第43話 勝利条件を捨てる
床が抜けた直後、セレス・ノアの耳から試合の歓声が消えた。
実際には誰かが叫び、梁が砕け、監査官が避難を命じている。だが銀髪へ砂埃が降り注ぐ中、セレスの意識は十二秒ごとに点滅する黒い術式文字へ吸い寄せられていた。
地下訓練場は二層にわたって崩れている。上層には教師と監査官、下層には落下した十人。その間に、折れた梁と石床が斜めに重なり、今も少しずつ沈んでいた。
事故なら、亀裂は重さに従って広がる。しかし壁の文字は、きっかり十二秒ごとに別の支柱へ移っている。
「事故ではありません」
声が震えた。断定を誤れば救助を遅らせる。それでも、記録、比較、警告が自分の役目だ。
「術式が順番に支柱を切っています。次は東梁。九秒後です!」
レイガが片手を向ける。白い圧力が東梁を包み、三秒後に走った黒線を押し潰した。
「続けろ、セレス」
レイガの白い圧力が梁を支え、セレスの次の観測を待つ。
「はい!」
崩落面の奥に人影が見えた。
細身の男。黒い祭服の裾を瓦礫へ触れさせず、上層と下層をつなぐ保守足場に立っている。剃り上げた頭の左側には銀の刺青が幾何学模様を描き、薄い唇には笑みがあった。武器を持つ腕は細いのに、足場が揺れても重心が動かない。学生が正面から挑めば、一人では止められない術者だと分かる。
胸元に、割れた玉座の紋章。
テオクラスト。
「支柱の切断記録が、機関室襲撃時の残滓と一致。残党です」
男はセレスへ一礼し、次の術式を起動した。
「よく見つけた。だが記録には、古い訓練場の事故とだけ残る」
怒りで指先が冷たくなった。生徒を殺すだけでなく、死を学園の過失へ変えるつもりなのだ。
「残します。あなたが切った十二秒を、一つも消させません」
術者は初めて笑みを消した。
* * *
カイが下層へ着いた時、右脚には黒影歩の反動が残っていた。
崩落した斜面を走ったのではない。通常歩法で一歩ずつ重心を確かめ、落ちた者の声を頼りに降りてきた。急げば速いとは限らない。足場を壊せば、後に続く救助路が消える。
十人のうち、意識があるのは八人。対戦班長は左腕を押さえながら、青旗を離していなかった。
カイは一人ずつ状態を見た。足首を挟まれた女子、額から血を流す少年、呼びかけに反応しない二人。呼吸はある。胸の上下を確かめ、瓦礫をいきなり動かさず、どこへ重さが掛かっているかを剣の柄で探る。
「痛い……動けない」
瓦礫の隙間から伸びた指が震え、カイは触れずに目線を合わせた。
「名前を言える?」
返事を急かさず、胸の上下を数えながら待つ。
「ナ、ナディア……」
名を聞いたカイの声から、診断の硬さが少し消えた。
「ナディア、聞こえてる。足は今すぐ引かない。上の梁を固定してから助ける」
安心させるためだけに「大丈夫」とは言わない。何をして、何を待つのかを伝える。七界で何度も救助に失敗し、ようやく覚えた話し方だった。
ミナの火が上から届き、暗闇に十人の顔が浮かぶ。試合中には知らなかった名前を、カイは一人ずつ呼んだ。敵味方という区別が、崩落した床の下では意味を失っていく。
「旗は確保した! 俺たちの勝ちだ。術者を追え!」
対戦班長は青旗を握ったまま、崩落面の出口を睨んだ。
「試合は君たちの勝ちだよ」
カイはきっぱり認めた。
「でも、ここからは全員で帰る」
カイは足元の二人を庇う位置へ立ち、追跡路へ背を向けた。
「あいつを逃がしたら、また来るぞ!」
班長の焦りは正しく、だからこそカイは一呼吸置いて答えた。
「追えば、今ここにいる二人を置いていく。俺は旗も追跡も捨てる」
悔しくないわけではない。目の前に、事件を起こした本人がいる。それでも怒りを理由に、動けない同級生を瓦礫の下へ残すことはできなかった。
リゼットが斜面の上から声を張る。
「救助行動への切替を提案します! 指揮に同意する者は返事を!」
ミナ、セレス、ガロウが応じる。相手班は迷った。対戦班長が歯を食いしばり、折れていない右手を上げた。
「同意する。……俺の班員を、頼む」
上げた右手が震え、それでも班長は最後まで下ろさなかった。
「あなたも班員よ。置いていかない」
リゼットの《蒼律》が青白い文字となって足元へ灯った。命令ではない。同意した者へ「十二秒で停止」「梁の内側へ入らない」「負傷者を一人にしない」という条件が順番に表示される。
「出口が暗い!」
ミナが瓦礫の隙間へ指を向けた。《火花》が一点で灯り、揺れる呼吸に合わせながら六呼吸を保つ。
「ここ! 私の火から目を離さないで! 熱くしない、明るさだけにする!」
小さな火は、暗闇の中で出口の形をはっきり示した。
