第5話 白紙の日常
保護観察が始まって三日目の朝、夜凪カイは星環学園の外周走路を、肺の痛みをこらえながら走っていた。
夜明けの空気は冷たい。山肌を削って造られた走路は一周二千歩以上あり、左には校舎の高い壁、右には雲海へ落ちる急斜面が続く。濡れた土と草の匂いが靴底から立ち、曲がり角では訓練塔から吹き下ろす風が制服の襟へ入り込んだ。
前日の面談で決めた目標は、異常に気づき、隠さず伝え、止まること。だが、異常が起きない普段の時間にも学べることはある。今日は基礎走と木剣訓練で、自分に何が足りないかを一つ具体的に持ち帰る。それがカイの小さな目的だった。
先頭集団は、もう遠い。カイは下から五番目で、太腿が重く、息を吸うたび喉が焼ける。黒い鞘は武器検査のため教官へ預けてあり、腰が軽いはずなのに速くは走れなかった。
「夜凪君……待って、速くないですか……!」
背後から、切れ切れの声が近づいた。
ミナが赤い顔で腕を振っている。茶髪は汗で頬へ張りつき、呼吸のたび肩が上下していた。ようやく並んだところで、二人とも会話できる速さまで落ちる。
「俺は、下から五番目だ」
カイが息を整えながら告げると、ミナは悔しそうに指を三本立てた。
「私は下から三番目です。昨日より二人も抜かれました」
順位だけを聞いたカイは、励ますべきか迷って言葉を詰まらせる。
「そ、それは……速くなったって言うのか?」
ミナは腕で汗を拭い、迷わず記録の見方を切り替えた。
「一周の時間は昨日より短いです。順位は相手でも変わりますけど、自分の昨日とは比べられます」
ミナは運動が得意ではない。実際、坂道へ入るたび足が小さくなる。それでも失敗をなかったことにせず、次に続ける理由を探すのが上手かった。
カイは自分が、後ろに何人いるかより、前に何人いるかばかり数えていたことに気づいた。
「そういう考え方は、少し羨ましい」
ミナは隣を走るカイの沈んだ横顔を見上げた。
「夜凪君は、できないことを数えすぎなんです」
痛いところを突かれ、カイは前を走る生徒たちへ視線を逃がす。
「できないことが多いから」
ミナは否定で塞がず、呼吸に合わせて次の一歩を踏み出した。
「じゃあ、今日は一つだけ数えましょう。昨日よりできたこと。ゼロだったら、『何してたの私たち』って二人でツッコミましょう」
少し痛い。それでも責められているとは感じなかった。
最後の坂でミナの足が止まりかけた。カイは先へ行けば一人抜けたが、迷った末に速度を落とした。
「あと半周。次の標識まで一緒に行こう」
ミナは乱れた息の合間に、先へ行けと顎を振る。
「順位、落ちますよ」
カイは標識までの距離を測り、彼女の歩幅へ自分の足を合わせた。
「今日は時間を見るんだろ」
昨日までなら、自分に余裕がないことを理由に置いていったかもしれない。二人で呼吸を合わせてゴールすると、順位は変わらなかった。それでもカイの記録は前日より十七秒、ミナは九秒縮んでいた。
「一つありましたね」
ミナが苦しそうに笑う。
大きな成長ではない。だが白紙の日にも、変化は記録できる。
午前の受け身訓練では土と汗まみれになった。基礎走の後に検査を終えた黒い鞘は返却されたが、今日も異常はないと記録され、カイは教官の目が届く位置で剣術場へ移った。
剣術場は屋根だけを支柱で持ち上げた広い施設で、四方から風が通る。床には衝撃を吸収する黒砂が敷かれ、踏み込むたび靴が半寸沈んだ。壁際の武器棚には長さも重さも違う木剣が並び、奥では上級生の打ち合う音が乾いて響いている。
カイは黒い鞘を抜くことを禁じられているため、木剣で構えと足運びだけを繰り返した。周囲では剣名を使った実技が始まり、赤い火、風の刃、薄い防護膜が次々に現れる。自分だけが同じ場所で木剣を上げ下げしていると、教官の「基礎も訓練だ」という言葉さえ慰めに聞こえた。
やがて、剣術場の中央に人だかりができた。
獅堂ガロウが、上級生三人と向かい合っている。
白牙皇は腰へ納めたまま、手にあるのは学園備品の木剣一本だけだ。大柄な上級生が左右から挟み、もう一人が正面で距離を詰める。体格だけなら三人ともガロウに劣らない。
