第49話 壊す者が支える時
獅堂ガロウは、七角形の鍵穴を前に腕を組んだ。
石へ刻まれた七つの紋章は、拳を叩き込めばまとめて割れそうに見える。だが先ほど貯水室で犯した失敗が、右手へまだ重く残っていた。魔獣を倒そうとして排水口まで壊しかけた。力を出せることと、出してよいことは違う。
「触れるなって顔に書いてあるぞ、セレス」
ガロウは伸ばしかけた拳を引き、片眉だけを上げた。
「はい。鍵穴の周囲に水圧感知式があります。殴れば上流水門へ誤信号が流れる可能性があります」
セレスの片手は鍵穴を指し、もう片方は彼の拳との距離を測る。
「殴らねえよ。今日はな」
悔しさを笑いへ変えた、その時だった。
上流から重い金属音が届いた。
一度。二度。三度目に、水路全体が揺れる。
「水門が開きます!」
セレスの警告と同時に、入口側から濁流が押し寄せた。
水位が足首から膝、腰へ上がる。円形の貯水室へ流れ込んだ水は、中央支柱を回り込み、封鎖壁へ圧力を集中させた。石柱の中で、鈍い亀裂音が続く。
ガロウは柱へ手を掛けた。
「壊して横へ逃がす! 壁に穴を開けりゃ水は抜ける!」
水圧に押される柱を前に、ガロウの声が通路を震わせた。
「その下は未観測です」
セレスが記録板を抱きしめる。
「柱を壊せば、下層ごと崩れる可能性があります」
抱えた記録板の角が、セレスの指へ食い込んでいる。
「じゃあ見てるだけか!」
声を荒げた自分に腹が立った。力を否定された気がしたのだ。
カイが濁流の中で踏ん張り、ガロウを真っ直ぐ見た。
「壊すな。支えてくれ」
蒼廷院の規則では、未観測の下層へ被害が及ぶ手段は、目前の障害を除けても選べない。黒帳院の照合票では、この水門番号が追跡対象の移動記録と完全に一致していた。だからこそ壊して証拠も下層も失うわけにはいかない。赫陣院の評価欄は、敵を倒す一撃ではなく、水圧へ力を合わせ続ける保持戦を記録し始めた。
「俺に柱になれってのか」
ガロウは水に濡れた支柱を睨み、自分の両腕を見た。
「違う。柱が折れないよう、力を貸してほしい。俺は点検弁へ行く」
頼まれた。
止められたのではなく、自分にしかできない役割として頼まれた。その違いに気づいた途端、怒りが別の熱へ変わった。
「何分だ」
求められた役割を測るため、ガロウは足場へ深く腰を落とす。
「弁まで十五歩以内。黒影歩を使う。閉鎖はミナとセレスへ引き継ぐ。反動は十秒」
カイの指が経路を刻む間、ガロウは水圧の波を数えた。
「なら五分持たせる!」
ガロウは中央支柱へ両腕を回した。
《白牙皇》を面で放てば、柱も壁も吹き飛ぶ。力を外へ広げず、押し寄せる水圧と同じ方向へ当て続ける。初めての使い方だった。
白い圧力が柱を包む。最初の一呼吸で強すぎて、天井から砂が落ちた。
腕の中で柱が震える。普段の《白牙皇》なら、力を放った瞬間に手応えが返る。今は違う。壊れない範囲へ抑え続けるほど、自分の筋肉へ反動が溜まった。
幼い頃から、ガロウは壊せば褒められた。大岩を砕けば才能、木剣を折れば豪快、倒れても立てば根性。支えるだけの時間を、強さだと教えられたことはない。
「俺が倒れたら、柱も終わりだ」
思わず漏らすと、カイが点検弁へ向かう前に振り返った。
「違う。倒れる前に言ってくれ。リゼットが撤退を決める。ミナが合図する。セレスが次の支点を探す。ガロウ一人で終わりにはしない」
カイは点検弁から手を離し、返事を待つ位置まで戻った。
「それじゃ、俺が最強の柱じゃねえ」
不満げな声とは裏腹に、支柱を抱く腕の力は少し緩んだ。
「最強じゃなくていい。今、必要な柱でいてくれ」
悔しいのに、嬉しかった。自分の価値を無限の我慢ではなく、申告できる五分へ置いてもらえた。
「強度を下げて!」
リゼットの《蒼律》が二条件を表示する。
《亀裂音が増えたら停止》《ミナの赤い火で出力を半減》
「同意する!」
ガロウが叫ぶ。青白い文字が腕へ定着した。
ミナの火花が赤く点滅する。出力を下げる。柱が軋む。もう一度下げる。押し返すのではなく、揺れだけを殺す強さへ近づいていく。
「今だ、カイ!」
カイが一歩踏み込んだ。
黒影歩。
濁流の向こう、点検弁まで十三歩分の残像が一息に連なった。カイは弁へ手を掛け、足場を砕かずに止まる。後方の監督官は口を開けたまま時計を見ていた。
「閉鎖手順は三段です!」
セレスが叫ぶ。
「上の留め金、次に補助輪、最後に主弁。一度に回すと逆流します!」
カイは上の留め金だけを外し、手を離した。反動で立てない。
「ここから、頼む!」
以前の彼なら、無理にでも全部を終えようとしただろう。今は途中で仲間へ渡した。
ミナが低い火花を点滅させ、弁の位置を示す。セレスが手順と残り時間を読み上げ、リゼットが水深と撤退条件を切り替える。
「補助輪、二回転!」
セレスの指示に合わせ、ミナが水中の輪へ両手を掛ける。
