第23話 喜べない再会
観察窓の向こうにいるカイは、静かだった。
白い隔離診察室の中央で椅子に座り、監査官から渡された書類を読んでいる。背筋は伸び、視線の動きにも迷いがない。ときどき右肩をかばうように腕の位置を直す以外、疲れていることさえ分かりにくい。
ミナは窓の前に立ったまま、両手を強く握っていた。
あの十二分が始まる前のカイは、もっと分かりやすかった。
地下封印機関室で帰還門が開いたとき、顔色を失い、足を止め、何が起きているのか分からないまま周囲を見ていた。怖いのを隠そうとして、けれど隠し切れず、呼吸も声も震えていた。
それでも皆を置いていかないために、門の前へ立った。
ミナが知っている夜凪カイは、怖がりながら進む人だった。
今、窓の向こうにいるカイは違う。
監査官に退学や拘束を告げられても、取り乱さなかった。S級二種・A級五種の保存技能が表示されても誇ることなく、木剣を百回振り、最後の一振りを自分の意思で止めた。
その姿は強いというより、遠かった。
誰かの許可を求めず、誰かに慰めてもらおうともせず、自分一人で結論まで歩いていける人に見えた。
王のように静かだ、とミナは思った。
何を言われても揺らがず、何を失っても顔に出さない。大勢の前に立ち、自分の痛みを後回しにできる人。
帰ってきてくれたことは嬉しい。
抱きついたとき、確かに温かかった。声もカイのままだった。自分の名を呼ぶ調子も変わっていなかった。
それなのに、胸の奥には別の感情が残っている。
置いていかれた。
そんなふうに感じてしまう自分が、ミナは嫌だった。
一億年も帰れなかった相手に、十二分しか待っていない自分が何を言えるのか。
カイがどれほど苦しんだのかも分からないのに、自分だけが寂しいと訴える資格などない。
そう考えるほど、喉の奥が狭くなった。
「次、ミナ」
監査官の声で、ミナは肩を跳ねさせた。
観察窓の横にある扉が開く。
カイの隔離審査に続き、地下機関室にいた四人全員の技能監査が行われることになった。最初に呼ばれたのがミナだった。
診察室へ入ると、白い壁の冷たさが肌へ伝わってきた。
中央の測定円。正面には監査官。少し離れた場所にレイガが腕を組んで立ち、カイは透明な隔壁の向こう側へ移されている。
すぐ近くにいるのに、触れられない。
それだけで、また胸がざわついた。
「登録技能を確認します」
監査官が数値板を見る。
「火属性初級技能《火花》。現在等級G、技能レベル三。基準は拳大の一点火炎を三呼吸維持」
拳大、三呼吸という基準が測定円の縁に赤く表示された。ミナは逸る火種を指の腹で消し、その枠内で始める合図へ頷く。
「はい」
ミナは測定円の中央へ立った。
両手を胸の前で重ねる。
《火花》は、攻撃用というほど強い術ではない。暗い場所を照らしたり、湿った薪へ火を移したりするための初級技能だ。
それでも、ミナにとっては何度も練習して身につけた大切な力だった。
指先へ魔力を集める。
熱が生まれる。
小さな赤い光が灯り、ゆっくり拳ほどの大きさへ膨らんだ。
「維持を開始してください」
監査官の合図が出る。
ミナは息を吸った。
一呼吸。
火花の輪郭が安定する。
二呼吸。
少し揺れたが、まだ保てている。
三呼吸。
基準は達成した。
そこで終えればよかった。
だが、隔壁の向こうにカイがいる。
一億年修行し、S級二種・A級五種の技能を保存し、それでも現世の身体に合わせて百回も木剣を振ったカイが見ている。
自分も成長したところを見せたい。
十二分の間、ただ泣いて待っていただけではないと伝えたい。
もっと大きく。
もっと明るく。
ミナが魔力を押し込むと、拳大だった火花が一気に頭ほどの大きさへ膨らんだ。
監査官が顔を上げる。
「規定範囲を超えています。縮小してください」
分かっている。
縮めなければならない。
けれど、膨らませることより、縮めることのほうが難しい。
焦りで呼吸が浅くなる。
大きくなった火花の表面が波打ち、中心が暗くへこんだ。
「ミナ、息を吐け」
レイガの声が飛ぶ。
吐こうとした瞬間、火花が音もなく消えた。
熱だけが指先に残る。
測定円の上に、赤い火の粉が二、三粒落ち、それもすぐ消えた。
「……失敗」
ミナは呟いた。
監査官は数値板へ記録する。
「基準三呼吸は達成。四呼吸目、意図的な出力増加によって形状崩壊。技能等級とレベルは据え置きとします」
当然の判定だった。
それでも、胸の奥で何かが切れた。
「もう一回! 今のまま失敗で終わるの、やだ」
再試行を求める指先には、崩れた火の赤みがまだ残っていた。監査官はその熱と乱れた呼吸を見て、規定の休止時間を告げる。
「連続測定は負荷を考慮し、十分後に――」
十分という数字を聞いた途端、ミナは測定円から出る足を止めた。動ける証拠に両手を開き、火傷のない掌を見せる。
