そのリザードマンは強さを知らない③
その夜――なぜだか、胸がざわついていた。
いつもなら、訓練の疲れで落ちるように眠れるはずだった。
身体は火照り、筋肉は悲鳴をあげているのに、なぜか眠りだけが遠かった。
何度寝返りを打っても、妙な落ち着かなさは消えない。
布団をそっとめくり、床に足を下ろした。
夜の空気はひんやりとしていて、汗ばんだ肌をすっと冷ましていった。
家は深く眠っていた。
壁には油灯の微かな光が揺れ、廊下には静寂が満ちていた。
足音を立てれば、この静けさを壊してしまいそうで、息を潜めながら歩みを進めた。
そのとき、声が聞こえた。
低く抑えた声。
張りつめた弦のような、普段は滅多に感じない緊張が滲んでいた。
思わず立ち止まった。
父と母の声だ。
気になって、声のする方へ向かった。
両親の部屋の前まで来ると、扉の隙間から微かな光が漏れていた。
ごくりと喉を鳴らし、ほんの少しだけ身を屈めて、扉へ耳を寄せた。
「ライアを旅に出すだって!?」
父の声が震えていた。
怒りなのか、動揺なのか。
聞いたことのない響きだった。
「そうだ。ここにい続けても今以上に強くなれない」
母の声は冷静で、迷いがなかった。
旅に――出す?
その言葉を耳にした途端、心臓が大きく脈打った。
息が浅くなり、廊下の冷気が急に遠のいていく。
「そんな! あの子はまだ若いんだよ!?」
父の声には焦りがにじんでいた。
「だからこそだ」
母の声は少しも揺れなかった。
「可愛い子には旅をさせよと、人間の言葉にもあるだろう?」
その言葉は淡々としていて、どこか突き放すようにも聞こえた。
父は言葉を詰まらせ、吐き出すように叫んだ。
「君は……あの子が心配じゃないのかい!?」
扉の向こうに、凍りつくような沈黙が落ちた。
そして――
「今の弱いままで一生を過ごさせる方が心配だ」
その瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
弱い? 私が?
訓練を重ね、木剣を振り続け、汗と傷で誇りを磨いてきたつもりだった。
それでも母には、今の私はまだ“弱い”と映っている。
強さは、打ち倒す力。倒されない力。
私はずっとそれだけを追いかけていた。
それだけが唯一の正しさだと思っていた。
だったら、ここにいてはいけない。
外へ出て、もっと強い相手と戦えばいい。
そうすれば――私はもっと強くなれる。
拳が震えた。
悔しさなのか、焦りなのか、自分でも分からなかった。
そっと扉から離れ、廊下の壁に背を預けた。
暗闇の中、視界がわずかに霞んだ。
でも、ひとつだけはっきりしていた。
強くなりたい。
ただ、それだけだった。
――打ち倒すため。
――戦士として、生きるため。
その夜、静かに決めた。
ここを出て、外の世界へ行く。
強さを手に入れる――そのために。
ここに留まることこそ、きっと“逃げ”なのだ。
私は、進まなければならない。
◇ ◇ ◇
眠れないまま、朝を迎えた。
空はまだ群青に沈んでいて、夜と朝の境目がどこにあるのか分からなかった。
家の中は静まり返り、物音ひとつ聞こえなかった。
机に向かい、震える指で紙を一枚引き寄せた。
言葉は浮かばなかった。
謝罪も、感謝も、別れも、どれを選んでも違う気がした。
けれど、書きたいことはひとつだけあった。
『強くなってくる』
少し歪んだ文字を見つめ、息をひとつ吐いた。
紙を机の上に置き、部屋の隅に飾った一本の剣へ目を向けた。
エルザが打ってくれた初めての剣。
粗くて、歪んでいて、だけど何よりも大切な剣。
それに触れないまま、ただ見つめた。
壊したくなかった。
傷つけたくなかった。
持っていくべきは、思い出じゃない。
これから戦うための力だ。
背を向けるのが、こんなにも苦しいなんて知らなかった。
静かに旅支度を整え、扉を開けて外の冷気を吸い込んだ。
夜明け前の空気は、肌を刺すように冷たかった。
家を出た私の足は、自然と鍛冶屋へ向かっていた。
木の看板はまだ薄闇に沈み、あたりには誰ひとりいなかった。
エルザは――眠っている。
そう思うと、胸がきゅっと縮んだ。
声を掛ければ、きっと止められる。
あの顔を見れば、私だって迷ってしまうかもしれない。
揺らぐくらいなら、言わない方がいい。
これは私一人の戦いだ。
そう自分に言い聞かせ、拳を握ったとき――ギィ、と扉の音がした。
顔を出したのは、エルザの父だった。
煤で黒ずんだ頬に、太い腕。
私を見ると、目を細めた。
「ライアか。こんな朝早く……エルザならまだ寝てるが」
「いや、エルザに用があるんじゃなくて」
声は、自分でも驚くほど揺れていなかった。
「ん?」
腰の袋を差し出した。
硬貨の触れ合う音が、静寂の中に響いた。
「この金で買える武器をください」
その言葉に、エルザの父はじっと私を見つめた。
何も言わず、ただまっすぐに。
しばらく沈黙が続いた。
やがて彼は扉を開き、手招きした。
「……入れ」
エルザの父は工房の奥へ進み、壁に掛けられていた剣を一本手に取った。
鋼の刃が薄明かりを受け、かすかに白く光った。
差し出された剣は、一目で分かるほど上質だった。
持ってきた金では、到底手が届きそうにない。
「こ、これは……」
言葉が続かなかった。
エルザの父は剣を差し出すと、ふいと背を向けた。
「餞別だ。持っていきな」
それ以上、何も聞かれなかった。
「……ありがとうございます」
剣を受け取る手が震えた。
それが恐れからなのか、決意からなのか、自分でも分からなかった。
工房を出ると、東の空が少しだけ白み始めていた。
振り返らない。もう、迷わない。
土を踏む足音だけが、朝の道に響いていた。
そして――街の外へ。
背中に朝の光が差し込み、影が長く伸びた。
その影の隣には、もう誰もいなかった。
私はひとり、歩き出した。
強さを求めて――ただ前へ。
◇ ◇ ◇
街を離れてどれくらい歩いただろう。
朝靄はすっかり消え、陽は頭上まで昇っていた。
背負った荷は軽い。食料も、水も、最低限。
なのに肩は重かった。
初めての“独り”だったからだ。
一度だけ、背後を振り返った。
道は細く続き、街の影はもう見えなかった。
それでも、両親やエルザの顔は頭から離れなかった。
首を振り、前を向いた。
迷うな。立ち止まるな。強さは前にしかない。
そう自分に言い聞かせながら、歩き続けた。
最初に戸惑ったのは――剣の重さだった。
エルザの父に渡された餞別の剣。
それは木剣よりもずっと重い、初めて手にする本物の武器だった。
鞘ごと背負っただけで、肩に鈍い痛みが走った。
(これが……戦うための剣なのか)
そう思うと、知らず手に力が入った。
冷たくて、重い。
だけど、この重さから逃げたくはなかった。
戻れない。戻らない。
強くなると書き残したのなら、弱いまま帰るわけにはいかない。
乾いた喉から声を絞り出し、誰に聞かせるでもなく、小さな誓いを立てた。
「倒す。強くなる。戦士になる……」




