そのリザードマンは強さを知らない②
それからだ。
訓練が終わるたび、自然とエルザの方へ足が向くようになった。
別に仲良しになったわけじゃない。
手を振るでもなく、笑い合うでもない。
ただ――話す。
ほんの数言。
ぎこちなくて、会話と呼べるかどうかも怪しい。
「木剣、重い?」
「重いに決まってる」
翌日。
「つらい?」
「つらくても立つんだよ」
また別の日。
「お母さん、強い?」
「強すぎて手も足も出ないさ」
そんなやりとりが、いつの間にか日課になっていた。
不思議なことに、訓練の苦しさは変わらないのに、気持ちは少しずつ軽くなっていった。
倒れても、泣きたい日があっても、訓練場の端に立つエルザを見ると、もう一度木剣を握ろうと思えた。
あの大きな一つ目は相変わらずじっと私を見つめていて、何を考えているのか全然わからない。
でも。
「……立つ。何度も」
最初に言われたその言葉だけは、なぜかずっと耳に残っていた。
私は木剣を握り、エルザは黙って見ていた。
それだけで、十分だった。
◇ ◇ ◇
そんな日々が続いたある日。
その日の訓練で、珍しく一度も倒れなかった。
膝は震えていた。
それでも、最後まで立っていた。
母が家に戻り、夕暮れが地面を赤く染める。
いつものように、訓練場の端に立つエルザの方へ歩いた。
「今日は……倒れなかったぞ」
いつもより少しだけ胸を張って言った。
エルザはじっと私を見つめ、やがてほんのわずかに首をかしげた。
「……痛い?」
「痛いに決まってるだろ。全身バキバキだ」
エルザは一瞬だけ目を瞬かせ、口元をかすかに上げた。
笑った。
気づかなければ見落としてしまうほどの、小さな笑みだった。
「……お前、今笑ったか?」
身を乗り出すと、エルザは小さく視線をそらした。
「……少し」
その答えが可笑しくて、ふっと笑った。
「なら、もっと笑わせてやるよ。明日はもっとすごいところ見せてやる」
「……期待する」
たった一言なのに、どんな褒め言葉よりも嬉しかった。
その日からだ。
訓練で倒れても、母に叱られても、もう一度立ち上がる理由がひとつ増えた。
エルザを笑わせたい。
それはまだ幼くて、拙い願いだったけれど。
間違いなく、私の力になっていた。
◇ ◇ ◇
その日も、いつも通りに訓練を終えた。
息は荒く、腕も重い。
それでも訓練が終わると、エルザのもとへ歩いていった。
「今日は……二回だけ倒れた」
そう言うと、エルザは小さく頷いた。
それだけのやり取り。
いつも通りのはずだった。
けれど、その時――気づいた。
エルザの手。
青い肌に、ところどころ赤黒い跡が浮かんでいた。
火傷だ。
「……おい、それ、どうしたんだ?」
エルザは視線を落とし、黙り込んだ。
(まさか……誰かにやられたのか?)
「誰かにやられたのか? 言えよ。そいつ――」
エルザは首を横に振り、ぽつりと答えた。
「……鍛冶。火が……強かった」
「お前、鍛冶やってるのか?」
エルザは手を握りしめた。
握りしめた手の上で、火傷の跡が引きつった。
「……練習。うまく、できない」
悔しそうでもなく、泣きそうでもない。
ただまっすぐに、事実だけを口にしていた。
(こいつも……諦めてないんだ)
エルザは顔を上げた。
その一つ目が、真正面から私を捉えた。
「私も……強くなる。ライアと……一緒」
言葉は短い。声も小さい。
でも、その一言だけで十分だった。
「……ああ。負けないぞ」
エルザもまた、ほんのわずかに頷いた。
剣と槌。戦士と鍛冶師。
まったく違う道を歩いていても、一緒に強くなれる。
あの時は、それだけで十分だった。
◇ ◇ ◇
あれから三年が過ぎた。
木剣を支えるだけで精一杯だった身体には、いつの間にかしなやかな筋肉がついていた。
振り下ろす一撃にも、以前とは比べものにならないほどの力が乗るようになっていた。
母の稽古は、相変わらず容赦がなかった。
倒れれば立て。
立てなければ、這ってでも前へ進め。
そんな日々が当たり前になっていた。
けれど、一つだけ変わらないものがあった。
訓練場の端にある古びた塀のそばには、今日もエルザの姿があった。
彼女はこの三年で、背丈が私の肩に届くほどになり、細い腕には鍛冶でついた筋が浮かんでいた。
短かった髪は少し伸び、表情はまだ乏しいのに、その佇まいはどこか大人びて見えた。
「お疲れ様……」
その日の彼女は、いつもと違っていた。
視線が泳いでいて、どこか落ち着かない様子だった。
「……エルザ?」
声をかけると、一つ目をそっと伏せ、深く息を吸った。
そして無言のまま、私に一本の剣を差し出した。
刃は歪み、鍔は傾き、輝きもない。
それでも金属の表面には、何度も槌を打ちつけた跡が残っていた。
「……できた。初めて」
かすれるような声。
「……これを、私に?」
エルザは小さく、けれどはっきりと頷いた。
「……ライアが、剣を振るうから。だから……私も、強くなりたかった」
その言葉は、刃よりまっすぐだった。
私は両手で剣を受け取った。
その重さが、三年という時間そのもののように腕へ沈んだ。
素振りを一度。風が小さく鳴った。
刃は粗く、決して出来のいい剣とは言えない。
それでも、手放したいとは思わなかった。
「……ありがとう。大事にする」
そう告げて別れた後、剣を抱えたまま家へ戻った。
いつの間にか、いつもより歩幅が速くなっていた。
家に入るや否や、母の元へ向かった。
「母さん。見てほしいものがある」
母は腕を組んだまま振り向き、私の手元へ視線を落とした。
両手で剣を丁寧に差し出した。
「エルザが……自分の手で打ったんだ」
母は無言で剣を受け取り、刃を光にかざした。
柄を握り、重さを確かめるように手の中で傾けた。
長い沈黙。
やがて、母は静かに口を開いた。
「粗く、未熟。しかし……まっすぐだ。これは――持つ者を鍛える剣だ。打った者の心が、そのまま宿っている」
思わず息を飲んだ。
母がこんなふうに評価するのを、ほとんど聞いたことがない。
誇り高き戦士である母は、技にも、覚悟にも、厳しい。
その母が――エルザの剣を認めた。
まるで自分が褒められたように、嬉しかった。
「そうか……すごいな、エルザ……!」
堪えきれず、笑みがこぼれた。
母は私をちらりと見て、呆れたように、しかしどこか優しく息をついた。
「良い友を得たな、ライア」