「今できます。悔しいけど、まだ動けます!」
ミナの「まだ動ける」という声は、四呼吸目を壊した悔しさで上ずっていた。監査官は身体の余力ではなく、その焦りを再試行不可の理由にする。
「焦燥状態での再試行は認めません」
監査官の声は冷静だった。
責められているわけではない。
なのに、ミナには自分だけが取り残されたと告げられたように聞こえた。
「ミナ」
隔壁の向こうから、カイが呼んだ。
その声まで落ち着いている。
ミナは振り返った。
カイは椅子から立っていた。木剣百振りの疲れが残っているのか、右腕を少し下げている。それでも表情には余裕があった。
「最初の三呼吸は安定してた」
慰めようとしている。
そのことが分かったから、余計に腹が立った。
「カイはいいよね」
口から出た言葉に、自分で驚いた。
カイの目がわずかに見開かれる。
「一億年も修行したんでしょ。何でも分かるんでしょ。私が失敗した理由も、どう直せばいいかも」
何でも分かると責められ、カイの疲れた右腕が椅子の脇でさらに下がった。答えを教える側へ逃げず、見えた三呼吸と一緒に試したい意思だけを返す。
「俺には、最初の三呼吸までは崩れてないように見えた。直し方は……ミナと一緒に試したい」
カイの「一緒に」という語にも、監査席で見せた静けさは崩れなかった。ミナには、その落ち着きこそが遠くなった証拠に見えた。
「じゃあ、その落ち着いた顔やめてよ」
診察室が静まり返った。
レイガも監査官も口を挟まなかった。
ミナの目に涙がにじむ。
止めようとしたが、もう無理だった。
「十二分前まで、カイは私より怖がってたじゃない。帰還門が開いたとき、手も震えてた。なのに帰ってきたら、全部一人で分かってるみたいな顔して、先生や監査官に何を言われても平気そうで」
帰還門で震えていた手を指摘され、カイは右手を見下ろした。今も木剣百振りの疲れで揺れているのに、隠す癖だけが先に動く。
「平気では――」
否定しかけた一言が、また気持ちを後回しにする音に聞こえた。ミナの涙が頬を越え、求めている答えを真正面からぶつける。
「だったら、そう言ってよ!」
声が診察室の白い壁へ響いた。
ミナは両手で涙を拭った。拭っても、次々にあふれてくる。
「強くなった話より、怖かったか聞きたい」
カイが黙る。
ミナは言葉を止められなかった。
「七界でどんな剣を覚えたとか、どれだけ強い敵に勝ったとか、そんなの今はどうでもいい。帰れなくて怖かったのか、一人で寂しかったのか、私たちのことを忘れそうになったのか、それを聞きたいの」
怒っている。
心配している。
寂しかった。
帰ってきてくれて嬉しかった。
その全部が混ざり、声が震えた。
「私は、カイが強くなったことを喜ばなきゃいけないと思った。でも、今のカイを見てると、もう私たちがいなくても平気になったみたいで……喜べない」
最後の言葉は、ほとんど声にならなかった。
言ってしまった。
一億年を耐えて帰ってきた相手に、自分が置いていかれたなどと訴えてしまった。
嫌われるかもしれない。
呆れられるかもしれない。
ミナは床へ視線を落とした。
隔壁の解除音がした。
監査官が操作したのか、レイガが許可を出したのかは分からない。
ゆっくりした足音が近づいてくる。
ミナの前で止まった。
カイの靴だった。
「怖かった」
静かな声が落ちてくる。
ミナは顔を上げた。
カイは笑っていなかった。
落ち着いた表情でもなかった。
眉が少し下がり、唇に力が入っている。帰還門へ呑まれる前の、怯えを隠そうとしていた顔に近かった。
「最初は、すぐ戻れると思ってた」
カイは言った。
「一日経って、まだ帰れなくて。一年経っても門は開かなかった。百年を越えた頃から、現世でどれくらい時間が経ったのか考えるのが怖くなった」
ミナは息を止めた。
「千年経ったとき、皆がもういないかもしれないと思った。名前を忘れないように、何度も口にした。ミナも、セレスも、リゼットも、ガロウも、先生も」
カイの声が一度途切れる。
「それでも時間が長すぎて、声や顔が曖昧になった。思い出せなくなるたびに、自分が先に現世を捨ててるみたいで怖かった」
ミナの胸が痛んだ。
カイは一億年を耐えた王などではなかった。
帰れない場所で、忘れたくない名前を何度も呼んでいた。
「帰れないと思った」
カイがはっきりと言う。
「本当に、怖かった」
ミナの目から、また涙がこぼれた。
今度は怒りではなかった。
「……なんで最初からそう言わないの」
怖かったと認めた直後なのに、カイは説明の入口でまた立ち止まった。その不器用さが十二分前の彼と重なり、ミナの怒りが少しだけほどける。
「どう言えばいいか分からなかった」
