第53話 名前のない依頼人
翌朝、迷宮受付の依頼台帳には、報酬だけが残った行があった。
依頼番号、空欄。依頼人、空欄。対象、空欄。銀貨十二枚という数字と、受領済みを示す朱印だけが、白い紙の中央へ取り残されている。
「昨日までは、こんな行はありませんでした」
受付官のエルナは、自分の署名を指でなぞった。前回、五人の実戦評価を読み上げた女性だ。いつもなら等級と規則を迷いなく告げる声が、今日はかすれている。
「でも、この朱印は私のものです。銀貨を受け取った記憶はない。帳尻は十二枚多い」
セレスは台帳へ触れず、前後の依頼番号を確認した。四百十六の次が四百十八。空欄の行には番号がないのに、後ろの番号だけが一つ進んでいる。
「四百十七が欠けています」
「番号だけなら、書き損じでは?」
受付副官が言った。
クロエは壁際で欠伸をし、口を挟まない。誰が欠落を小さく扱うか見ている。
「書き損じなら銀貨が増えた理由が残ります」
カイは答えた。
「依頼があったと仮定する。ただし、内容は決めない。まず朱印を押した場所と時刻を調べたいです」
エルナは受付台の引き出しから印章記録を出した。朱印には微量の時刻砂が混ぜられ、押した日の光で色が変わる。
前日の夕刻。五人が七層から戻り、報告書を書き始めた時間と重なっていた。
「私が席を外したのは三分だけです」
エルナは唇を噛んだ。
「水路入口で、女性が倒れたと呼ばれて……」
「その女性は?」
エルナは記憶を探すように目を閉じた。
「治療記録がありません」
呼び出した者も、倒れた者も、記録から消えている。
黒帝が三枚の小札を机へ置いた。
「受付の床から採った靴泥。昨日、偽記録に付いていた赤錆と同じ。ただし、これだけで受付官を疑うのは禁止。敵が疑わせるために置いた可能性もある」
カイたちは四百十七を仮番号として調べることにした。
銀貨十二枚は、低級の捜索依頼としては多い。重労働一週間分。支払える家を近隣から探すと、水路沿いの染色工房が一軒だけ該当した。
工房には、六人分の椅子があった。
老夫婦、息子夫婦、十歳の娘。家族は五人だという。食卓の一番奥にある六脚目だけ、座面が新しく、背もたれに手編みの青い紐が結ばれていた。
「お客さん用です」
工房主はそう答えた。
だが客用の椅子だけ、娘の椅子と同じ高さに削られている。脚の裏には、毎日引かれた擦り傷があった。
ミナが青い紐へ触れずにしゃがむ。
「これ、誰が編んだんですか」
「妻だろう」
工房主の妻が、驚いたように夫を見た。
「私は編み物ができません」
妻が即座に否定した。自分の返答に驚き、両手を見る。
十歳の娘は、椅子から目を離さなかった。
「私、青は嫌い」
「そうなの?」
ミナが優しく聞く。
「嫌い。なのに見ると、返さなきゃって思う」
誰へ返すのかは分からない。
セレスは家族写真を見せてもらった。五人が工房前に並び、中央だけ不自然に間が空いている。背景の布には、小さな手が染料を付けた跡が六つあった。
「空白を人の形に塗りません」
セレスは自分へ言い聞かせるように言った。
「ここに六人目がいた、ともまだ断定しない。椅子、紐、擦り傷、写真の間隔、手形の数。別々に記録します」
工房主が苛立った。
「うちにいない人間を探して、何になる。水路の仕事なら早く戻ってくれ」
その言葉と同時に、十歳の娘が泣き出した。
「いないって言わないで」
父親は戸惑い、娘の肩へ手を伸ばす。
「誰のことだ?」
「分かんない。でも、いないって言ったら、もう帰ってこない」
カイは膝をつき、娘と同じ高さになる。
「名前を思い出さなくていい。顔も決めなくていい。帰ってきてほしい人がいると思う?」
娘は何度も息を吸い、青い紐を見た。
「いる」
「その気持ちを、依頼として預かってもいい?」
娘が頷く。
リゼットは契約文を作ろうとして、筆を止めた。依頼人名も救助対象名も書けない。規則通りなら受理できない。
「仮番号四百十七。依頼人は染色工房の家族五名。対象は未確定一名、ではなく、未確定一件」
リゼットは一語ずつ選んだ。
「救助対象が人物である証拠が揃った時点で、一名へ変更する。それまでは勝手に年齢も関係も付けない。拒否権は家族全員にある」
クロエが初めて壁から離れた。
「蒼廷院なら、対象不明で却下する。白冠院なら、とりあえず探す。黒帳院なら、欠落自体を事件として受ける。君はどれにする?」
カイは六脚目の椅子を見た。
「事件として調べて、人物がいたと分かったら救助へ切り替えます。最初から人だと決めない。でも、物だったと決めて置いていかない」
