第3話 名のない刃
獅堂ガロウの剣名奉唱から数人が過ぎても、講堂には白い光の残像と興奮が漂っていた。
夜凪カイは祭壇へ続く列の中で、汗ばんだ手を制服の脇へ何度も擦りつけていた。天井から降る術式光は明るいのに、指先だけが冷たい。順番が来たら黒い鞘を台座へ置き、聞こえた剣名を唱える。それが今の目的だった。
ただし、その名が一度も聞こえたことはない。
昨日、門をくぐり、白紙の仮登録証を受け取った。あの時は「本測定前だから」と考える余地があった。ここで何も起きなければ、能力欄の空白は未測定ではなくなる。自分自身が、皆とは違うと認めなければならない。
隣ではミナが、自分の登録証を両手で持っていた。彼女の奉唱した《火花》は、祭壇の上に拳ほどの赤い光を灯した。大きくはなかったが、光が生まれた瞬間、ミナは泣きそうな顔で笑った。
「ちゃんと聞こえました。家のかまどじゃなくても」
戻ってきた彼女へ、カイは「よかった」と答えた。本心だった。同時に、自分だけ取り残される怖さも増した。その醜い感情を知られたくなくて、笑おうとしたが頬がうまく動かなかった。
少し前では、セレスの細身の剣が複数の術式文字を空中へ浮かべた。彼女は歓声より文字列へ夢中になり、教師に促されるまで祭壇を降りなかった。
リゼットの剣は青白い光を真っ直ぐ天井へ伸ばし、上位適性を示した。周囲から感嘆が漏れても、彼女は満足げに笑わず、判定盤の数値を一つずつ確認している。自信があるように見えたのは、結果を軽く扱わないからなのだろう。
三人とも、剣名を持っている。
列が一人分進む。
壇上で奉唱を監督している教師は、最初に天城レイガと紹介されていた。三十代ほどに見える長身の男性で、黒い教員服の上から灰色の長外套を羽織っている。肩と腕は厚く鍛えられ、左の眉から頬へ薄い傷が走っていた。傷を含めても精悍な顔立ちは、同性のカイから見ても格好いい。
何より目を引くのは立ち方だった。長時間そこにいるはずなのに重心が崩れず、生徒の剣が暴れれば一歩だけで射線へ入る。強い者なのだと、説明されなくても分かった。
ガロウの力が周囲を押し退けるものなら、レイガの存在感は周囲を落ち着かせる。怒鳴らなくても、彼が片手を上げるだけで千人近い講堂が静かになった。
尊敬と緊張が同時に湧き、自分の失敗をこの人に見られたくないと思った。
「夜凪カイ」
名前を呼ばれた。
「……はい。すみません、聞こえてました」
返事が遅れ、後ろで誰かが小さく笑った。耳が熱くなる。カイは黒い鞘を抱え、祭壇までの階段を上った。
一段ごとに、靴底が石を打つ音が大きく聞こえる。壇上から振り返ると、講堂中の顔が自分へ向いていた。ミナは胸元で両手を握り、セレスは記録具を構え、リゼットは瞬きもせず見ている。ガロウだけは腕を組み、表情を変えなかった。
逃げたい。
だが、ここまで来て背を向ければ、自分の剣が何なのか確かめる機会も失う。
レイガが台座を示した。
「所持武器を置け。柄へ触れろ。聞こえた名だけを言え。足すな、隠すな」
最後の言葉が、自分へ向けられたように感じた。
「は、はい」
黒い鞘を白石の台座へ置く。周囲の剣なら触れた時点で淡く光るのに、黒い鞘は光を吸ったままだった。
柄へ手をかける。
何も聞こえない。
目を閉じ、呼吸を整えた。衣擦れ。遠くの咳払い。天井の術式が巡る微かな振動。自分の荒い鼓動。全て聞こえるのに、手の中の剣からは音も、言葉も、意思も伝わらない。
「夜凪。どうした」
責める声ではない。それでも喉が塞がった。
「す、すみません。もう一度……お願いします」
講堂がざわつく。レイガは周囲を黙らせるでも、カイを急かすでもなく、同じ調子で言った。
「剣名を奉唱しろ」
カイは柄を握り直した。手のひらが痛むほど力を入れる。聞こえてくれと願い、頭の中で何度も呼びかける。
返事はなかった。
期待にしがみついて黙り続ければ、次の生徒の時間まで奪う。リゼットに「分からないものを分かったと言わないで」と言われたことを思い出した。
「……聞こえません」
声にした瞬間、胸の奥が冷えた。
生徒たちの間から、抑えきれない囁きが広がる。
「剣名がないのか」
驚きを隠さない声に、周囲の視線がいっそう集まる。
「そんな人、本当にいるんだ」
別の生徒が黒い鞘を覗き込み、隣の肩をつついた。
「あれ、剣なの?」
笑い声より、好奇心と警戒の視線が痛かった。自分が人ではなく、珍しい失敗例になったように感じる。顔を上げていられず、台座の小さな傷を見つめた。
「今、何も聞こえないという意味か」
レイガの問いは、逃げ道を残す確認だった。
