月下の吸血鬼と優しき刃⑤
青年の瞳が揺れる。
驚きと戸惑い、そして……理解しようとする優しさ。
その優しさが、何よりも苦しかった。
気づけば大扉へ歩み寄り、青年の前へ立っていた。
吸血鬼らしい冷静さも誇りも置き去りにし、ただ本能に押されるように。
“失いたくない”
理由などない。
ただそれだけの純粋な衝動。
そして、口はその衝動をそのまま言葉にした。
「……眷属になれ。共に永遠を生きようではないか」
時間が凍った。
青年は驚愕し、何かを言いかけて止まった。
自分でも、口にした言葉の重みに遅れて気づく。
そんなつもりではなかった。
そもそも、考えたこともなかった。
ただ、失うという事実が堪えられなかった。
その方法が、眷属にすることしか浮かばなかっただけ──本当に、それだけだった。
だが、人間にとって眷属とは“永遠の拘束”に等しい。
それを深く考えずに、口にしてしまった。
青年はしばらく黙り、ゆっくりと視線を落とした。
それから、まるで余を壊れ物のように扱うかのような声で、口を開く。
「……すまない。私は……人間として、人間のままで在りたいんだ」
刺さるような拒絶ではない。
むしろ、抱きしめるような拒絶。
その優しさが、どうしようもなく残酷だった。
胸が、ひどく痛んだ。
痛みなどとっくの昔に捨てたと思っていたのに。
返す言葉を見つけられないまま、ただ青年の声を聞いていた。
「あなたを否定するつもりはありません。貴女と過ごした時間は本当に大切でした」
なぜだ。
そんなに優しくするな。
「でも、だからこそ……私は“私”を手放したくない」
冷淡に切り捨ててくれたなら、余はこんな痛みを知らずに済んだものを。
そう思うほど、青年の言葉は温かかった。
「ありがとうございました。あなたとの日々は……決して忘れません」
忘れない。
吸血鬼にとって、その言葉は呪いに等しい。
忘れられぬものがあるという事実は、余にとって初めての“喪失”の兆しだった。
青年の背が遠ざかっていく。
だが、扉に手をかける寸前、青年は振り返った。
月明かりが彼の横顔を照らす。
まるで、余に刻まれた“痛み”を見透かしたような、穏やかなまなざしだった。
「……最後に、ひとつだけ」
彼の声は穏やかで、それでいて耳に残るものだった。
「あなたが振るう力は……誰かを傷つけるためだけのものじゃない。守ることにも使えるはずです」
言葉を失った。
吸血鬼の力は暴力であり、支配であり、奪うための象徴だった。
そう信じて疑ったことすらなかった。
だが青年は、その価値観を否定するのではなく、別の可能性を示すように、ただそう告げた。
守るための力? 余が? この身で?
理解できなかった。
だが、胸の奥がわずかに震えた。
「貴女の力は、美しいと思いました。誰も傷つけない形に、その力を整えられたなら……きっと、もっと貴女らしくなる」
“貴女らしく”
そんな風に言われたのは、生きてきた長い年月の中で初めてだった。
ただ、彼の言葉を受け止めるしかなかった。
「どうか……あなたの未来に、安らぎがありますように」
そして、青年は月の夜に消えていった。
青年が去った扉の音は、古城の奥深くまで長く反響しているように感じられた。
再び訪れた静寂──千年を超えて慣れ親しんだはずの沈黙が、今は肌に張りつくように冷たく、重い。
しばらく動けなかった。
人間一人が消えた程度で、ここまで胸を締め付けられるとは……なんと情けないことか。
月の光が差し込む廊下へ進むと、青年が掃除した場所だけがわずかに明るさを保っているように見えた。
そこに立ち止まり、しゃがみ込む。
古城の石畳はいつも通り冷たい。
変わったのは、“余の側だけ”なのだと理解した。
「……守るための力、か」
青年の言葉が脳裏に蘇る。
爪も牙も、吸血鬼が生まれ持った暴力。
誇りでもあり、呪いでもあった。
青年はそれを“美しい”と言った。
そんな言葉を向けられたことなど、生まれてから一度もなかった。
思い返すほどに胸が痛む。
だが同時に……胸の奥で何かが息づいている気がした。
それが何なのか、この時の余にはまだ分からない。
ただ、青年の残した言葉だけは、いつまでも消えずに残っている。
立ち上がり、青年が最後に振り返った場所へと歩いた。
扉を開けると、夜の風が城内に流れ込んでくる。
青年の匂いも、気配も、もう何ひとつ残ってはいない。
けれど、確かに彼は存在した。
この古城に、余の隣に。
そして彼が残した言葉は、余の中で何かを変え始めていた。
「……余も、変わるというのか……?」
初めて自分の“変化”を自覚した瞬間だった。
長命種は変化しない──そんな傲慢を、青年はたった短い滞在で覆したのだ。
扉を閉じ、そっと胸に手を置いた。
そこにはまだ、青年の声の余韻がある。
“あなたの力は、美しい”
“もっとあなたらしくなる”
その言葉だけが、静寂よりも深く響き続けていた。
長い夜の中へ戻っていく。
だが、もう以前の“孤独”とは違う。
いつかこの力を、誰かを守るために振るう日が来るのなら。
それはきっと、青年が余に与えた、唯一の贈り物なのだろう。
古城に月光が満ちる。
その光の下で、目を閉じた。
ヴァネッサの過去編『月下の吸血鬼と優しき刃』は、これにて完結です。
本編では仲間達を見守り、時にその力で守ってきたヴァネッサ。
彼女がなぜそのように変わっていったのか、そのきっかけとなった一人の青年との出会いを描いた物語でした。
永き夜を生きる彼女にとって、青年と過ごした時間はほんの一瞬だったのかもしれません。
それでも、その出会いは確かに彼女の中に残り続けています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
次の過去編も、見届けていただければ嬉しいです。




