第54話 忘れる班
仮番号四百十七の調査日は、名前を呼ぶところから始まった。
カイ、ミナ、セレス、リゼット、ガロウ、アステリア。先頭にはレイガ。追加調査員として、迷宮受付のエルナが同行する。
クロエは階段へ入らない。地上で三系統の記録を監視し、変化した時刻だけを白い伝令札へ送る。誰が疑わしいかは告げなかった。
「私が追加者です」
階段前でエルナが自分から明かした。
「四百十七番の朱印は私のもの。受付記録へ触れられた経路も私の席です。疑われる条件は揃っています」
ミナが困った顔をする。
「自分でそこまで言わなくても」
「隠されたまま後ろに立つほうが、皆さんは怖いでしょう」
カイは同意した。疑いを消すのではなく、位置と役割を限定する。エルナは中央でセレスの記録補助。単独行動は禁止。撤退条件は全員と同じ。
リゼットの前に青い一文が浮かぶ。
《調査目的を自分の言葉で説明できない者が一人でも出た場合、全員で封鎖線へ戻る》
一人ずつ同意する。
目的は統一しなかった。
カイは「救助要請の可能性を調べる」。ミナは「帰ってきてほしい相手を探す」。セレスは「空白一件の差分を追う」。リゼットは「依頼成立条件を確認する」。ガロウは「壁の向こうへ安全な道を作る」。エルナは「自分の朱印が使われた経路を確かめる」。
言葉が違えば、一文だけ書き換えられても比較できる。
階段を二十一段下り、第一踊り場へ着く。
今日は打撃音がない。
代わりに、左壁の下から青い水が染み出していた。染料工房の紐と同じ色。ミナが火花を近づけると、青は熱から逃げるように石の隙間へ引いた。
「生きてるみたい」
「生物とは決めません」
セレスが言い、採取瓶を三本用意する。
カイは基本剣術の切っ先で石の継ぎ目だけをなぞった。斬らない。振動を伝え、空洞の広さを測る。
返ってくる音は浅い。壁の向こうに人が立てる空間はない。
「ここは通路じゃない。水だけが来ている」
ガロウが壁へ耳を当てた。
「じゃあ、音はどこからだ」
その問いへ答えようとして、カイは言葉を失った。
何の音だったか。
階段へ来た理由は分かる。青い水を調べる。受付官の朱印経路を確かめる。だが、その前に何を聞いたのかが出てこない。
「俺たちは、何を助けに来た?」
ガロウが尋ねた。
ミナは青い水を見つめたまま答えない。
セレスは記録札をめくる。そこには《空白一件》とある。何が空白なのか、彼女自身が理解できていない。
リゼットの青い一文が強く光った。
「説明して」
カイは口を開く。
「俺は……」
救助要請。その言葉は出る。誰の、どこからの、何を根拠にした要請かがない。
「可能性を調べに来た。壁の向こうから、何かがあった」
自分の説明が崩れている。
「私は、帰ってきてほしい相手を探す」
ミナが続けた。
「誰が待ってる?」
リゼットに問われ、ミナの顔から血の気が引く。
「知らない。私、誰に会ったの?」
条件は成立した。
レイガが先へ進む前に手を上げる。
「撤退する」
エルナが反発した。
「待ってください。水は採取できます。ここまで来て戻れば、また証拠が消えるかもしれない」
「だから戻る。今の私たちは、採った物が何の証拠か判断できない」
レイガは強さで議論を終わらせなかった。エルナが同意した条件を指し、本人の返答を待つ。
エルナは採取瓶を握った。迷いながら、空の瓶を袋へ戻す。
「同意します」
隊列を反転する。
八人いる。
カイはそう数えた直後、自分を含めれば八人なのか、アステリアを人数へ含めたのか分からなくなった。
「点呼する。名前と目的は答えなくていい。前の人の肩が見えるかだけ答えて」
先頭のレイガから一人ずつ声が返る。
リゼットの前にいるセレスが、返事をしない。
立っている。目も開いている。だが記録札を胸へ抱き、カイたちを初めて見る人のように見回していた。
「ここは、どこですか」
ミナが駆け寄ろうとする。ガロウが腕で止めた。急に触れれば敵と判断されるかもしれない。
カイは剣から手を離し、両手を見せた。
「星環学園の地下水路。俺たちは同じ調査班です。今、全員で地上へ戻っている」
「証拠は?」
セレスらしい質問だった。
「あなたの記録札。俺たちの札と紙質、切り口、時刻砂が同じ。リゼットの条件表示へ、あなたの同意印がある。信じなくていい。地上まで一緒に移動する許可だけほしい」
セレスは一つずつ確かめた。
「接触しないでください。前後一歩を空けるなら、移動します」
「分かりました」
