第51話 消えた三度目
支所の報告机に置かれた紙には、五人の署名があった。
夜凪カイ、ミナ、セレス、リゼット、ガロウ。最後の欄には、星導投影体アステリアの観測印まで残っている。
それなのに、打撃音の記録だけが違っていた。
《該当音声なし。班員五名、異常を聴取せず》
カイは紙へ触れず、机から半歩離れた。書き換えられた時刻も経路も分からない。触れれば新しい痕跡を重ねる。
「正規調査班を編成する」
天城レイガは報告書を透明な証拠箱へ収めた。普段の緩い笑みはない。白い領域が箱の六面を薄く覆い、紙へ届く光と音と魔力を遮断する。
「私が先頭、カイは中央。セレスは記録、リゼットは撤退条件、ガロウとミナは後衛。アステリアは観測した数だけを告げろ。意味は足さなくていい」
「先生が先頭なんですか」
ミナが尋ねた。
「強いからではない。最初に異常を受けた者が、後ろへ伝える前に止まれる位置だからだ」
レイガは白い細札を六枚配った。表には現在時刻、裏には名前。カイの札には、その二つしか書かれていない。
救助対象の人数を書けば、数字ごと消されるかもしれない。目的を書けば、目的を持つ者の位置が伝わるかもしれない。何も書かなければ、欠けたことすら分からない。
「空白を一つ残します」
セレスが自分の札の下端へ四角い枠だけを描いた。
「中身は決めません。戻った時、枠があるかだけ確認します」
リゼットは眉を寄せた。
「それでは、枠が何を示すか忘れたら役に立たないわ」
「役に立たなくても、最初から何もなかったとは言わせない」
セレスの声は硬かった。自分の筆跡で嘘を書かされた恐怖を、まだ指先に残している。
カイは頷いた。
「六人全員が別の場所へ枠を作ろう。紙、鞘、手袋、縄、星の杖、先生の障壁。内容は共有しない。帰った時、消えた枠の数を比べる」
レイガが一度だけ目を細めた。
「採用する。ただし、枠を守ることを救助より優先するな」
七層への階段は、白い封鎖膜の向こうで前と同じ暗さを保っていた。
カイは十五歩の安全限界を意識したが、黒影歩は使わない。階段の幅は二人分。先頭のレイガから最後尾のミナまで、通常の足で互いを見失わない距離を保つ。
第一の踊り場まで二十一段。
前回は三段目で途切れた経路候補が、今日は最初から二本しかない。中央と右壁沿い。左側に光はない。
「私の前回記録では候補三本。現在表示は二本」
アステリアが星の杖を胸元へ立てた。
「差分一。原因不明」
セレスは紙へ数字を書かず、左端へ縦線を一本引いた。意味を持たない線に見える。けれど帰還後、線が消えたなら欠落が増えたと分かる。
レイガが一段下りる。
白帝領域は階段全体へ広げず、六人の靴底と頭上だけを薄く覆っていた。広げれば内部へこちらの位置を知らせる。狭めれば、壁の向こうは観測できない。
八段目で、音がした。
ごん。
弱い。石の向こうから、硬い物を当てた音。
カイは声を出さず、右手の指を一本立てた。前後の五人も、それぞれ指を一本上げる。
十一段目。
ごん。
二度目。
セレスが二本目の縦線を引く。リゼットは腰の鞘へ爪で傷を一つ刻んだ。ガロウは縄へ二つ目の結び目を作り、ミナは左手袋の留め金を二度押した。
十五段目で、カイは喉の奥へ冷たいものを感じた。
音がした。
そう思った。
だが耳には何も残っていない。石を叩いた余韻も、仲間の呼吸が止まる気配もなかった。
カイは指を三本立てた。
前方のレイガは二本。セレスも二本。後ろのリゼットは三本、ガロウは二本、ミナは三本。
アステリアの投影は、指を上げない。
「観測値を申告する。二回」
カイの胸が速く鳴った。前回と同じ食い違いだ。今回は入る前から全員が警戒し、別々の媒体へ残している。
「撤退条件を確認するわ」
リゼットの前に青い文字が浮いた。
《同じ事象の観測数が班内で一致しない場合、全員で封鎖線まで戻る》
入域前、六人が同意した一つの条件だった。
ガロウが壁を見た。
「中に人がいるなら、今戻るのか」
拳は固く握られている。壁を壊せる力があっても、向こう側の位置も厚さも分からない。
「戻る」
カイは答えた。
「助けを求める音なら、人数も位置も分からないまま壁を壊すほうが危ない。違いを持ち帰って、次は救助方法まで用意する」
言い切ると、胸の奥が痛んだ。七界なら、自分一人の失敗で済むまで試せた。現世では壁の向こうにいるかもしれない誰かの時間が減っている。
レイガが先頭のまま向きを変えた。後退する六人を白い膜が包み、誰も階段の奥へ背を向けない。
