月下の吸血鬼と優しき刃②
ゆっくりと腕を広げ、指先に赤い光を宿す。
吸血鬼としての感覚が研ぎ澄まされ、視界は鮮明に、音はより立体的に聞こえ始める。
「……行きますッ!」
青年が床を蹴る。
風を切る音とともに、剣がこちらへ迫った。
しかし、その動きは余には滑稽なほど遅い。
「遅い」
ひらりと身を翻し、青年の剣を指先でいなす。
金属が甲高く鳴り、火花が散った。
青年は踏みとどまり、すぐに二撃目を振るった。
その軌道は素直で、美しい。
だが──工夫がない。
跳躍し、天井近くまで一気に高度を取る。
床が遠ざかる。
月光が背中を照らす。
青年が驚愕に目を見開いた。
「ほう……視線は追えるか」
落下とともに、鋭い蹴りを叩き込む。
青年は咄嗟に剣を盾にして受け止めた。
「ぐっ……!」
衝撃に耐えきれず、青年の身体が床を転がる。
体勢を崩しながらも、すぐに起き上がるその根性だけは認めてやろう。
瞬きひとつの間に距離を詰め、爪を振るう。
青年はギリギリで受け止め、剣と爪がぶつかって鈍い音が響いた。
「しぶといな」
「……諦めたら、立っている理由がなくなる!」
青年は反撃に転じ、大きく踏み込んで剣を横薙ぎに振るう。
その一撃は重い。
技術ではなく、覚悟の重さだ。
貫手で刃をはじき、青年の懐へ滑り込む。
──拳が、青年の腹部へ突き刺さる。
「が……ッ!」
青年は苦悶の声を上げ、膝をついた。
だが、倒れない。折れない。
剣を支えに、立ち上がる。
血を吐きながら、なおも前を向いた。
「……まだ……終われません……!」
その顔に宿るのは、恐怖ではなく決意。
殺すためではなく──使命のために。
「終わりを選ぶのは、余ではなくお前自身ということだ」
姿を霞ませ、後方から青年の首元へ爪を突きつける。
青年は紙一重で前転し、回避した。
ほう。反応速度が研ぎ澄まされてきたか。
青年は地を蹴り、渾身の突きを放つ。
その一撃は、先ほどとは比べ物にならない。
刃が肩口を切り裂いた。
鋭い痛みが走り、血が滴る。
「……悪くはない」
青年は息を切らしながらも、剣を下げない。
「はぁ……はぁ……貴女がどれほど強くても……私は退けない!」
「よかろう。ならば本気を見せてみよ、人間!」
青年の剣が、月光を受けて白く光る。
ただの金属光沢ではない。
胸の奥に刺さるような嫌な気配が、刃から滲んでいた。
(その剣……何かあるな)
低く構えると、青年もまた呼吸を合わせる。
そして床石を砕く勢いで踏み込み、青年の懐へ一気に迫る。
「──ッ!」
青年は怯まず剣を振り上げ、爪と正面から激突させた。
金属と爪がぶつかり、火花が散る。
その瞬間、眩い閃光が弾けた。
「……ッ!? ぐ……!」
視界を焼く“光”。
日光ほど強烈ではないが、吸血鬼である余の感覚を容赦なく引き裂く。
痛みは鋭く、脳髄をひっかくような不快感。
青年の声が聞こえた。
「……これが私達一族に伝わる“赤日の刃”だ!」
苦しみながら後方へ跳ぼうとするが、ほんの一瞬、筋肉の反応が遅れた。
その“わずか”が、命取りだった。
「──はぁッ!!」
青年の叫びとともに、剣が腹部を深々と切り裂いた。
温かい血が滲む。
石床に赤が落ちる音が、妙にはっきりと聞こえる。
(……やるではないか、人間……)
膝がわずかに震えた。
壁に背を預けながら、青年を見据える。
青年は肩で息をしながらも、次の一撃を放つ構えを見せなかった。
ただ、強く、迷いなくこちらを見つめ返している。
腹部に受けた一太刀は、吸血鬼である余なら本来どうということはない。
時間とともに治癒し、再び立ち上がることなど造作もないはずだった。
「……っ……ふ……力が……入らぬ」
膝から力が抜け、ずるりと床へ崩れ落ちる。
傷そのものの痛みではない。
《赤日の刃》の残滓が、血肉の奥深くでじりじりと神経を蝕んでいる感覚。
忌まわしい光だ。この余が、人間の一太刀で動けぬとは。
荒い息を抑えながら前を見ると、青年が喉元に剣を突きつけていた。
だが、その刃は──動かない。
普通なら、そのまま首を落とすべきだ。
迷いなど微塵も持ってはならぬ距離だ。
目を細め、青年を見上げる。
「……どうした。殺すつもりで来たのだろう?」
一歩踏み込めば、それで終わる。
それなのに──踏み込まぬ。
「余が怖いのか? それとも……迷っているのか?」
自嘲のような、挑発のような声音になった。
青年はわずかに目を伏せ、それでも剣を下げない。
ただ、“とどめを刺さぬ理由”を飲み込んでいるようだった。




