この拳は守る為に①
アタイの名前はトーラ。
ミノタウロスの魔物娘……らしいけど、昔の姿を知ってるヤツらが言うには、『本来は全身がもっと牛っぽかった』だの『角も牙ももっとゴツかった』だの、よくまあ好き勝手言ってくれる。
――ま、どうでもいいけどな。
今のアタイは、アタイだ。
二本足で歩いて、拳で戦って、飯食って酒飲んで、明日を生きる。それで十分。
でも、アタイの“明日”は最初から平穏だったわけじゃない。
生まれたのは鉱山町ヴァルハール。
今でこそ賑やかな商業の町だけど、当時はまだ鉱山って呼び方のほうがしっくりくる。
そんな荒れた場所だった。
灰と土埃が昼でも空をくすませ、道具の音と怒鳴り声だけが響く。
人間も魔物娘も関係なく、“働き手”なんて優しい呼び名はなかった。
使えなくなれば捨てられる、ただの“道具”。
そんな町で、アタイは育った。
拳しか取り柄のねえ、力を持て余したガキだった。
だけど――あの頃のヴァルハールは、ただの灰色じゃなかった。
錆びついた鉄の中にも、確かに“熱”があったんだ。
◇ ◇ ◇
あの頃のアタイは、今みたいに“頼れる姉御”なんて呼ばれるような器じゃなかった。
ただのガキで、ただの荒くれで――力を持て余していたミノタウロスの小娘だ。
朝は鉱山の笛の音に叩き起こされて、寝ぼけた顔のまま外に出れば、空気はいつも鉄と油の匂いでむせ返ってた。
「おい、ハンマー持てるか!」
「そっちの荷、運べるだろ!」
アタイがミノタウロスってだけで、周りの大人たちは力仕事を当然みたいに押しつけてきた。
まぁ、持てるけどさ。
ただ、ガキの頃のアタイは、その扱いが気に食わなかった。
なんでアタイばっかりなんだよ、って。
なんでこんな町で、こんなことばっかり、って。
でも、アタイには不満を言う代わりに“拳”があった。
荒れてる奴らを見れば殴るし、誰かが無理やり働かされてたら腕を引っ張って逃がす。
喧嘩を売られたら十倍返し。
馬鹿みたいな反抗の仕方だけど、あの頃はそれが精一杯の抵抗だったんだ。
アタイには、“赤”を見ると血が熱くなる厄介な体質があった。
これには本当に苦労した。
ちょっとした怪我でも、誰かの赤いスカーフでも、目に入れば胸の奥が熱くなる。
鼓動がドクンと跳ねて、身体が勝手に戦闘態勢に入っちまうんだ。
暴走したことがないわけじゃない。
むしろ、何度もある。
仲間の魔物娘に怖がられたこともあるし、大人たちに止められて殴られたこともある。
自分でも制御できない力ってのは、そりゃあ怖ぇもんだよ。
……だけど、それでもさ。
理不尽が目の前にあるのに黙ってられるほど、アタイは器用な性格じゃなかった。
だから今日も拳を握って、誰かが泣いてる方向へ走っていった。
それがアタイの“若い頃の日常”だった。
灰色の町で、錆びた鉄の音を聞きながら、アタイはただ拳ひとつで生きてた。
◇ ◇ ◇
ある日を境に、鉱山の空気はさらに悪くなった。
理由は単純だ。逃げる奴が増えたからだ。
毎日のように誰かが倒れ、誰かが消え、誰かが鉄くずの下敷きになって運ばれていった。
そりゃあ逃げる奴も出るよ。
アタイだって、殴れるもんなら殴って逃げるさ。
――でも、管理者たちは違った。
逃げた奴を追いかけるんじゃなく、“残った奴を締めあげる”ことにしたんだ。
そして発表された新しい制度が、最低で最悪のルールだった。
『暴力沙汰を起こした場合、本人ではなく“同じ班の全員の労働時間を倍にする”』
……は?
最初に聞いたときは耳を疑った。
殴った本人より、周りのほうが罰を受けるなんて、どこの狂った頭から出てくるんだ。
だけど、それが本当に適用された。
ちょっとした喧嘩が起きただけで、同じ持ち場の連中は二倍のノルマ。
一人が殴り合いを始めれば、十人が徹夜。
アタイが誰かの肩を掴むだけで、周りが怯えて後ずさった。
「トーラ……頼む、今日はやめてくれよ」
「殴りたいのはわかる。でもアタシらがもう耐えられないんだ」
そんなふうに言われるのが、アタイは一番きつかった。
正直、拳を振るうのは怖くなかった。
暴走する怖さにも慣れてた。
殴られるのだって、まあ我慢できる。
でも――アタイが殴れば、他の誰かが泣く。
それだけは、どうしても耐えられなかった。
あの頃、アタイには守りたい奴なんていないと思ってた。
なのに気がつけば、“班”っていう小さな集まりが家族みたいになっててさ。
老いたばあさんとか、力の弱いインプの子とか、人間の若造とか。
あいつらが汗だくになって、アタイのせいで苦しむ姿を見るぐらいなら――
拳なんて、折れてくれて構わないと思った。
だからその日から、アタイは殴れなくなった。
力があっても、“振るう理由”が消えたら意味がない。
悔しいとか情けないとか、そんな言葉じゃ足りなかった。
ただ、胸の奥にドロッとした何かが沈んでいく感覚だけが、いつまでも消えなかった。




