第47話 水路へ降りる五人
セレス・ノアは、地下水路へ降りる鉄梯子の前で記録札を一枚増やした。
入口番号、第三弁区画。地上から深さ十八メートル。帰還標識は十歩ごとに白。地上連絡鐘は入口と第一分岐の二か所。水深は通常、足首から膝下。
これから入るのは七層迷宮ではない。学園が定期整備している水路であり、依頼は漏水原因の確認だ。未知の遺跡へ挑む気分に流されれば、既知の設備まで見落とす。
梯子を降りると、石造りの通路が灯具の範囲だけ奥へ伸びていた。両側の壁には分岐番号と帰還矢印。中央を流れる水は透明だが、天井から落ちる雫が絶えず輪を作っている。湿った苔、錆びた金具、冷えた地下水の匂いが混ざり、声は地上より長く反響した。
入口には片脚を補助具で支えた試験官。さらに後方、白線の外へレイガが立つ。
「私は緊急撤退線だけを保証する」
レイガの低い声が通路へ響く。
「依頼の答えは教えない。危険を見落としても、命に届く前には止める。それより手前は自分たちで判断しろ」
圧倒的な教師が後ろにいる安心は大きい。だが頼れば合格できない。その距離が、セレスには適切に思えた。
五人は入口で装備を相互確認した。水筒の栓、縄の結び、灯具の覆い、止血布の防水袋。セレスは確認結果を記録しながら、記録へ集中すると人の顔を見なくなる自分へ気づいた。
「ミナ、指が震えています」
セレスは記録板から目を上げ、火花を待つ指先を見た。
「ちょっと寒いだけ。大丈夫」
ミナは笑おうとしたが、握った手の震えまでは止まらない。
「大丈夫、では状態が分かりません」
言い方が硬すぎたと思った時、ミナが苦笑した。
「緊張が半分、寒さが半分。火花は出せる。でも長く水に入ったら休みたい」
言い直すうちに、ミナの肩から余計な力が抜けた。
「記録しました。私も、暗所で文字を見続けると視野が狭くなります。呼ばれて返事がなければ肩を叩いてください」
自分の制約を言うのは恥ずかしい。だが、他人の状態だけを記録する者になりたくなかった。
リゼットとガロウも、条件を増やしすぎること、狭所では白牙皇を使えないことを申告する。最後にカイが、黒影歩は十二歩まで、反動は十五秒だと改めて告げた。
既に知っている情報でも、依頼開始前に声へ出す。知っているつもりによる見落としを防ぐためだ。
「第一標識、図面と一致。水深、くるぶし上三センチ」
記録を読み上げる。
ミナが《火花》を指先へ灯した。六呼吸を超えても消えず、温度も低い。ところが光が水面へ反射し、天井と壁へ細かく揺れた。
「うわ、見づらい」
カイが足を置いた先には、光で消えたように見える苔があった。靴底が滑り、身体が傾く。
「カイ!」
ミナが腕をつかみ、ガロウが背中を受け止めた。
カイはすぐ体勢を戻したが、驚きで呼吸が浅くなっている。
「ごめん。足元を見たつもりだった」
カイは転びかけた足を戻し、濡れた苔の位置を指した。
「私の光が高すぎた。ごめん!」
ミナが火花を下げる前に、セレスの筆が二人の間で止まる。
「責任を一人へ置かないでください」
セレスは反射位置を書き込んだ。
「灯りが目線の高さにあり、水面へ映って苔の輪郭を消しました。原因は配置です」
ミナは火花を膝より下へ移した。光が水面へ浅く当たり、凹凸と苔が影になって見える。
「これなら?」
低い火花が水面を滑り、隠れていた段差の影を作った。
「見える。次から俺も、足を置く前に一呼吸止まる」
小さな失敗を誰かのせいにせず、配置と手順へ変える。そのやり取りを記録することも、依頼の成果だ。
第二分岐で、水路は図面どおり二つに分かれた。右路の格子には枯葉と布切れが詰まり、水位がわずかに高い。
「これを砕けば流れるな」
ガロウの腕へ白い圧力が集まる。
セレスは天井を見た。砂が一粒、二粒と落ちている。
「中止してください。衝撃を入れると天井材が剥離します」
セレスは落ちた砂粒を掌で受け、ガロウへ見せた。
「この程度なら俺が支える」
白い圧力が拳へ集まりかけ、天井の亀裂が細く鳴る。
「支えることと、設備を壊さないことは別です」
ガロウは拳を握ったまま数秒耐え、力を散らした。
「分かった。今日は壊さねえ」
悔しさを隠さない声だった。使える力を使わない方が難しい時もある。
五人は縄の先へ鈎を結び、格子の詰まりを少しずつ引いた。派手さはない。冷たい水へ腕を入れ、泥で制服を汚し、三度失敗して、ようやく布切れを取り除く。水位が指一本分下がった時、ミナが嬉しそうに声を上げた。
