第42話 勝てる決闘を捨てる
開始鐘と同時に、地下訓練場の空気が変わった。
中央の青旗へミナとガロウが走り、セレスは右手の石壁へ、リゼットは後方の見通しが利く段差へ移る。対戦班は二人を旗へ、二人を左右の通路へ広げ、班長だけが真っ直ぐカイへ向かってきた。
観客席には同級生、外周には学園監査官が三人。天城レイガは西側の柱前に立ち、試合ではなく訓練場全体を見ている。カイは全員の位置を一度で確かめ、北階段までの退路へ身体を向けた。
今の役目は決闘ではない。
「逃げるのか、帰還者!」
対戦班長の木剣が、背後のセレスへ向きを変えた。
挑発だと分かっていた。それでも、セレスが記録板を守るため足を止めた瞬間、カイの身体は間へ入っていた。
木剣同士が激しく鳴る。
「俺が相手だ。ただし、退路からは離れない」
カイは木剣を正眼へ置きつつ、背後の非常階段を視界に残した。
「都合のいい条件だな!」
相手の初撃は速く、重かった。カイは刃筋を読み、最小の角度で受け流す。肩、肘、手首の順に力を逃がし、二撃目の軌道へ木剣の腹を添える。一億年かけて磨いた理屈は失っていない。
対戦班長は、ただ力任せに押しているわけではなかった。カイが外へ流せば次の足を内側へ置き、退路を狭める。上段を見せて脇へ打ち、カイが守った瞬間には旗側へ身体を向ける。勝敗だけでなく、班全体の配置を見ている。
「君は強い」
息を切らしながらカイが言う。
「今さら機嫌を取るな!」
対戦班長の踏み込みが強まり、濡れた床が甲高く鳴る。
「違う。剣だけじゃない。班員が動きやすい場所を残してる」
カイが示した先では、相手班の二人が旗への道を保っていた。
「当然だ。俺は、皆を連れて星徒になる!」
その叫びに、相手班の生徒が応える。彼らは対戦班長へ命令されているのではない。同じ目標を信じて走っている。
カイの胸に、羨ましさが生まれた。一億年の修行で個人の剣理は得た。だが現世で仲間と積み重ねた時間は、相手の方が長い。その差は、技法一つで埋めてよいものではない。
十六歳の腕は、集中修行を経てようやく理屈へ追いつき始めていた。
三合目で相手の重心を崩し、五合目には木剣を弾き上げる。対戦班長は学園へ入る前から身体を鍛えてきた上位生だ。それでも今のカイは、技量だけでなく筋力と持久力でも一段上へ出ていた。
「どうした! S級技能は表示だけか!」
木剣を打ち合わせながら、班長はカイの封印へ視線を走らせた。
「表示は修行の記録だ。今の出力じゃない」
カイは呼吸を一つ整え、右足の置き場を半歩だけ変える。
「なら、今のお前で来い!」
腹の底が熱くなった。
悔しい。一億年を嘘だと言われたからではない。目の前の同級生が本気で挑んでいるのに、自分がまだ力を抑えていることが悔しかった。
カイは一歩下がり、呼吸を整えた。対戦班長の右足が外へ開く。次は左肩への振り下ろし。その奥で、旗へ近づいたミナが別の生徒二人に挟まれている。
十二歩まで使える。だが必要なのは、たった一歩だった。
第一技法《黒影歩》。
床を蹴った感覚より先に、景色が切り替わった。対戦班長の背後。相手の首筋へ木剣を止められる位置だった。
観客席から悲鳴に似た声が上がる。
カイは対戦班長の背後で止まり、首筋へ木剣を添えた。十二歩のうち使ったのは三歩。対戦班長の木剣はまだ振り下ろされてもいない。教員席では二人が同時に立ち上がり、相手班の一人が「強すぎる」と呆然と呟いた。
最上段では、四人の代理観測者が同じ三歩を別々に記した。エルナは「致傷せず停止、直後に相手の状態確認」と救助欄へ丸を付ける。シオンは「視認不能区間三歩、発動前の足圧変化あり」と追跡可能な情報だけを残した。ドーガは「決着可能、打撃なし。戦闘上は勝勢」と評価する。フィオナは「役割線を越えず、退路任務を維持」と指揮欄へ書いた。
誰も他の尺度を否定しない。救助、情報、戦闘、指揮。四帝が制度上同格であるように、四つの記録も一つへ潰さず並べられた。
「止めた……?」
首筋で止まった木剣を見て、班長の喉がかすかに動いた。
「君を壊さないためだ」
対戦班長は悔しさで唇を震わせた。それでも敗北を認め、木剣を下ろしかける。その時、床下から十二秒周期の振動が返った。
リゼットの声が飛ぶ。
「カイ、無理に立たないで! 北階段は私が見る。セレス、西の記録を更新!」
