蛇髪の少女と失われた光④
ティナはすぐに保健室へ運ばれた。
担架に乗せられた彼女の傍らで、私はただ、冷たくなりかけた手を握ることしかできなかった。
さっきまで一緒に笑っていたはずなのに、その身体は妙に軽く、握った指先から感じられる魔力もひどく弱々しい。
(……嫌だ)
胸の奥がぎゅっと縮んだ。
保健室の扉が開くと、薬草と消毒薬の匂いが鼻を刺した。
中は薄暗く、魔力灯がぼんやりと白い光を落としている。
「ベッドを空けなさい!」
担当教員の声に、他の生徒たちが慌てて身を引く。
ティナは一番奥のベッドへ運び込まれ、白いシーツの上にそっと横たえられた。
「脈はどうだ?」
「……安定しています。ただ、魔力の流れが……異常なほど弱いですね」
保健医の先生が眉をひそめ、ティナの額に手を当てる。
そして、短く診察の呪文を唱えた。
光がティナの身体をなぞっていく。
けれど、その光はすぐに弱まり、霧のように消えていった。
「やはり、魔力枯渇に近い状態です。ですが、通常の暴走や使いすぎとは違う……」
「原因は?」
担当教員の問いに、保健医は首を横に振った。
「今のところは断定できません。ただ――」
そこで一瞬、保健医の視線が私に向けられた。
「今は安静にするしかないでしょう。しばらく意識は戻らないと思います」
その言葉が、胸の奥に重く沈んだ。
教師たちの会話が遠くなる中、私は椅子を引き寄せ、ティナの枕元に座った。
白いカーテンに区切られた狭い空間で、聞こえるのは彼女の静かな寝息と、魔力灯のかすかな唸りだけだった。
「……ティナ」
名前を呼んでも、返事はない。
握った手は冷たく、それでも柔らかな感触だけは、確かにそこに残っていた。
「どうしてよ……」
喉の奥が焼けるように熱くなる。
「どうして私なんかと組んだのよ。相性がいいって言われたからって、調子に乗って……一緒に連携なんてしなければ……」
本当はわかっている。
ティナは、そんなことで私を責めたりしない。
それでも、責めずにはいられなかった。
責める相手が、自分しかいなかった。
蛇髪たちも、力なく垂れ下がっている。
いつもならティナを見るだけで嬉しそうに揺れるのに、このときばかりは動こうとしなかった。
どれくらいの時間が経ったのか、わからない。
何人かの教師が様子を見に来ては、小声で何かを話し合い、難しい顔をして去っていく。
そのたびに、胸の奥にあった不安が、少しずつ形を持ち始めた。
(このまま目を覚まさなかったら――)
そこまで考えて、慌てて頭から追い払う。
そんなこと、あるはずがない。
少し休めば、きっと目を覚ます。
そうしたら、またいつものように笑って――。
けれど、握った手から返ってくるものは何もなかった。
◇ ◇ ◇
何日かが過ぎた。
ティナは、今も眠ったままだった。
朝に来て手を握り、授業が終わればまた様子を見に来る。
そして夜の見回りが始まるぎりぎりまで、傍にいる。
いつしか、それが私の日課になっていた。
「ねぇ、ティナ。今日の実技でね、先生に褒められたのよ」
眠る彼女に、わざと明るく話しかける。
「『お前の魔法は無駄がない』ですって。……ふふ、あんたの支援があれば、もっと凄かったのにね」
当然、返事はない。
それでも私は、今日あったことを話し続けた。
授業のこと。
先生に言われたこと。
蛇髪たちがまた勝手なことをしたこと。
くだらない話ばかりだった。
けれど、話していないと、自分が壊れてしまいそうだった。
そんな日々が続く一方で、学院で起きていた異変には変化が現れていた。
魔力測定器の部屋は、相変わらず閉鎖されたまま。
けれど、不調を訴える生徒は、いつの間にかいなくなっていた。
新たに倒れる生徒もいない。
異変は、ぴたりと止んでいた。
その事実が、何より怖かった。
――ある日の夕方。
いつものように保健室へ入ると、魔力灯の光の中に、見慣れない器具が置かれていた。
澄んだ水晶が埋め込まれた小さな台座。
魔力の残量を測るための簡易測定具らしい。
水晶から伸びた細い糸のような光が、ティナの胸元に触れている。
「状態を確認するためのものです」
傍にいた保健医が、静かに説明した。
「彼女の魔力が戻り始めれば、この水晶が光ります。逆に、完全に尽きた場合は――」
そこで保健医は言葉を切り、視線を逸らした。
その先を聞くのが怖くて、ただ無言で頷いた。
それから、どれくらいの時間が経っただろう。
椅子に座ったまま、握ったティナの手の冷たさを確かめるように、何度も指先に力を込める。
ティナの胸は、今もかすかに上下している。
それでも、その呼吸はひどく弱々しかった。
「……ティナ。起きてよ。あんた、まだ何も見てないじゃない」