一度目は鈎が布を裂き、奥へ押し込んだ。二度目はガロウが強く引きすぎて縄が外れ、全員が尻もちをついた。三度目、リゼットが「一呼吸で引く」と合図し、ミナが水中の布端を照らし、セレスが角度を読み、カイが縄を石へ擦らせない位置へ直した。
「せーの!」
五人の力が同時に掛かる。重い泥とともに布が抜け、溜まっていた水が格子へ吸い込まれた。
ガロウが泥水を顔から拭い、声を上げて笑う。リゼットも制服の汚れを見て一度は顔をしかめたが、すぐ笑い出した。セレスは笑いながら記録するのが難しく、文字を一行書き直した。
失敗の回数まで残す。一度で成功したように整えれば、次に同じ班が来た時、必要な人数も角度も分からない。
「流れた!」
濁った水が動き、ガロウの歓声が狭い水路へ響く。
「依頼の漏水原因ではありません。まだ喜ぶのは早いです」
そう言いながら、セレス自身も頬が緩んだ。
対岸の点検弁は、幅二歩の流れを越えた先にある。カイなら黒影歩で一瞬だ。しかし彼は縄を腰へ結び、石の突起へ足を置いた。
「使わないの?」
ミナが尋ねる。
「黒影歩なら一息で着く。でも点検弁の先が安全と決まっていない。速さではなく、足場を残すために通常歩法で行く」
一歩目で止まり、足裏を確かめる。二歩目で腰を落とし、流れへ身体を取られない角度へ修正する。七界の完成した歩法ではなく、十六歳の身体で作り直した基礎だ。
対岸へ着き、点検弁を調べる。閉鎖位置は正常。刻印番号も図面と一致。
戻ってきたカイの靴は水浸しだったが、転ばなかった。
試験官は遠くから「速さは」と尋ねた。
「黒影歩より遅いです」とカイは答える。
試験官は速度欄へ書かず、次の問いを返した。
「では価値は低いか」
カイは足元の停止線と、後ろにいる四人を見た。
「いいえ。途中で止まれます。仲間に合図もできます。今の依頼ではこちらの方が価値があります」
答えを聞いた試験官の筆が、初めて評価欄へ動く。
「その答えを忘れるな。冒険者の技能評価は、数字が高い順ではない」
セレスはその会話も余白へ残した。基本剣術の新しい適用例が一つ増えた。実用上は、黒影歩を使わずに済む選択肢が増えたことが大きい。
「基本剣術Bの歩法で新しい成功例を記録します。速いだけでなく、濡れた石を一枚も割っていません」
セレスが記録した。
「濡れた足場での一呼吸停止が再現可能。黒影歩ではなく、通常歩法で」
カイは小さく笑った。
「一億年より、今の一歩を褒められる方が嬉しいな」
第二分岐の記録を終えた時、セレスは図面にない変化へ気づいた。
封鎖壁の下端。水は外へ流れているのに、細い紙片だけが壁へ吸い寄せられている。
「風があります」
全員が黙る。
隙間へ手を近づけると、整備済み区画の奥から、冬の夜のように冷たい風が吹き出していた。
図面には、その先の空間が存在しない。
セレスは「隠し通路」と書きかけ、筆を止めた。風があることと、通路があることは同じではない。
壁際には、黒帳院が追う対象へ付されたのと同じ三角形の刻みがあった。ただし新しい傷か、工事時の測量印かは分からない。セレスは「追跡対象の印」とは書かず、形、深さ、向き、発見時刻だけを記録する。蒼廷院の規則票どおり、意味づけは地上の照合へ回した。
赫陣院の実戦欄には、魔獣を倒した数ではなく、カイが濡れた石を一枚も割らずに進んだ歩法が記された。戦闘の専門であっても、壊さない制御は評価対象になる。その一文が、次の事件でガロウの力を止める根拠になる。
《封鎖壁下端から冷風。発生源・空間形状は未確認》
事実だけへ書き直す。カイがその文字を読み、小さく頷いた。
「それなら、次に見る人が自分で確かめられる」
褒められたことより、記録が次の判断へつながったことが嬉しかった。
【主人公ステータス】
対象:夜凪カイ
種族:七紋人
個体ランク:B
レベル:Lv.14
HP:308/320(ランクB)
魔力:412/430(ランクB)
攻撃:136(ランクB)
防御:119(ランクB)
速度:150(ランクB)
技能:基本剣術(ランクB・Lv.8)/黒影歩(ランクB・Lv.7)/迅雷駆(ランクC・Lv.2)/鏡砕返し(ランクC・Lv.1)/焔皇砕(ランクD・Lv.1)/蒼天鎧(ランクC・Lv.2)/虚空掌握(ランクD・Lv.1)
状態:通常安全出力B・条件付き上限A。第51〜58話は実戦C〜B級相当だが、事務上の評価・所属とは区別する。