カイは一瞬、その逃げ道に乗りたくなった。緊張のせいだと言えば、明日まで先延ばしにできるかもしれない。
だが、それではミナにも、自分にも嘘を重ねる。
「いいえ。今だけじゃありません。今まで、一度も聞こえたことがないんです」
隠していた事実を口にすると、恥ずかしさで足が震えた。同時に、肺へ少しだけ空気が入った。
列の後方から、低い声が届く。
「なら、剣ではない」
ガロウだった。
笑ってはいない。侮辱する表情でもない。目の前の事実から結論を出しただけなのだろう。だからこそ、その言葉は深く刺さった。
この黒い鞘まで否定されたら、自分がここへ来た理由は何も残らない。
「剣だ」
反射的に言い返し、柄を引いた。
普段なら指三本分で止まる刃が、手の幅ほどまで抜けた。
黒い刃は光を放たない。代わりに、講堂の床下から、巨大な歯車が一つ噛み合ったような金属音が響いた。
足元が沈む。
祭壇の縁に刻まれた術式が一斉に明滅し、並べられた百本以上の剣が鞘の中で震えた。天井から細かな石粉が落ち、生徒たちが悲鳴を上げて後ずさる。
カイの手首には、刃の向こうから引っ張られるような重さがかかった。握っているだけなのに、腕の骨が軋む。
「な、何だ、これ……!」
ミナは驚きながらも列から一歩出て、カイを見ていた。セレスは床を走る術式の点灯順へ目を向け、リゼットは近くの生徒の肩を押して祭壇から下がらせる。それぞれが恐怖の中で違う行動を選んでいた。
レイガが、いつ動いたのか分からなかった。
次の瞬間にはカイと生徒たちの間へ立ち、片手で黒い刃の進行を止めている。刃に触れた指先から白い煙が上がったが、表情は変わらない。その圧倒的な落ち着きに触れた途端、カイは自分がどれほど危険なことをしたのか理解した。
「手を離せ」
レイガの指先から立つ煙に目を奪われながらも、カイは柄を握り続けていた。
「でも、今、初めて反応が――」
レイガは黒い刃を押さえたまま、逃げ道を与えない目でカイを見据える。
「反応と制御は別だ。現状を観測できていない。手を離せ」
低い声に怒りはない。だから言い訳ができなかった。
カイが柄から手を放す。レイガは黒い刃を素手で押し戻した。最後の一寸が鞘へ収まると、床の振動も剣の震えも途切れた。
静まり返った講堂に、焦げた布の匂いが漂う。
「先生、手が……」
カイの視線を受けても、レイガは傷を隠そうともしなかった。
「この程度なら問題ない」
レイガの右手には赤黒い火傷が浮かんでいた。この人が間に入らなければ、誰かが傷ついていたかもしれない。その原因は、自分が「剣だ」と証明したい一心で命令を待たずに抜いたことだ。
悔しさより先に、吐き気を伴う恐怖が来た。
レイガはカイを叱る前に、講堂の生徒たちへ向き直った。
「測定を中断する。負傷者を確認しろ。夜凪カイは失格ではない。現時点では測定不能とし、私の保護観察下に置く」
ざわめきが戻る。「失格ではない」という言葉に安堵した。それなのに、自分の力で残ったのではなく、教師に守られて残されたことが苦しかった。
「先生」
声を出すと、膝まで震えているのが分かった。
「俺は……この学園にいていいんですか」
レイガは火傷した手を隠さず、カイを見た。
「その答えを出すために学ぶ。俺が今決めるのは、お前を退学させることではない。次の事故を防ぎ、正体を確かめることだ」
慰める口調ではなかった。問題を先送りにもしない。ただ、今の失敗だけで全てを終わらせないと言っている。
カイは黒い鞘を抱え、列へ戻った。
ミナがすぐに口を開きかける。カイは今、励まされれば自分が泣くか、逆に彼女へひどいことを言う気がした。
「ご、ごめん。今は……何を言えばいいか、分からない」
首を振ると、ミナは傷ついた顔をした。それでも別の場所へ行かず、半歩だけ距離を空けて隣へ戻った。
その沈黙がありがたく、同時に申し訳なかった。
剣名は得られなかった。代わりに、カイは隠していた事実を皆の前で明かし、制御できない反応を起こした。
能力欄の空白は、もう自分一人の秘密ではない。
そして明日からは、天城レイガの保護観察下で、自分が危険ではないと行動で示さなければならなかった。
【主人公ステータス】
対象:夜凪カイ
種族:基底人族
個体ランク:G
レベル:Lv.3
HP:14/18(ランクG)
魔力:4/10(ランクG)
攻撃:4(ランクG)
防御:3(ランクG)
速度:5(ランクG)
技能:基本剣術(ランクG・Lv.1)
状態:入学候補・未登録。現世の基礎鍛錬段階で、七技法は未修得。