いつか一緒に行こうと話していた場所。
まだ見たことのない、学院の外の世界。
支援魔法をもっと極めて、困っている人を助けたいと、夢みたいに笑っていた横顔。
全部、まだ途中のはずだった。
私が俯いていた、そのときだった。
かすかに、光が揺れた。
「……?」
顔を上げると、水晶が一瞬だけ淡い光を宿していた。
「……!」
思わず椅子から立ち上がる。
水晶の光は、鼓動するように弱く瞬いた。
一度。
そして、もう一度――。
次の瞬間、その灯りは跡形もなく消えた。
「……え?」
息をすることも忘れ、ティナを見つめる。
「ティナ……?」
呼びかけた声は、自分でも驚くほど小さかった。
返事はない。
さっきまでかすかに上下していたはずの胸も、もう動いていなかった。
静寂が落ちる。
蛇髪たちが、いっせいに動きを止めた。
「……先生」
掠れた声で保健医を呼ぶ。
先生はすぐにティナの状態を確認すると、深く息を吐いた。
「……ごめんなさい」
その一言だけで、すべてを理解した。
力が抜け、その場に崩れ落ちた。
涙は出なかった。
ただ、世界から少しずつ色が抜け落ちていくような感覚だけがあった。
(どうして……)
どうして、よりにもよってあんたなの。
どうして、あんたが連れて行かれるの。
心の中で何度問いかけても、答えはどこにもなかった。
ティナが命を落とした日を境に、学院内で起きていた異常は嘘のように消えた。
倒れる生徒はもう現れず、魔道具も正常な数値を示すようになった。
閉鎖されていた魔術理論室も、ほどなくして解放された。
学院は『原因不明ではあるが、事態は収束した』と発表した。
多くの生徒たちは胸を撫で下ろし、少しずつ日常へと戻っていく。
廊下には再び笑い声が響き、授業も以前の平穏を取り戻していった。
――ただ一人、私は何ひとつ戻る気にはなれなかった。
ティナの席は、空いたままだ。
教室の片隅に残された彼女の名札には、誰も触れようとしなかった。
◇ ◇ ◇
「……これを、君に渡したい」
ある日の放課後。
呼び出された教員室で、担当教員が小さな箱を差し出してきた。
「……これは?」
促されるまま蓋を開ける。
中には、細い銀色の輪と、水色の小さな石がはめ込まれたチョーカーが収められていた。
「ティナさんのご家族からだ。彼女が、いつも大事にしていたものだそうだ」
そっと指先で触れると、ひやりとした感触が伝わってくる。
首元に巻くには少し心許ないほど、華奢なつくりだった。
「……どうして、私に」
「彼女が生前、『もし自分に何かあったら、これをセレナに渡してほしい』と手記に遺していてね」
胸の奥が締めつけられた。
いつの間に、そんなことを考えていたのよ。
言葉が喉の奥までこみ上げてくる。
けれど、うまく形にはならなかった。
「……返しますと言っておいてくれませんか。こんなもの、いらないって」
震える声で、ようやくそれだけを絞り出す。
自分でも、何を言っているのかわからなかった。
本当は、手放したくないくせに。
先生は少しだけ目を細めると、首を横に振った。
「それでも、彼女は君に託したんだよ」
箱の中のチョーカーが、魔力灯の光を受けてかすかに輝いている。
唇を噛みしめ、そっと箱の蓋を閉じた。
◇ ◇ ◇
それから、いくつかの季節が過ぎた。
――旅立ちの日。
学院を発つ前に、理事長室へ呼び出されていた。
荷物はすでにまとめ終えている。
最低限の衣類と、いくつかの本。それだけで十分だった。
首元には、あの日受け取ったチョーカー。
いつから身につけるようになったのか、自分でもよく覚えていない。
今では、細い銀色の輪が肌に触れる感触も、すっかり当たり前になっていた。
理事長室の前まで来ると、一度だけ足を止める。
深く息を吸い、胸の内を整えてから、扉を叩いた。
「……失礼します」
「ええ、どうぞ」
返ってきた声は、穏やかだった。
扉を開けると、理事長は机の向こうの椅子に腰掛け、こちらを見て柔らかく微笑んだ。
人間のおばあちゃんのような見た目。
白髪をきちんとまとめ、小柄な身体ながら、その背筋はすっと伸びている。
威圧感はない。
それでいて、この学院を長く支えてきた者としての重みだけが感じられた。
「セレナ。まずは――卒業おめでとう」
「ありがとうございます」
形式的なやり取りのはずなのに、その声には確かな温かさがあった。
私は一礼し、勧められるまま向かいの椅子に腰を下ろした。
木製の椅子が、かすかに軋む。
理事長はしばらく私を見つめてから、ゆっくりと口を開いた。
「……旅立つと聞きました」
「はい……ここで学ぶことは、もうありませんから」
そう言い切った言葉は、半分だけ本心だった。