敬語になった。仲間だと押しつけず、今の彼女が選べる距離を守る。
十二段上ったところで、カイは右脚に黒影歩の構えを作りかけた。セレスを早く外へ運びたい。だが本人は接触を拒んでいる。技のほうが速くても、同意を置き去りにすれば救助ではない。
通常の歩幅で上る。
封鎖線を越えると、セレスは膝をついた。記録札の文字を追い、自分が書いた空白一件と、知らない五人の名前を何度も見比べる。
クロエが地上から送った札は、入域七分後に一度だけ黒く変色していた。迷宮受付へ置いた記録から《仮番号四百十七》の七文字が消え、その三十秒後に戻っている。
「消えた間だけ、セレスの人物認識が崩れた可能性があります」
エルナが言った。
「私の受付記録が起点なら、私を外してください」
「まだ決めません」
セレスが顔を上げた。記憶は完全には戻っていない。それでも、欠落から結論へ飛ばない姿勢は残っている。
「あなたを外せば安全になるか、比較がありません。次は受付記録を持ち込まず、同じ場所で差を見るべきです」
ミナが泣きそうな顔で笑った。
「戻ってきた?」
セレスはしばらくミナを見た。
「あなたがミナだという記録はあります。私があなたを知っている感覚は、まだ薄いです」
「そっか。じゃあ、もう一回知ってもらう」
ミナは抱きつかず、一歩離れた床へ座った。
撤退は失敗ではない。
誰かを忘れたまま奥へ進まず、忘れた仲間を本人の同意と一緒に地上へ連れ帰った。
その結果だけは、八人全員の別々の記録へ残った。
セレスの記憶が戻り始めたのは、地上へ出て三十分後だった。
最初に思い出したのは名前ではない。ミナが焦ると左手で右袖を掴む癖。ガロウが嘘をつく前に鼻を鳴らすこと。リゼットが怒っている時ほど語尾を整えること。
「人を、情報の束として覚えているわけではなかったんですね」
セレスは自分の発見に戸惑っていた。
ミナは一歩離れたまま、右袖を左手で掴んでいる。
「今、わざとやった?」
「半分だけ」
ミナは右袖を握った手を、照れたように背へ隠した。
「そういうところも覚えています」
二人が泣き笑いになる。
カイは安心しかけ、自分がセレスへ何を覚えていてほしいのか考えた。剣の技量でも、一億年でもない。できない時に助けを求めると決めたこと。独りで答えを作らないと約束したことだ。
「俺を知っている証明は、急がなくていい」
カイは言った。
「今の俺を見て、もう一度判断してほしい」
セレスは頷き、記録札の人物欄へ新しい一文を書いた。
《夜凪カイ。過去の親密度は照合中。現在、接触前に許可を求め、撤退条件を優先した》
以前の関係を取り戻したことにはしない。今日の選択から関係をつなぎ直す。
その夜、クロエの監視記録で異常時刻が判明した。セレスが人物認識を失う二十秒前、地上受付の四百十七番だけでなく、五人の仮登録簿からセレスの署名欄が薄くなっていた。
敵は地下にいる人間だけを狙っていない。地上にある所属記録を消し、それと同時に本人を班の認識から外している。
「次は地上記録を囮にしません」
クロエが言った。
「人を餌にしたのと同じ結果になった」
彼女は責任を受付官へ渡さず、自分の作戦失敗として記録した。
代わりに、班員の所属を示さない一時番号を使う。番号は地上、地下、本人の三か所へ別方式で持たせる。どれかが消えた時点で、名前を思い出せても撤退する。
忘れた後に連れ帰れたことを、次も成功させる前提にはしない。
今回の成長は、記憶へ耐える力を得たことではなかった。目的を失った瞬間に止まり、知らない相手になった仲間の同意を取り直し、全員で戻れたことだった。
強くなったから進めたのではない。分からなくなった時に止まる手順を、全員が守れたから帰れた。その差を、カイは次の救助へ持っていく。
【主人公ステータス】
対象:夜凪カイ
種族:七紋人
個体ランク:B
レベル:Lv.21
HP:302/320(ランクB)
魔力:403/430(ランクB)
攻撃:136(ランクB)
防御:119(ランクB)
速度:150(ランクB)
技能:基本剣術(ランクB・Lv.8)/黒影歩(ランクB・Lv.7)/迅雷駆(ランクC・Lv.2)/鏡砕返し(ランクC・Lv.1)/焔皇砕(ランクD・Lv.1)/蒼天鎧(ランクC・Lv.2)/虚空掌握(ランクD・Lv.1)
状態:通常安全出力B・条件付き上限A。第51〜58話は実戦C〜B級相当だが、事務上の評価・所属とは区別する。




