月下の吸血鬼と優しき刃③
「何故だ。なぜ……刺さぬ?」
声は自然と低くなる。
痛みからでも、敗北の屈辱からでもない。
ただ、理解ができなかった。
命を狩る責務を負った人間が、なぜこの瞬間に迷いを見せる?
青年はしばらく沈黙していた。
刃がかすかに震え、その影が余の首筋へ落ちる。
そして、ようやく絞り出すように口を開いた。
「……あなたの目を見たら……刺せませんよ」
その言葉とともに、青年の瞳が余を捉える。
恐怖でも憎悪でもない。
ただ、余の奥底にある“なにか”を見抜こうとするような、真摯で、愚かで、揺るぎない光。
瞬きを忘れたように、その顔を見つめ返す。
「……愚かな。余は吸血鬼だぞ? 血を啜り、人を脅かす存在だ」
「脅かしていません。今まで倒してきた吸血鬼とは……貴女は違う」
「違わぬ。余も同じ“夜の眷属”よ。貴様たちの言葉で言えば──怪物だ」
青年は剣を握る手に力を込める。
だが、再び振り下ろすそぶりはない。
むしろ、言葉の重さに耐えるように俯いた。
「……私は、怪物を狩ってきたつもりでした。けれど倒した相手も、最後はみんな“人の顔”をしていた。悲しい顔ばかりでした」
その言葉には、痛みと、悔いと、疲れが滲んでいた。
ほんの一瞬、呼吸を止める。
誰にも悟られぬほど僅かな変化だったが──自分の中で何かが揺れたのを感じた。
「……情に流されたか。甘いな、人間」
「わかっています。それでも私はあなたを……殺せません」
青年はそっと剣を下げた。
刃が喉元から離れる瞬間、胸の奥で何かが微かに軋んだ。
知らぬ振りをするように、冷たく言い放つ。
「殺せぬなら、帰れ。余を見逃し、二度とこの古城に足を踏み入れるな」
だが、青年は動かなかった。
その視線は、腹部の傷へ向けられている。
《赤日の刃》の残滓がじりじりと広がり、傷口は吸血鬼の再生を阻み、血を流し続けている。
青年は深く、苦しげに息を吸い込んだ。
「……貴女、そのままだと……死んでしまう」
「余が死ぬことを、気にしているのか?」
「……見過ごせません」
その一言が、ただの剣より重く響いた。
ああ、そうか──
この人間は、ずっと迷っていたのではない。
“自分の正しさ”に従っているだけなのだ。
取り繕いでも、計算でもない。
ただ、まっすぐに。
「……人間よ。余の命を救うというのか?」
「治す方法があります。私の血を少しだけ分ければ……あなたは再生できるはずだ」
言葉を失った。
吸血鬼に血を与えるという行為は、狩人にとって最も愚かで、最も命知らずな行動。
殺すべき存在に、血を与えようとするなど……あり得ぬ。
しばらく沈黙する。
痛みも、《赤日の刃》の残滓も、今は遠いものに感じた。
「……人間。お主は本当に……愚かだ」
青年は否定しなかった。
その愚かさを恥じてもいなかった。
むしろ、誇りのように受け止めていた。
青年は歩み寄り、余の前にしゃがみ込む。
その手が、傷の近くへ伸びる。
温かい。
それは、ずっと拒んできた“人のぬくもり”だった。
「助けたいんです。たとえ……あなたが吸血鬼でも」
その熱を真正面から受け止められなかった。
初めてだった。
初めて──人間の前で視線を逸らした。
◇ ◇ ◇
──気がつけば、薄明かりの部屋にいた。
重たい眠りから覚めるように瞼を開けば、見慣れた古城の天井が視界に入る。
石造りの冷たいはずの空気が、妙に温かかった。
上体を起こし、腹部に手を当てると、致命傷はすでに塞がっていた。
だが、内側に微かに残る《赤日の刃》の影響が、動こうとするたびに鈍い痛みを呼び起こす。
本来なら、一晩もあれば完治しているはず。
長き生の中で、こんな回復の遅れは初めてだ。
「起きたんですね」
低く落ち着いた声が耳に届く。
部屋の隅、粗末な椅子に腰かけていた青年が、こちらへ視線を向けていた。
「……まだ居たのか。余はもう、死なん」
「それでも目が離せません。《赤日の刃》の残滓がまだ身体に残っているかもしれない」
「余の身体のことなど、余が一番理解している。人間の手など不要だ」
少し語気を強めると、青年は苦笑するように息を漏らした。
「……そう言うだろうと思っていました」
そう言いつつ、青年は水差しを持って近づいてくる。
その手を払おうと腕を伸ばした──が、傷に痛みが走り、動きが止まる。
青年は即座に気づき、その手をそっと押し戻した。
「ほら、まだ完全じゃない」
「……放っておけ」
「できません。あなたは……私のせいで傷を負ったんです」
あの時はあれほど凛としていたその表情は、今はどこか自分を責めているようで、不思議と胸にざらりとした感覚を残した。
青年は椅子をベッドのそばに引き寄せ、まるで長患いの患者を世話するかのように座り直した。
それが当然であるかのように。
呆れ半分、本気で苛立ち半分でため息をつく。
「人間……余は吸血鬼だぞ。お前の敵であり、斬られるべき存在だ。介護など、無駄な情けだ」
「敵だったのは……あの瞬間までです。今はただ、弱っている貴女を見捨てる気にはなれません」
なんと理不尽で、なんと押しつけがましく、なんと……奇妙に心に刺さる言葉だ。
「お前は、余が牙を剥かぬとでも思うのか?」
青年は一拍置いてから答えた。
「あなたは私の首を噛まない……そう思いました」
その根拠の無い自信が、なぜか胸をざわつかせた。
青年は水差しを置き、古城の窓外へ視線を向ける。
夜明け前の薄い蒼が広がり、遠くの森を覆う霧が揺らいでいる。
しばらく静寂が続いた。
「……いつまで余の手元にいるつもりだ」
「あなたが歩けるようになるまで」
「ふん……余を殺しに来たくせに、最後は介護に尽くすとは……まったく滑稽よ」
青年は少しだけ視線を逸らし、すぐにこちらへ向き直る。
「滑稽でも……後悔はしていません」
まただ。
そのまっすぐな瞳。
戦いのときも、敗北した今も、どれほど睨みつけようと折れなかった光。
胸が騒ぎ立つ理由が、余にはまだわからない。
この数日間、青年が傍に居続けたその事実だけが、じわりと身体に沁みていった。
拒むべき温度のはずなのに、不思議と嫌ではなかった。