「東梁、次の切断まで七秒」
セレスが周期を数える。
「ガロウ、三秒後に荷重が来ます」
セレスの指が三本から一本へ減り、梁の軋みが近づく。
「任せろ!」
ガロウが折れた梁へ左肩を入れた。《白牙皇》の白い圧力が広がりかけ、彼は歯を食いしばって一点へ抑える。梁は持ち上がらない。だが落ちてもこない。
「今だ、通せ!」
カイは歩ける者を二人一組にし、負傷者の身体を布と木剣で固定した。一人目。二人目。試合中は敵だった生徒が、味方の背を支える。ミナの火が消えるたび、六呼吸休んで再点火する。セレスの数がゼロになるたび、全員が止まり、レイガの白い圧力が次の切断を防ぐ。
最後に残ったのは対戦班長だった。
「俺は歩ける。術者を追え」
強がって立とうとした右足が、石床の上でわずかに滑る。
「左腕だけじゃない。右足首も腫れている」
カイは膝をつき、触れる前に腫れの位置を示した。
「お前に負け犬扱いされたくない!」
班長の叫びが瓦礫へ反響し、カイは視線を逸らさず受け止める。
「俺は君に負けた。だから、負けた相手を助けることを恥だと思わない」
男の顔が歪んだ。怒りではなく、泣きそうになるのを耐える表情だった。
カイは彼の右肩へ入り、歩幅を合わせた。背後で銀の刺青の術者が黒い扉へ退く。
「選定者。次は七つの門で会おう」
追える距離だった。
それでもカイは振り返らず、対戦班長を明るい火の方へ運んだ。
十人目が上層へ上がった瞬間、ガロウが梁から離れる。レイガの領域が崩落面全体を覆い、残った瓦礫を凍結した。
監査席の投影板には、代理観測者の短い記録が同時に届いていた。白冠院のエルナは「敵味方十人、救助順に差別なし」と数える。黒帳院のシオンは「術者を追跡可能な距離で視認、ただし十二秒周期と負傷者位置を優先記録」と残す。赫陣院のドーガは「勝てる追撃を中止。戦闘目的未達、戦場判断は適切」と勝敗を甘くしない。蒼廷院のフィオナは「二班を救助指揮へ再編、同意取得後に役割移行」と評価した。
同じ撤退が、救助では成功、情報では未完、戦闘では目標未達、指揮では再編成功になる。四つとも事実だった。
上層へ戻ったナディアが、ミナの手を握った。
「試合で、あなたの火を消そうとして……ごめん」
ナディアの指に力が入り、握られたミナの手が熱を返した。
「それは試合だからいいの。今は足を動かさないで」
ミナは泣き笑いの顔で治療布を巻く。ガロウは梁を支えた腕が痙攣していたが、強がらず医療官へ差し出した。リゼットは同意した人数と生還した人数を照合し、セレスは術者の十二秒周期を最後まで記録する。
途中、二本の梁が同時に落ちた瞬間だけ、カイは力を解放した。《迅雷駆》で負傷者の前へ入り、《蒼天鎧》で一方を受け、《虚空掌握》で他方を三秒だけ空中へ縫い止める。敵班の生徒たちは、自分たちを倒せた力が救助へ使われる光景に息を呑んだ。対戦班長は悔しさに唇を噛みながらも、「強いだけじゃないのか」と初めて尊敬を隠さなかった。
誰か一人の必殺技で成し遂げた救助ではない。それぞれの小さな判断が途切れなかった結果だ。
レイガは術者を追わなかった。白い領域なら、崩落を固定したまま追跡できたかもしれない。それでも生徒十人の呼吸が安定するまで、視線を一度も外さない。
「先生なら、捕まえられたんじゃないですか」
カイが尋ねると、レイガは短く頷いた。
「可能性はあった。だが、お前たちだけで崩落を支えるには早い。教師の勝利は敵を捕らえることではなく、生徒を帰すことだ」
その答えに、カイは自分の選択が甘さだけではなかったと初めて思えた。
全員、生きている。
安堵で膝が抜けそうになった。その一方で、術者を逃した悔しさは腹の奥に残った。正しい選択は、痛くない選択ではない。
崩落面の奥で黒い扉が閉じ、その外周に七つの紋章が光った。
見覚えがある。
一億年を過ごした七界で、七王たちが刻んだ王印と同じ形だった。
【主人公ステータス】
対象:夜凪カイ
種族:七紋人
個体ランク:B
レベル:Lv.10
HP:316/320(ランクB)
魔力:424/430(ランクB)
攻撃:136(ランクB)
防御:119(ランクB)
速度:150(ランクB)
技能:基本剣術(ランクB・Lv.8)/黒影歩(ランクB・Lv.7)/迅雷駆(ランクC・Lv.2)/鏡砕返し(ランクC・Lv.1)/焔皇砕(ランクD・Lv.1)/蒼天鎧(ランクC・Lv.2)/虚空掌握(ランクD・Lv.1)
状態:通常安全出力B・条件付き上限A。第51〜58話は実戦C〜B級相当だが、事務上の評価・所属とは区別する。




