バルゴ。
言葉を返さず、鞘に添えた手に力を込めた。
そして、一気に剣を引き抜いた。
鞘を滑る金属音が、闇の中に響いた。
構える。
――重い。
道中で背負っていた時とは違う。
実際に刃を構えてみれば、その重みは木剣とはまるで違っていた。
わずかに切っ先が下がる。
慌てて腕に力を込め、母に叩き込まれた構えへ戻した。
両手で柄を握り直す。
それでも、わずかに指が震えていた。
剣が重いからなのか。
それとも――。
怖い。
その感情を自覚した瞬間、自分でも驚いた。
母との訓練では、何度も痛い思いをした。
倒され、立てなくなることだってあった。
それでも――こんなふうに怖いと思ったことはない。
これは訓練じゃない。
倒すか、倒されるか。
その二つしかない戦いだ。
「――戦士なら、立て」
バルゴが獣めいた笑いと共に地を蹴った。
巨体からは想像もつかない速さで一気に間合いを詰め、振り下ろされた刃が空気を裂く。
母との訓練で何度も叩き込まれた動きを身体が思い出した。
とっさに半歩身をずらしたものの、頬にひりつくような痛みが走る。
「……っ」
一歩退いて頬に触れると、指先にぬるりとした感触があった。
見れば、指先に血が付いている。避けたはずだった。
それでも、ほんの少し刃が触れただけで皮膚を裂かれた。
あとわずかに遅れていれば、頬では済まなかった。
一撃まともに食らえば終わる――その理解が、身体の奥を冷たく駆け抜けた。
バルゴは口元を歪め、再び刃を構える。
逃げても、いずれ追いつかれる。
守っているだけでも、あの一撃を受け続けることはできない。
だったら――斬るしかない。
柄を強く握り直し、母に教え込まれた動きを思い返す。
足を踏み込み、腰を入れ、全身の重みを剣に乗せて振り下ろした。
腕が悲鳴を上げ、肩が軋む。
木剣とは違う重みに身体ごと引っ張られそうになりながら、それでも刃の軌道だけはまっすぐだった。
鈍い手応えと共に、刃が肉を裂く感触が腕まで伝わり、鮮血が飛び散った。
木剣を打ち込んだ時とは、まるで違う。
手の中に残った生々しい感触に、一瞬だけ身体が強張った。
バルゴが呻き声を上げ、傷口を押さえながら距離を取る。
倒れてはいない。けれど、その身体には確かに私がつけた傷が残っていた。
倒せる――強さはここにある。
バルゴは傷口から手を離し、掌についた血を見ると顔を歪めた。
「……ガキが」
先ほどまで浮かんでいた笑みが消える。
雄叫びと共に巨体が迫り、刃が横薙ぎに振るわれた。
とっさに剣を合わせた瞬間、凄まじい衝撃が両腕を突き抜けた。
受け止めきれず、弾かれるように後ろへ下がり、そのまま背中を廃屋の壁へ打ちつける。
「ぐっ……!」
息が詰まり、膝が折れかけた。
それでも倒れることだけは身体が拒んだ。
母との訓練で、何度こうして立たされたか分からない。
痛くても、苦しくても、足が動く限り立ち続けた。
バルゴが止めを刺そうと、再び踏み込んでくる。
正面から受ければ、今度こそ押し切られる。
なら――受けなければいい。
振り下ろされる刃を寸前でかわし、そのまま巨体の懐へ踏み込んだ。
腰を落とし、両手で握った剣を一気に斬り上げる。
刃が走り、互いの身体が交錯した。
一瞬の静寂。
そして背後で、巨体が崩れ落ちる音が廃屋に響いた。
鉄と血の匂いが漂い、荒い呼吸だけが静寂の中に漏れていた。
手はまだ震え、汗と血で剣が滑りそうになっていた。
それでも胸の奥では、昂揚が炎のように燃えていた。
打ち倒した。
強さを掴んだ。私は戦士だ。
目の前に倒れたバルゴの姿は、そう言い切るには十分すぎる証だった。
この勝利が、私をさらに戦いへと駆り立てた。
倒せば強くなれる――その考えを疑う理由など、私にはなかった。
◇ ◇ ◇
旅に出てから、どれほどの月日が流れただろう。
いくつもの町を渡り歩き、腕試しの勝負を重ね、賞金首を斬り伏せ、名も知らぬ荒事に巻き込まれては勝ち続けた。
粗削りだった剣筋は研がれ、刃の運びは鋭さを増し、酒場では「若きリザードマンの戦士」の噂が囁かれるようになった。
手元には金があり、評価があり、“結果”だけは確かに積み上がっていた。
――強くなった。
そう言われれば、否定できない。
けれど、夜だけはどうしても誤魔化せない。
荒れ地の真ん中。
風が乾いた土をなぶり、焚き火が頼りなく揺れていた。
星ひとつ見えない空は、底のない闇のように広がっていた。
膝を抱えて座り、静まり返った世界を見つめていた。
歓声もない。称賛もない。
敵も、仲間も、誰もいない。
あるのは、火のはぜる音と、自分の呼吸だけ。
袋の中には報酬が詰まっていた。
腰には立派な剣が下がっていた。
腕にはかつてないほどの力が宿っていた。
なのに、胸の奥は凍ったままだった。
「……なんだよ、これ」
自分でも驚くほど、声はかすれていた。
答えなんて、返ってくるはずがない。
私の呟きは、風に切り裂かれて消えていった。
強さとは、打ち倒すこと。
そう信じて旅に出た。それ以外の答えなんて、必要ないと思っていた。
だけど今、焼け付くように分かる。
――どれだけ斬っても、どれだけ勝っても、何も埋まらない。
焚き火の赤が揺れていた。
その光を受けて、腰の剣が鈍く光っていた。
柄に触れ、ゆっくりと立ち上がった。
「まだだ……私は、まだ強くない」
私は歩き出した。
行き先なんて決めていなかった。ただ前へ。
足音だけが、虚しく響いた。
誰もいない道に、夜風だけが吹き抜けていた。
強さを求め続けることだけが、唯一の道標。
月のない夜の中、ただ歩き続けた。
ライア過去編、これにて完結です。
強さを求めて故郷を飛び出したライア。
戦い、勝ち続け、それでも彼女が求める“強さ”には届きませんでした。
彼女が本当の意味での強さを知るのは、まだ少し先のお話。
そして、ライアが旅立った後のエルザは――。
その物語も、いずれ。