開始の笛が鳴る。
正面の上級生が踏み込む前に、ガロウは半歩だけ右へずれた。突きが空を切り、その腕の外側へ木剣を添える。強く打ったようには見えないのに、相手の重心が崩れた。
左から来た斬撃を柄元で受け、押し返さずに流す。流された剣が三人目の進路を塞いだ瞬間、ガロウは黒砂を蹴り、二人の胸元へ続けて剣先を止めた。
最後の一人が背後から振り下ろす。
ガロウは振り返らず、足音に合わせて身を沈めた。木剣が頭上を通過し、次の瞬間には相手の手首へ軽い一撃が入る。木剣が砂へ落ちた。
三人が倒れるまで、十数秒だった。
見ていた生徒たちから驚きの声が上がる。諦めたように「勝てるわけがない」と笑う者もいれば、食い入るように足元を見る者もいた。
ミナは口を開けたまま、遅れて息を吐いた。
「同じ候補生とは思えません……」
カイも返事ができなかった。速さより、迷いのなさが恐ろしい。相手が動いてから考えるのではなく、動く前の姿勢で次を選んでいる。
「入学前から、かなり訓練していたんだろう」
隣で記録を取っていたセレスが頷く。
「剣名の出力だけではありません。構え、視線、足位置の三項目が一つの判断へ繋がっています。訂正の余地なく、短期間で追いつくのは非現実的です」
容赦のない分析に、カイより先にミナの顔が曇った。
「そこまで正確に言わなくても……」
ミナが肩を落とす。
セレスは紙から顔を上げた。
「でも、追いつけないとは言っていません。差があるなら、差を分けて調べられます」
それが彼女なりの励ましだと分かるようになってきた。
訓練後、カイが一人で足運びを繰り返していると、黒砂を踏む重い足音が止まった。
顔を上げる。ガロウが目の前に立っていた。
近くで見ると、やはり大きい。鍛えた肩が陽を遮り、金色の目がカイの木剣と足元を順に見た。怒っているわけではないのに、見られるだけで背中が固くなる。
「見て腹は膨れたか」
皮肉を向けられ、カイは木剣の柄を握る手へ力を込めた。
「剣を抜く許可がない」
ガロウの金色の目が、武器棚へ一度だけ動く。
「木剣は持てる」
ガロウは武器棚からもう一本を取り、カイへ投げた。慌てて受け取ると、掌へ重みがかかる。
「一度、来い」
突然の申し出に、周囲の生徒が集まり始めた。昨日、ガロウの言葉に反発して黒い刃を抜き、事故を起こした。その記憶が腕を止める。
人前で負けるのも怖い。だが、断れば今日も見て終わる。
「ほ、本気で受けるのか」
ガロウは木剣を肩へ置き、カイの震える剣先を見下ろした。
「お前の本気がどの程度か、見れば分かる」
腹が立った。自分の全力など簡単に測れると言われた気がした。
それでも、怒りだけで動けば昨日と同じだ。カイは一度木剣を下げ、周囲との距離を見た。近くの生徒が下がったのを確認し、教官へ視線を向ける。教官が一度だけ頷いた。
安全を確かめてから、構える。
「行く」
踏み込み、両腕で木剣を振った。
次の瞬間、手の中が空になった。
何をされたのか分からない。ガロウの木剣が手首の外側へ触れただけに見えたのに、カイの剣は黒砂を二度跳ねて転がっている。遅れて手首に痺れが走った。
周囲から小さな笑いと、息を呑む音が混じる。顔が熱くなった。今すぐ木剣を拾って、もう一度無理にでも打ち込みたい。
だがガロウの言葉を待った。
「腕だけで振っている。踏み込んだ足が止まり、腰が後から来る。だから剣先へ力が届く前に外せる」
短くても具体的な指摘だけが、屈辱の中へ残った。
「どうすれば、止まらない」
尋ねる声は震えた。それでも聞いた。
ガロウはカイの足元を木剣で示す。
「速く出ようとするな。後ろ足で地面を押せ。前足だけを投げれば、上半身が置いていかれる」
それだけ言い、背を向けた。
「なぜ、俺に」
ガロウは振り返らない。
「剣だと言った。なら、立て。次は腰で振れ」
挑発なのか、期待なのか、カイにはまだ判断できなかった。
ミナが転がった木剣を拾い、砂を払って渡した。
