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月下の吸血鬼と優しき刃①

──余の名はヴァネッサ。

夜を統べる吸血鬼にして、この古城の主。


人間どもの歴史書とやらには、魔王の崩御だの、覇権の移り変わりだのと、いちいち重大事として記されるらしいが……余にはどうでもよいことだ。


魔王が打ち倒され、新たな覇が立ったのが、いつのことだったか。

十年か、百年か……その境すら曖昧になるほど、永き時を生きてきた。


あの混乱の折、余の肉体は男の姿から女へと変貌した。

魔王が代わった余波というやつであろう。


だが──そんな些事で余の本質が揺らぐはずもない。


外面がどう変わろうと、吸血鬼としての魂は変わらぬ。

永き夜を歩む者とは、そういうものだ。


月光が差し込む玉座で、静かに息を吐いた。

石壁を撫でる夜風が心地よい。

人間どもの喧騒が届かぬこの静寂こそ、余の世界。


それゆえだろうか──城の外から聞こえてくる甲高い声が、やけに耳につく。


「なぁ、この先が“吸血鬼の城”なんだろ?」


「嘘くせぇ……でも行ってみようぜ!」


……また愚かな若造どもが、度胸試しに来たらしい。


「ふん。夜を知らぬ人間は、いつの世も変わらぬな」


玉座から立ち上がり、廊下へ向かった。

足元にまとわりつく霧が、余の気配に応じてしなやかに形を変える。


やがて、三つの気配が古城の奥へと近づいてくる。

若く、浅い呼吸。

恐怖を紛らわせようと軽口を叩き合っているのが、手に取るようにわかる。


「良い。余が“夜”というものを教えてやろう」


廊下に流れ込む霧を指先で払うと、それらは形を変え、影の中へと沈んでいく。


まず、一人目。


幼い頃に亡くした母親の姿が、霧の中からゆっくりと現れる。

優しかったはずの顔は、腐り落ちたように裂けながら、それでも微笑んでいた。


「……そんな、嘘だ……母さん……?」


少年の膝が崩れ落ちる。


霧の影が手を伸ばす。

その手は、彼が“向き合いたくなかった現実”そのもの。


「やめろ……やめろォッ!」


少年は泣き叫び、仲間を押し退けて逃げていった。


二人目。


暗がりから、怒号が響く。


――何をしている。役立たずめ。

――お前のせいだ。


それは、男の深層に刻まれた“父親の声”。

姿は見えず、ただ声だけが耳元にまとわりつく。


「や、やだ……やめてくれ……」


男は壁にもたれ、震えながら後退していく。


最後の一人。


少女の前には──未来の自分が現れた。

夢に破れ、疲れ果て、孤独に泣く“諦めた自分”。


少女は声すら上げられぬまま、ひたすら城外へと駆け戻っていった。


……ふん。


人は皆、己が心の奥底に恐れを抱えている。

余はただ、それを“映した”にすぎぬ。


廊下に残ったのは、余と静寂だけ。

霧は再び床へと溶け、月光を受けてかすかな銀色に輝く。


踵を返し、再び玉座へと戻った。


「くだらぬ。あれで夜に挑んだつもりか」


人間など、所詮この程度。

余の静寂を乱すには、あまりにも力不足だ。


そう──この世界に、余の夜を揺るがす者などいない。


……あの日、ひとりの“青年”に出会うまでは。


◇ ◇ ◇


……風が揺れた。


静寂を纏う古城に、微かに混じる異質な気配。

足取りは重い。だが、迷いはない。

息遣いは一定で、鼓動にもほとんど乱れがない。


……ほう。ひとりか。

この夜に、余の古城へ正面から踏み入るとは。


ただの無謀な若造ではあるまい。

気配は薄いが、刃のように研ぎ澄まされた“静けさ”を纏っている。

闇に慣れている人間か……いや、それだけではない。


その気配が階段を上るにつれて、胸の奥に微かなざわめきが生まれた。


「よい。まずは“試す”としよう」


指先をひらりと払う。

廊下に満ちる霧が震え、影が形を変えていく。


人間が最も目を背けたい“心の闇”──恐怖、後悔、絶望。

霧から生まれた“幻”が、角を曲がった青年の前へと立ちふさがる。


離れた場所にいながら、その様子は手に取るようにわかる。


しかし、青年は止まらない。

一瞬だけ目を細めたものの、足取りを緩めることなく、まるで霧の中を歩くように幻を通り抜けていく。


幻は確かに、彼の心を映していた。

それなのに……彼は怯えない。


「……ほう。恐れぬのではないな。恐怖を抱く余白が残っておらぬか」


これは、人間が“強い”のとは違う。


むしろ逆だ。

傷つきすぎて、恐怖に反応する余力すら残っていない……そんな気配。


玉座に腰を下ろす。

この侵入者は、軽くあしらうべき相手ではない。


ほどなくして、玉座の間の重い扉が、きぃ……と音を立てて開いた。

入ってきた青年は、薄青い月光を背に受け、こちらへ歩み寄ってくる。


微かに揺れる黒髪。

疲れを隠そうともしない、影を帯びた瞳。

だが、その奥には折れぬ芯が一本、まっすぐに通っていた。


……その瞳を見た瞬間、思わず息を呑む。


「……儚き光、か」


青年は玉座の下で立ち止まった。

剣に手を添えたまま、こちらを見上げる。


「……あなたが、この古城に住む長命の吸血鬼……ヴァネッサで間違いないですね」


その声音に、畏れよりも確認の色が濃い。

どうやら余を“最古の存在”とも“支配者”とも思っていないらしい。


ただ人々の噂に名が残る、危険な吸血鬼の一人。

その程度として扱っている。


足を組み、玉座から青年を見下ろす。


「ふふっ、余はただの吸血鬼よ。群れも持たず、ただ長く生きている……それだけの存在だ」


青年は驚かない。

むしろ、肯定するようにわずかに頷く。


「……その“ただ長く生きているだけ”という言葉に、人は怯えるんです」


ほう。ずいぶん物わかりのよい人間だ。


「余は脅威でありたいと願ったことはない。だが、人間の噂とは勝手に膨れ上がるものだな」


青年は目を伏せた。

何か言いたげだったが、言葉にはしなかった。

その沈黙にも、嘘はない。


「よい。お前はただの吸血鬼である余を倒しに来たのだろう?」


「……はい。依頼を受けた以上、あなたを見逃すわけにはいきません」


その声には恐怖も憎しみもない。

あるのは、疲労と責務だけ。

その在り方に、ほんの少しだけ胸が焼けた気がした。


青年は剣を抜き、月光を刃に反射させながら構えた。

その呼吸は静かだが、背筋には緊張が走っている。


それに応じるように、玉座から立ち上がる。

冷えた空気すら、今の余には味方しているようだった。


「迷いがあるようだな」


声をかけると、青年は一度だけ息を整えた。


「……あります。でも迷いがあっても、進まねばならない時があります」


その言葉は、恐怖を隠した虚勢ではない。

まっすぐで、折れない意志の音だ。


「ならば進めばよい。余の喉元へ、その刃が届くというのなら!」


青年の足がわずかに震えた。

だが、引く様子はない。

良いぞ。その胆力──試す価値がある。

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