翠森のエルフ、まだ見ぬ世界に憧れて③
森に差し込む光はすっかり薄れ、夕暮れが辺りを染めはじめていました。
私は枝葉の影に身を紛れさせながら、慎重に集落へと戻っていきました。
(……誰にも見られていませんよね)
そう自分に言い聞かせても、鼓動はいつもより速いままです。
足音を忍ばせながら、集落の中を進んでいきました。
それでも、今日聞いた外の世界の話が、頭から離れませんでした。
(……外の世界は、本当にあんなにも広いのでしょうか)
そんなことを考えているうちに、私は自分の家の前へと辿り着きました。
扉に手をかけた、その時――
「……エリシア」
背後から声をかけられ、思わず肩が跳ねました。
ゆっくり振り返ると、そこには長老が立っておられました。
他のエルフより小柄で、白みを帯びた金髪を編んだ方です。
しかしその瞳は、森そのものの深さを宿したように澄んでいました。
「こんな時間まで、どこへ行っておったのですか」
長老は穏やかに問いかけます。
叱責の響きはありません。
けれどその声音は、すべてを見透かしているようにも感じられました。
「……少し、精霊たちと話をしていました。気づけば遅くなってしまって……」
言いながら、声がだんだん小さくなっていきます。
長老は私をじっと見つめたまま、ふう……と息を吐きました。
「エリシア。森の外には、我々の知らぬ風が吹いています。それは好奇心を誘い、時に心を惑わせることもある。ですが、その風に心を奪われ、急いで追いかけてはなりません」
その言葉に、心がちくりと痛みました。
(……やはり、気づかれているのでしょうか)
長老は、諭すように言葉を続けます。
「あなたの心がどこを向いているのか……私には、少しだけわかる気がします」
思わず息を呑みました。
「外の世界を知ろうとする気持ちを、否定はしません。ですが――焦って道を踏み外すことだけは、どうか避けなさい」
その言葉にも、私を責め立てるような響きはありませんでした。
むしろ、私の心がどこへ向かおうとしているのかを、ずっと前から見守っていたかのようでした。
「……はい。肝に銘じます。ご心配をおかけして、申し訳ありません」
長老は私の肩に軽く手を添えると、そのまま背を向けました。
「今夜は休みなさい。精霊たちの声に耳を澄ませるといい。答えは急がずとも、いつか見えてきます」
長老はそのまま、薄闇の向こうへ消えていきました。
その場に残り、長老の言葉を思い返しました。
(……焦っていたのでしょうか。でも――あの方のお話を聞いて、もっと外の世界を知りたいと思ったのは確かなのです)
◇ ◇ ◇
自室へ戻って窓辺に腰を下ろし、冷たい夜気を胸いっぱいに吸い込みました。
(……外の風)
森の奥で感じたあの“知らない匂い”が、もう一度ここへ届いたような気がしました。
気配を感じて目を向けると、窓辺に小さな光が揺らめいていました。
「……あなたは」
普段は私のそばまで寄ってくることのない、まだ幼い精霊でした。
淡い緑の光を纏い、その輪郭を微かに揺らしています。
その精霊は、私の手元へふわりと降りてきました。
『……きょうの風、すこしだけ違いました』
囁き声のような、それでいて森の奥で鳴る鈴のような音。
「外の……風、ですか?」
『うん。森の外から、旅する人の風。あなたと同じ匂いがしていました』
その言葉に、青年と別れた時のことを思い出しました。
木々の葉が小さく揺れ、精霊たちが彼を見送っていた、あの時を。
『その風が……見せてくれました。あなたが見たがっていた、世界を』
次の瞬間、精霊の光が大きく広がりました。
そして私の視界に――言葉では言い表せないほど鮮やかな“断片”が流れ込んできました。
知らない青の湖。
白く広がる雪原。
無数の灯りのともる街。
ほんの数秒。
それだけなのに、目にした景色は鮮やかに焼きついていました。
「……なんて、広い」
精霊は私の手の上にちょこんと座り、淡い光を揺らします。
『エリシア。世界はね……こわいものもあるけれど、きれいなものも、たくさんあるんだよ』
何も言わず、その言葉に耳を傾けました。
『あなたは、みつけられる。だって、あなたは……精霊の声を聞けるから』
優しくて、どこまでもまっすぐな声でした。
先ほど目にした景色が、今も心に残っていました。
「……私は、いつか――この森の外へ、自分の足で歩いてみたい」
精霊は嬉しそうに光を揺らすと、宙へ浮かび上がりました。
『その日がくるまで……あなたの心を、守っているよ』
そう言って、小さな光は夜の中に溶けていきました。
窓辺に残り、精霊が消えていった夜空を見つめていました。
(……世界は、森だけじゃない)
その想いが、初めてはっきりとした形を持った瞬間でした。
◇ ◇ ◇
翌朝、葉に宿る一粒の朝露が、朝の光を映して輝いていました。
森の朝はいつも鳥のさえずりと霧の香りに包まれています。
けれどそのどちらも、今朝は少しだけ違って感じられました。
(……世界は、広い)
昨日、精霊が見せてくれた景色は、今も鮮やかに目に焼きついています。
身支度を整え、家の外へ出ます。
朝日が木々の葉を透かし、森の中へ柔らかな光を落としています。
(こんなにも道が明るく見えるなんて)
昨日と同じ森なのに、ほんの少しだけ色が違って見えます。
風の流れも、精霊たちの息遣いも、今はどこか外の世界へ続いているように感じられました。
私は無意識のまま、青年と話したあの場所へ向かって歩き出していました。
昨日、彼が立っていた場所。
そこにはもう、誰の姿もありませんでした。
(……あの方は、もう遠くへ行ってしまったのでしょう)
足跡はすっかり消えていました。
けれど、昨日ここで交わした言葉は、はっきりと覚えています。
ひとつ深く息を吸い込みました。
もっと、この森の外に広がる世界を知ってみたい。
その思いは、昨日よりも確かなものになっていました。
(今すぐには……行けません。でも――いつか、必ず)
もう一度、森の向こうへ目を向けました。
まだ見ぬ世界を、いつかこの目で見るために。
エリシアの過去編、最後までお読みいただきありがとうございました。
森の外への小さな憧れは、やがて「自分の目で世界を見たい」という夢へ。
この日の想いが、後のエリシアの旅へとつながっていきます。