「感じは悪いですけど、教えてはくれたんですね。言葉を削りすぎです、あの人」
カイは受け取った木剣を握り直し、ガロウが立っていた場所を見る。
「本人は教えたつもりじゃないかもしれない」
ミナは砂のついた掌を払い、今の一撃を思い返すように頷いた。
「でも、次に見る場所は分かりました」
カイはもう一度構える。後ろ足で黒砂を押し、腰が前へ運ばれてから木剣を振る。速くはない。だがさっきより剣先がぶれず、手首にも余計な衝撃が来なかった。
できなかった動きを一つ分け、試し、違いを確かめた。強くなったとは言えない。ただ、見学だけだった時間が練習へ変わった。
その日の夜、寮へ戻る道で、黒い鞘が震えた。
夕食後の校内は薄暗く、足元の誘導灯だけが青く点っている。昼の熱を残した石壁から土と苔の匂いが立ち、遠くでは寮へ急ぐ生徒たちの声が響いていた。
最初は歩いた揺れだと思った。だが立ち止まっても、腰の鞘だけが細かく震えている。
講堂での異常と似ていた。
心臓が速くなる。確かめたい。少し抜けば、方向がもっと分かるかもしれない。
柄へ伸びかけた手を止めた。
昨日の自分なら、誰にも言わず試していたかもしれない。だが今は、レイガと約束した行動がある。
周囲を確認する。近くにいるのはミナだけで、他の生徒は角を曲がって見えなくなった。鞘の振動は北側、武器庫のある斜面へ向けた時に少し強くなる。
「ミナ」
呼ばれたミナは、カイの声の硬さに足を止めた。
「どうしました?」
カイは鞘を北へ向け、腰へ伝わる細かな震えを確かめる。
「鞘が反応してる。講堂の時に似てる。たぶん……学園の地下から、何かが動いてる」
言葉にするだけで怖さが増した。もし勘違いなら騒ぎを起こす。もし本当なら、また自分が原因かもしれない。
「せ、先生へ報告した方がいい」
ミナは冗談を言わなかった。鞘へ近づきすぎない距離で屈み、音を確かめる。
「私は音までは分かりません。でも、夜凪君の腰で何かが揺れているのは見えます。始まった時刻は?」
ミナが観察に徹してくれたことで、カイも記憶を順に辿れた。
「今。消灯鐘の少し前。北へ向けると強くなる」
ミナは登録証の裏へ急いで書き留めた。
「私が一緒にいたことも話します。夜凪君が勝手に地下へ行かなかったことも」
そこまで証言を用意する真剣さに、カイは思わず眉を寄せた。
「そこまで疑われると思うか」
ミナは登録証を握ったまま、カイの問いを正面から受け止める。
「疑われるかどうかじゃありません。見た人が、見たことを話した方が正確です」
一人で報告するより、二人の観察を合わせた方が状況を伝えられる。守られる側の自分にも、情報を渡す役目はあるのだと気づいた。
二人が校舎へ戻ろうとした時、遠くの武器庫から短い警報音が鳴った。
一度。
間を置いて、もう一度。
夜の空気を裂く硬い音に、校舎の窓が次々と点灯する。巡回教師たちが斜面を駆け上がり、生徒を寮へ戻す放送が流れ始めた。
カイとミナは職員室へ走り、鞘の振動が始まった時刻、方向、触れていないことをレイガへ報告した。レイガは質問を三つだけ返し、二人へ教室待機を命じた。
「地下へ近づくな。誰が呼んでも、私か担当教官の確認がない限り動くな」
その声には、面談室にはなかった鋭さがあった。
教室へ戻る途中、カイは黒い鞘から手を離したまま歩いた。異常を止める力はない。それでも今回は、確かめたい衝動より先に立ち止まり、伝えることができた。
自分の選択は一つ変わった。
だが警報は止まらない。武器庫周辺へ集まる教師の数は増え、校舎の床下からは、あの重い金属音が微かに響き始めていた。
平穏な学園生活が終わりかけている。その圧力だけは、白紙のカイにもはっきり分かった。
【主人公ステータス】
対象:夜凪カイ
種族:基底人族
個体ランク:G
レベル:Lv.5
HP:10/18(ランクG)
魔力:1/10(ランクG)
攻撃:4(ランクG)
防御:3(ランクG)
速度:5(ランクG)
技能:基本剣術(ランクG・Lv.1)
状態:入学候補・未登録。現世の基礎鍛錬段階で、七技法は未修得。