工房の裏には、染料を水路へ流す細い排水溝がある。昨日の夕刻、そこから鉄錆の匂いが逆流したという。娘は青い紐を排水溝の格子へ近づけた。
紐の先が、地下へ引かれるように揺れた。
魔力反応はない。風もない。それでも青い繊維の一本だけ、格子の隙間へ張りつく。
ガロウが格子を持ち上げようとした。カイが止める。
「今は開けない。入口と出口の両方を確保してから」
「また待つのか」
ガロウの指が格子から離れた。
「待つ。前は急いで音を失った。今度は、失う前に比べるものを増やす」
セレスは紐を三つに分けた。一本を工房の封印箱へ、一本を黒帳院へ、一本を自分の記録板へ固定する。切った長さも重さも記し、一本が消えても差分を残す。
工房を出たところで、受付副官が追いついた。
「空欄の依頼なんて受ければ、存在しない相手へ報酬を払ったと監査で問題になる」
カイは銀貨十二枚の袋を返した。
「報酬は保留してください。救助対象を確定するまで受け取りません」
「ただ働きする気か」
副官は銀貨袋を胸元へ引き寄せた。
「違います。依頼の成立条件を確かめている。成立したら、正しい相手から受け取ります」
副官は言い返せず、袋を抱えた。
夕方、三本の青い紐を再確認した。
工房の一本は十三センチ。黒帳院の一本も十三センチ。セレスの記録板に固定した一本だけ、十二センチになっていた。
切れた跡はない。結び目も同じ。ただ一センチ分が、最初から存在しなかったように短い。
セレスは差分欄へ書く。
《仮番号四百十七。欠落一センチ。内容を人物へ換算しない》
その下に、十歳の娘が震える字で一行を足した。
《帰ってきてほしい》
名前はない。
それでも、調査を続ける理由は消えなかった。
支所へ戻る途中、娘がカイの外套を引いた。
「もし、帰ってきた人が私の知らない人だったら?」
その問いに、大人たちは足を止める。
記録が戻っても、感情まで同じように戻るとは限らない。セレスが地下で仲間を忘れた時のように、証拠だけが先に残ることもある。
「知らないまま会っていいと思う」
カイは答えた。
「前と同じように好きにならなきゃいけない、とは言わない。怖ければ離れてもいい。帰ってきた人にも、家族だと信じろとは言わない。ただ、会うかどうかを選べるところまで連れ帰りたい」
娘は青い紐の残りを握った。
「じゃあ、最初に名前を聞く」
「うん。本人が答えられなければ、呼ばれたい名前を一緒に考えよう」
受付では、エルナが仮依頼票を用意していた。副官は対象欄の空白を嫌い、何度も筆を入れようとする。
リゼットが票の横へ、空白を守るための但し書きを付けた。
《対象の属性を推測で補完しない。人物性が確認されるまで拘束・保護・遺失物処理のいずれにも分類しない》
「分類しなければ、担当部署が決まりません」
副官が反論する。
「だから仮調査班が担当します。分類できないことを理由に、地下へ置いたままにしないためです」
クロエは別紙へ、銀貨袋の重さを記録した。十二枚のうち一枚だけ、縁に青い染料が付いている。工房主は知らないと言ったが、娘はその傷を見て首を傾げた。
「これ、前に歯で噛んだ」
「君が?」
娘は銀貨の傷を指先でなぞる真似をした。
「違う。たぶん……私より背が低い子」
初めて、欠落へ輪郭が生まれかけた。
セレスは「子ども」と書かず、《銀貨の噛み跡を知る第三者の可能性》と残す。娘の記憶が敵の作った偽物である可能性も消さない。
カイは銀貨を証拠箱へ戻した。
明日の目標は一人を救うことではない。まだ一人と決めない。青い水の先を確認し、生命反応があれば接触し、本人の意思を確かめ、安全線へ運ぶ。
長い条件に見えるが、どれかを省けば、見つけた何かを勝手に家族へ押し戻すことになる。
名のない依頼は、名を付ければ解決する問題ではなかった。
名前を取り戻す前にも、その相手が選べる余地を残す。それが、カイたちが受け取った本当の依頼だった。
【主人公ステータス】
対象:夜凪カイ
種族:七紋人
個体ランク:B
レベル:Lv.20
HP:302/320(ランクB)
魔力:403/430(ランクB)
攻撃:136(ランクB)
防御:119(ランクB)
速度:150(ランクB)
技能:基本剣術(ランクB・Lv.8)/黒影歩(ランクB・Lv.7)/迅雷駆(ランクC・Lv.2)/鏡砕返し(ランクC・Lv.1)/焔皇砕(ランクD・Lv.1)/蒼天鎧(ランクC・Lv.2)/虚空掌握(ランクD・Lv.1)
状態:通常安全出力B・条件付き上限A。第51〜58話は実戦C〜B級相当だが、事務上の評価・所属とは区別する。