リゼットの蒼律が二方向へ伸び、班の視線を分けた。
「了解。ミナ、右から一名追加です」
セレスは記録板から顔を上げ、接近する足音を指で示す。
「分かってる!」
勝敗だけなら、もう決まっている。けれどカイは相手を打たず、木剣を引いた。床下から返る十二秒周期の振動が、旗より重い情報に思えたからだ。
カイは剣を下ろし、片膝を床へついて振動を数えた。
十五秒。黒影歩の反動が抜け、足裏へ体重を戻せる。
以前は九十秒かかった。レイガとの集中修行で十五秒まで縮めた今、学園上位の誰もその空白へ攻め込めない。
立ち上がった時、中央では対戦班長が青旗の紐へ手を掛けていた。ガロウは二人を受け止め、ミナは火花で合図を送っている。セレスが安全な通路を叫ぶが、あと一歩届かない。
ミナが火花を三度点滅させた。事前に決めた「退路へ戻る」の合図だ。ガロウは旗を諦めて一人を抱え、リゼットは西側へ蒼律の停止線を出す。全員が、勝利より先にカイの役割を代わっていた。
カイは胸の奥が熱くなった。自分一人なら旗を奪える。それでも四人は、彼が異常を確かめる十五秒を当然のように埋めてくれた。強さを任せられるだけでなく、止まる判断まで信じてもらえたのだ。
「カイ、歩けるなら西を見て!」
ミナは旗へ走りながらも、一度だけ肩越しに彼の足を確かめた。
「分かった!」
旗には十分間に合う。それでも残った役目を優先する。カイは北階段の人数、観客席への退路、古い柱の亀裂を順に確認した。
十二秒周期の振動は、さきほどより短く感じる。実際に周期が変わったのではない。戦闘中、皆の足音と剣音に埋もれていたのだ。セレスの記録札が赤く点滅し、彼女も異常を察知している。
「先生、柱の内部音が大きくなっています!」
レイガが白い領域を広げ始める。だが旗の確保を知らせる鐘と、柱が折れる音はほとんど同時だった。
「旗、確保!」
対戦班長が紐を引いた。
鐘が鳴り、得点板に相手班の勝利が表示される。
決闘には勝った。合同戦の勝利だけを、自分から捨てた。
カイは唇を噛んだ。達観しているから悔しくないわけではない。むしろ、自分の不足を正確に知るほど、悔しさは逃げ場を失う。
「試合は負けました」
声に出すと、胸の奥へ重く沈んだ。
対戦班長は旗を掲げたが、笑えなかった。自分が剣で完敗した事実も、カイが勝利より異常を選んだ事実も分かっていたからだ。
「見たか! 帰還者だろうが、今の学園では――」
言葉の途中で、十二秒周期の振動が来た。
今までより強い。
西側の古い柱から、乾いた破裂音がした。レイガの表情が変わる。白い圧力が広がるより早く、旗の下の床が斜めに沈んだ。
「私が崩落を止める。全員、旗から離れろ!」
カイは叫んだ。
対戦班長が振り向く。足元の石板は既に割れていた。
中央に集まっていた敵味方十人が、旗と崩れた梁ごと暗い下層へ落ちる。
カイは動き始めた右脚へ体重を乗せた。
試合は終わった。敗北も確定した。
だから次は、勝つためではなく、一人も死なせないために走る。
落下口の縁へ着くと、冷たい空気が吹き上がった。下から泣き声と、誰かが名前を呼ぶ声が重なる。視界は砂埃で三歩先までしか利かない。
カイは飛び降りたい衝動を止めた。黒影歩はもう使えない。無理に跳べば自分も負傷者になる。
「セレス、落ちた人数を! リゼット、上に残った人数! ミナは灯り、ガロウは梁に触る前に先生へ荷重確認!」
悔しさを抱えたまま、声は落ち着いていた。
負けた直後でも、次の判断はできる。そのことだけを頼りに、カイは崩れた斜面へ最初の足を置いた。
【主人公ステータス】
対象:夜凪カイ
種族:七紋人
個体ランク:B
レベル:Lv.9
HP:318/320(ランクB)
魔力:427/430(ランクB)
攻撃:136(ランクB)
防御:119(ランクB)
速度:150(ランクB)
技能:基本剣術(ランクB・Lv.8)/黒影歩(ランクB・Lv.7)/迅雷駆(ランクC・Lv.2)/鏡砕返し(ランクC・Lv.1)/焔皇砕(ランクD・Lv.1)/蒼天鎧(ランクC・Lv.2)/虚空掌握(ランクD・Lv.1)
状態:通常安全出力B・条件付き上限A。第51〜58話は実戦C〜B級相当だが、事務上の評価・所属とは区別する。