「一回……二回!」
ミナが冷たい水へ肩まで浸かり、輪を回す。
「主弁、今です!」
三人で縄を引く。金属が悲鳴を上げ、水流が少しずつ弱まった。
ガロウの腕は痺れ、足元の石が沈んでいる。普段なら、痛みを隠して耐えた。だが今は声を出す。
「あと一分が限界だ!」
初めて先に出した申告が、水音の向こうまで届く。
「聞いたわ。三十秒で閉じる。駄目なら撤退!」
リゼットの返答が即座に来た。
頼っても、役割を奪われない。その事実が、ガロウの背中をもう一度伸ばした。
主弁が閉じる。
水位の上昇が止まり、柱へ加わる圧力が抜けた。ガロウは白牙皇を一気に消さず、三呼吸かけて弱める。柱は倒れなかった。
「持ったぞ……俺が、壊さずに持たせた!」
その叫びに、監督員は赫陣院の欄へ太い丸を付けた。赤帝側の評価は破壊力だけではない。必要な時間、必要な場所へ、仲間が作った条件に合わせて力を置けるか。ガロウの五分は、その尺度で初めて一つの戦闘成果になった。
腹の底から笑いが出た。ミナも泥水の中で笑い、セレスは濡れた記録板を抱えたまま頷く。リゼットは安心した途端、壁へ背をついた。
十秒が過ぎ、カイは自分の足で走って戻る。受付官から同行した監督員が、「仮登録の速度じゃない」と掠れた声で呟いた。
「ありがとう、ガロウ」
戻ったカイの手が、痺れた腕を避けて肩へ触れる。
「次は五分じゃなく十分だ」
ガロウは息を切らしながらも、もう次の保持を見ていた。
「その前に、今日の五分を再現できるようにしよう」
現実へ引き戻す答えに、太い眉が露骨に寄る。
「現実的すぎるだろ、お前」
閉じた水門の裏側で、石が擦れる音がした。
試験官が入口から水位と柱を確認し、ガロウの腕を持ち上げた。
「指を動かせ」
一本目、二本目は動く。三本目で激痛が走り、ガロウは顔をしかめた。
「痛くねえ」と言いかけて、飲み込む。
いつもの強がりを止めた沈黙へ、受付官は急かさず待った。
「薬指から肩まで痺れてる。握力は半分くらいだ」
ガロウが一本ずつ指を動かすたび、監督員の筆が追う。
「正直でよろしい。白牙皇の保持運用はEのLv.4。ただし一回五分ではなく、今回は水圧低下込みで成立した一例だ。次回も同じとは限らない」
成功印の横へ条件が並び、ガロウの鼻に皺が寄った。
「成功じゃねえのか」
監督員は印を消さず、その隣の制約だけを指した。
「成功だ。万能になったわけではない、という意味だ」
ガロウは不満そうに鼻を鳴らし、それでも記録へ署名した。できたことと、まだできないことを同じ紙へ残す。その方が次は長く支えられる。
カイも黒影歩後の痛みを申告し、ミナは冷えた指を温め、リゼットは蒼律の切替回数を記録する。初依頼の班は、成功の直後ほど状態確認を省かない。
水が引くにつれ、壁の一部が階段状にせり下がる。そこには地上のどの整備図にもない、暗い下り階段があった。
最初の段へ、七つの門を組み合わせた紋章が刻まれていた。
ガロウは階段へ進みかけ、痺れた右手で手すりをつかみ損ねた。カイが反射的に支える。
「ほら、まだ動ける」
言い張る足元で、つかみ損ねた手すりが小さく鳴った。
「今のは、動ける証明じゃなくて転びかけた証明だ」
カイは支えた腕を離さず、痺れのある右側へ立つ。
「細けえな」
ガロウは顔を背けたが、支えを振りほどかなかった。
「細かく言わないと、ガロウは行くだろ」
図星を突かれ、言葉に詰まった。未知の階段を前にすると、支柱を守った満足より先へ進みたい気持ちが勝つ。
ミナが温めた布を両腕へ巻き、セレスが感覚の戻りを一分ごとに記録する。リゼットは階段入口へ停止線を出した。
「調査は、動ける人から進む競争ではないわ。全員が戻れる状態を確認するまで、ここが終点」
ガロウは不満を隠さず座り込んだ。それでも停止線は越えない。
「次は俺が先頭だ」
停止線の内側で座ったまま、ガロウは暗い階段を指す。
「役割は強さで決めないって、昨日やったばかりでしょう」
リゼットの呆れ声に、全員から笑いが漏れた。緊張が少し解ける。その間も階段の奥は暗いまま、冷たい空気だけを吐き続けていた。
【主人公ステータス】
対象:夜凪カイ
種族:七紋人
個体ランク:B
レベル:Lv.16
HP:304/320(ランクB)
魔力:406/430(ランクB)
攻撃:136(ランクB)
防御:119(ランクB)
速度:150(ランクB)
技能:基本剣術(ランクB・Lv.8)/黒影歩(ランクB・Lv.7)/迅雷駆(ランクC・Lv.2)/鏡砕返し(ランクC・Lv.1)/焔皇砕(ランクD・Lv.1)/蒼天鎧(ランクC・Lv.2)/虚空掌握(ランクD・Lv.1)
状態:通常安全出力B・条件付き上限A。第51〜58話は実戦C〜B級相当だが、事務上の評価・所属とは区別する。




