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月下の吸血鬼と優しき刃④

「動くと傷が開きますよ。じっとしていてください」


「余は吸血鬼だぞ? 人間ごときの手当てなど──」


言いかけて、言葉を飲んだ。


青年の指先が、驚くほど丁寧だったからだ。

まるで壊れ物でも扱うように、そっと包帯を当てていく。


……滑稽な話である。

吸血鬼が、人間に世話を焼かれているなど。


「……好きにするがよい」


「はい、そうします」


青年は小さく笑った。

その笑みが、なぜか胸に引っかかった。


そんな日々が、しばらく続いた。


ある朝、青年は古城の廊下を掃除していた。

余計なことを、と思った。


しかし放置していた廊下が思いのほか綺麗になり、咎める言葉を失った。


「じっとしているのが苦手なので」


「……勝手にしろ」


余は長命ゆえ、時間など腐るほどある。

だが、彼は違うのだと気づく。


人間は短命だ。

同じ一日でも、価値の置き方がまるで異なる。


そのせいか、彼の動き一つ一つが、輝いて見えた。


ある日、青年が食堂で食事をとっているのを見かけた。


人間は食事をせねばならぬ種族──

そんな当然のことすら、久しく忘れていた気がする。


香りが古城に満ちて、奇妙に落ち着く。

彼は気づき、こちらに笑いかけた。


「よかったら一緒にどうです?」


「余は腹など空いておらぬ」


「知っています。でも……話くらい、どうですか?」


妙な人間だ。

余のようなものと語らって何が楽しいというのか。

だが、気づけば向かいの席に座っていた。


青年は昔の旅の話、人間の町の祭り、出会った人々のことを語った。

吸血鬼にとってはどれも瑣末な話のはずなのに、耳に心地よかった。


後日、青年が書庫に踏み入り、古い文献を興味深そうに眺めていた。


「……それは余の蔵書だ。勝手に触るな」


「すみません。ですが……すごいですね。こんなに古い文字まで読めるなんて」


褒められて嬉しいなど……吸血鬼として恥である。


それなのに、青年のまなざしはただ純粋で──

余の長い人生を肯定されたような気すらした。


「当然だ。余は長く生きている。それだけだ」


「それだけじゃありませんよ。知ろうとする意志があるから、読めるんです」


……やめろ、人間。

なぜそんな目で余を見る。


そのまなざしは温かい。

吸血鬼の身には過ぎた温度だ。


◇ ◇ ◇


あれは何度目の夜だったか。

月光のもと、窓辺に佇んでいると、青年が隣に立った。


「……貴女は、寂しくないんですか?」


「余を誰と勘違いしている。寂しさなど、とうに捨てたわ」


「捨てたんじゃなくて……見ないようにしていただけだと思います」


胸が痛んだ。

吸血鬼に、心の痛みなどあるものか。


たかが人間の言葉に、心を動かされるなど。

その場で返す言葉を失った。


月の光の下、二人の影が横に並んだ。

不思議と……落ち着く距離だった。


そんな夜を重ねるうちに、いつしか時の流れすら曖昧になっていた。


青年がこの古城に留まるようになって、どれほどの夜が過ぎたのか。

正直、余にはもう分からぬ。


人間にとっての数日が、吸血鬼にとっては霧に沈む一瞬であり、それでいて妙に濃い。

いや、“濃い”と感じている時点で、すでに異常なのだが。

人間の温度が、これほど空間を満たすとは思わなかった。


◇ ◇ ◇


青年が古城を離れようとしていることに気づいたのは、いつもの静寂が、何かを失う前触れのように耳に残ったからだった。


人間の気配というものは儚い。

しかし儚いがゆえに、消えゆく瞬間だけは鋭く感じ取れる。


青年が「帰る」と明言したわけではない。

けれど、荷物に触れる指先のわずかな緊張や、歩く速度の微妙な変化──そのすべてが、“別れ”を告げていた。


胸がざわついた。

苦く、重く、そして……寂しいと呼ぶにはあまりに初々しい。

とうに忘れたはずの感情を、思い出したくはなかった。


青年が古城の大扉へ向かおうとしたとき、気づけばその背を呼び止めていた。


「……どこへ行く」


自分でも驚くほど、声が掠れていた。

青年は振り返り、あの──余計に胸をざわつかせる柔らかな笑みを浮かべる。


「元いた場所へ、戻るだけですよ。長く世話になりました」


その声音には、温かさがあった。

人間特有の、いつか消えてしまう儚いもの。

余のような存在には、到底似つかわしくない。


彼が城を出れば、またあの底なしの静寂が戻ってくる。


いつも通りのはずだ。

失われるものなど何もない。

けれど今だけは──そのはずの静寂が、不意に耐え難い虚無として迫ってきた。


「……行くな」


その言葉は、自分の意思を挟む暇もなく零れ落ちた。

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