この学院で学べることは、十分に学んだ。
もっと広い世界を見てみたいという気持ちも、確かにある。
けれど、残りの半分は――ここに留まり続けることへの恐れだった。
ティナを失った、この場所に。
そして、まだ向き合いきれていない自分から目を逸らすための、言い訳でもあった。
理事長は、私の言葉を否定しなかった。
ただ、小さく頷く。
「そう思うのも無理はありません。貴女は、十分すぎるほどの成果を残しましたから」
首席卒業。
本来なら、胸を張って喜ぶべきことなのだろう。
けれど、その評価は今の私には、どこか遠いもののように感じられた。
喜びよりも先に思い浮かぶのは、白いシーツの上で眠るように横たわっていたティナの姿だった。
理事長は湯気の立つ茶を一口含むと、改めて私をまっすぐ見つめた。
「セレナ」
名前を呼ばれ、自然と背筋が伸びる。
「私は、貴女ほどの才を――ここで終わらせたくはありません」
穏やかな声音だったが、その言葉には確かな芯があった。
「院生として、もう一段階、魔法の研究をしてみませんか?」
「……研究、ですか」
「ええ。学院に残り、理論と実践の両面から魔法を掘り下げるのです」
理事長の言葉は穏やかだった。
けれど、それは説得でも、引き留めでもない。
ただ、私に新たな選択肢を差し出しているだけだった。
「でも……」
続く言葉を探しかけた私を、理事長は急かさなかった。
少しの間を置いて、静かに告げた。
「それは――ティナさんを失った原因の解明にも、繋がるかもしれません」
その瞬間、思考が止まった。
(……原因)
胸の奥に沈めていた記憶が蘇ってきた。
あの日の演習場。
突然歪んだ空間。
ティナから吸い上げられていった魔力。
そして――腕の中で、力なく崩れ落ちたティナの身体。
なぜ、あの場で。
なぜ、あの魔法で。
なぜ、彼女だったのか。
私は、そのどれにも答えを得られていない。
旅に出れば、時間と距離が、それを少しずつ曖昧にしてくれるかもしれない。
いつか、この痛みも薄れていくのかもしれない。
けれど、それは“忘れる”だけだ。
“理解する”こととは、違う。
無意識に、胸元のチョーカーへ指が伸びる。
指先に触れた冷たい金属の感触が、私を現実へと引き戻した。
(私は……このまま背を向けていいの?)
ティナがどうして命を落としたのか、その理由さえわからないまま。
(仕方なかったで終わらせて……本当に、それでいいの?)
胸の内でそう問いかけたとき、答えは驚くほど定まっていた。
「……わかりました」
自分でも不思議なほど、声は落ち着いていた。
「もう少しだけ、ここに残ります」
理事長はほっとしたように目を細め、柔らかく微笑む。
「ありがとう。できる限り支援はしますから――貴女は、自分が思うように学びなさい」
「……はい」
理事長の言葉は、重くも軽くもなかった。
ただ、これから進むための道を一つ、示してもらった。
◇ ◇ ◇
理事長室を出ると、廊下の空気が少しだけ軽く感じられた。
静かに閉まる扉の音を背にし、歩き出した。
向かったのは、学院の中庭だった。
そこは、いつもと変わらない静けさに包まれている。
石畳を渡る風が木々の葉を揺らし、その隙間から柔らかな陽光が降り注いでいた。
足を止め、空を見上げた。
高い空では、雲が形を変えながら流れていた。
こうして空を見上げていると、あの日、ティナと並んで夕空を眺めた時間が蘇ってきた。
「……ねぇ、ティナ」
声に出した名前は、風の中へ溶けていった。
「私は、逃げないわ」
答えは返ってこない。
それでも、言葉を続けた。
「必ず、原因を突き止めてみせる。どうして、あんたが――あの日、失われなければならなかったのか」
胸の奥が、小さく痛んだ。
ティナを思えば、この痛みが消えることはないのかもしれない。
それでも、もう目を逸らしたくはなかった。
「何年かかっても……必ず、答えを見つけてみせるから」
そう口にすると、不思議と心は静かだった。
決意は、熱を帯びていない。
けれど、もう揺らぐことはなかった。
風が吹き、蛇髪たちが小さく揺れる。
まるで、私の言葉に頷くように。
もう一度だけ空を見上げ、深く息を吸った。
ここに残ろう。
あの日、私の世界を照らしてくれた友の名を胸に刻んだまま。
いつか、その答えに辿り着く日まで。
セレナの過去編『蛇髪の少女と失われた光』は、これにて完結です。
本編では魔法の知識に長け、研究にも熱心だったセレナ。
彼女がなぜ魔法を学び続けてきたのか、その背景を描いた物語でした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次の過去編もお楽しみいただければ幸いです。