十三段目まで戻った時、ミナが足を止めた。
「何で戻ってるんだっけ」
声に冗談の色はなかった。
ミナは自分の左手袋を見た。留め金を二度押した痕がある。それが何を意味するか分からない顔だった。
「観測数が一致しなかったからです」
セレスが答える。
「何の観測?」
誰もすぐには言えなかった。
カイは三回目の音を聞いたと思う。だが、その音がどんな高さだったか思い出せない。二回目との間隔も消えている。
リゼットの青い条件だけが残っていた。事象の名前はない。それでも「一致しない場合、戻る」という選択は消えていない。
「分からないから戻っている」
カイは言った。
「分からないことを、なかったことにしないために」
封鎖線を越えた瞬間、レイガは領域を閉じた。六人が同時に札と身体と装備を確認する。
セレスの紙には縦線が二本。リゼットの鞘には傷が一つ。ガロウの縄には結び目が二つ。ミナの留め金は押されたまま。アステリアの杖には星が二つ。レイガの障壁には白い輪が二つ。
カイの鞘にだけ、三つの浅い爪痕があった。
自分で刻んだ記憶はない。
「三回目は、音だけじゃない」
セレスが震える指で鞘を指した。
「記録しようとした行動まで、私たちの認識から外している」
その時、階段の奥から、短い打撃音が一度だけ届いた。
全員が顔を上げた。
レイガは人数を数え、封鎖膜を厚くした。追わない。けれど音がなかったとも決めない。
カイは新しい紙へ書いた。
《救助要請の可能性あり。回数不明。対象人数不明。第三記録の消失を確認》
救う相手の名も数も、まだ分からない。
分からないままでも、助けを求めた何かがいる可能性だけは、今度こそ持ち帰った。
支所へ戻ると、六人は別々の小部屋へ入れられた。相談して記憶を揃えないためだ。
カイの前には、白紙が三枚置かれていた。
一枚目には確実に覚えていること。二枚目には推測。三枚目には、覚えていたはずなのに説明できないことを書く。
確実なのは、階段を十五段まで下りたこと、観測数が一致せず撤退条件が働いたこと、全員で戻ったこと。推測は、壁の向こうに音源があること。説明できないのは、鞘へ三つの傷を刻んだ行動だった。
カイは三枚目へ、傷の形を写した。
書き終えた時、指先が震えていることに気づく。七界で死と再生を繰り返した記憶は、封蔵されても自分のものだ。敵に忘れさせられる恐怖は、痛みとは違う。選んだことまで自分の外へ持ち去られる。
扉越しに、ミナの声がした。
「私、三回聞いたって書いた。でも三回目の音は思い出せない。嘘を書いてるみたいで怖い」
「僕も同じだ」
壁へ向かって答える。
「だから、嘘かどうかを一人で決めない。鞘の傷と、ミナの留め金と、みんなの違いを並べる」
「違ってても、怒らない?」
扉の向こうで、ミナが息を詰める気配がした。
「違っていることを消したら怒る。でも違うまま話してくれたことには、ありがとうって言う」
小さな笑い声が返った。
全員の三枚を並べると、確実な事実は五つしか残らなかった。一方、説明不能欄は十四件あった。音の回数、足を止めた段、刻んだ印、ミナが目的を忘れた時刻。整った一つの報告へ直せば読みやすい。だが整えるほど、敵が作った空白を隠してしまう。
セレスは十四件を消さず、赤い枠で囲んだ。
「次の調査では、このうち一件でも再現したら即時に別媒体へ複製します」
リゼットは撤退条件の発動記録を添え、ガロウは縄の結び目を切らず証拠袋へ入れた。アステリアは二つしか映らない星の映像へ、表示総数三という文字だけを重ねる。
レイガは報告を読み終え、承認欄へ署名しなかった。
代わりに《調査継続。救助対象未確認》と書く。
完了にしないことが、今できる最初の救助だった。
【主人公ステータス】
対象:夜凪カイ
種族:七紋人
個体ランク:B
レベル:Lv.18
HP:302/320(ランクB)
魔力:403/430(ランクB)
攻撃:136(ランクB)
防御:119(ランクB)
速度:150(ランクB)
技能:基本剣術(ランクB・Lv.8)/黒影歩(ランクB・Lv.7)/迅雷駆(ランクC・Lv.2)/鏡砕返し(ランクC・Lv.1)/焔皇砕(ランクD・Lv.1)/蒼天鎧(ランクC・Lv.2)/虚空掌握(ランクD・Lv.1)
状態:通常安全出力B・条件付き上限A。第51〜58話は実戦C〜B級相当だが、事務上の評価・所属とは区別する。