話し方が分からないという返答に、ミナは濡れた睫毛のまま首を傾けた。一億年という長さと目の前の不器用さが、どうしても釣り合わない。
「一億年も生きたのに?」
皮肉を向けられたカイの口元が、ほんの少し困った形になった。強者の仮面ではない、昔から知る顔で答えを探している。
「一億年生きても、話し方まで上手くなるわけじゃなかった」
少しだけ困ったように言うカイを見て、ミナは鼻をすすった。
それは知っているカイの顔だった。
強くなっても、すべてが別人になったわけではない。
ミナは袖で頬を拭い、測定円へ戻った。
「もう一回やる」
監査官が数値板を見る。
「十分の休止時間を推奨します」
推奨された十分に対し、ミナは涙を拭ったあとの呼吸を四つ数えてみせた。さっきの上ずりがないことを、自分の声で監査官へ差し出す。
「今なら、さっきより焦ってません」
監査官は脈拍表示と、まだ赤いままの感情判定欄を見比べた。本人の「焦っていない」だけでは再開条件を満たせない。
「自己申告だけでは判断できません」
再開を退ける言葉に、カイは測定円へ入らず、その外側でミナと並べる位置を選んだ。技能を足さずに支える案なら残っている。
「俺が補助します」
カイが言った。
ミナは振り返る。
監査官の視線が鋭くなった。
「夜凪カイの技能使用は禁止されています」
禁止を示す赤線がカイの足元へ走った。彼は線の外で両手を開き、魔力を使わない補助だと監査官に見える形で答える。
「技能は使いません。呼吸を合わせるだけです」
呼吸だけという提案を受け、監査官はカイと測定円の距離を確認した。介入の分類を決めるため、それが指導に当たるかを問う。
「指導行為ですか」
カイはミナを見た。
その視線に、先ほどまでの遠さはなかった。
「指導じゃない。ミナの数え方に、俺が合わせる」
ミナは意味を測りかねた。
「私の数え方?」
カイは監査官の計時板ではなく、四呼吸目に乱れたミナの肩を見た。号令に急かされた速さではなく、彼女自身の拍を知ろうとする。
「さっき、監査官の合図に合わせようとして呼吸が少し速くなってた。普段はどう数えてる?」
問われて初めて、ミナは秒ではなく幼い頃からの数え声で火を保っていたと気づいた。難しい術式名の代わりに、馴染んだ三つの言葉を口にする。
「普段は……頭の中で、ひとつ、ふたつ、みっつって」
カイは「ひとつ、ふたつ、みっつ」の間隔を、頷きでそのまま写した。直す箇所を足さず、その拍を次の試行の基準に選ぶ。
「じゃあ、それでやろう」
カイは答えを教えなかった。
息を何秒吸うべきかも、魔力をどこで絞るべきかも言わない。
ただ、ミナの正面から少し外れた場所へ立った。
「ミナが先に呼吸して。俺は後から合わせる」
先に呼吸しろと言われ、ミナは一歩離れて立つカイを見た。一億年修行した側が後から合わせる順序に、思わず疑問が出る。
「逆じゃないの?」
逆ではないのかと問われても、カイは測定円の中心へ入らなかった。主導権を自分へ戻さない理由を、《火花》の持ち主の名で示す。
「俺の呼吸へ合わせたら、またミナの《火花》じゃなくなる」
その言葉に、胸の奥の固さが少しほどけた。
ミナは測定円の中央で両手を重ねる。
カイは一歩離れた場所に立ち、肩の力を抜いた。
監査官が再測定を許可する。
「規定は拳大一点。無理な拡大を行わないこと」
拳大一点の表示を見て、ミナは両手の間隔をさっきより狭くした。大きさではなく四つ目の呼吸を守る試行だと、短く応じる。
「はい」
ミナは目を閉じた。
自分の速さで息を吸う。
カイが少し遅れて、同じ長さで吸った。
自分が吐く。
カイも吐く。
教えられている感じはしなかった。
隣に座った誰かが、自分の歩幅を急かさず待ってくれているようだった。
ミナは指先へ魔力を集める。
小さな赤い点が灯った。
焦らず、拳大まで広げる。
ひとつ。
火花が安定する。
ふたつ。
カイの呼吸が聞こえる。
みっつ。
さきほど失敗した地点。
大きくしない。
誰かに見せるためではなく、自分が保てる形を守る。
よっつ。
火花は消えなかった。
拳大の輪郭を保ったまま、静かに燃えている。
監査官の数値板が更新された。
《火花》――G/Lv.4。
安定維持――四呼吸。
「できた……」
ミナが呟く。
喜んだ拍子に呼吸が崩れ、火花が少し揺れた。
だが、すぐには消えなかった。
ゆっくり息を吐き、ミナは自分の意思で火を閉じる。
赤い光が小さくなり、最後には指先の一点へ戻って消えた。
「技能レベルの上昇を確認」
監査官が記録する。
「出力拡大ではなく、基準形状の維持時間延長。G/レベル四。四呼吸の安定維持を認定します」
ミナはカイを見た。
「今の、カイが何かした?」
自分が何かしたのかと問われ、カイは測定円の外に置いた両手を見せた。残っているのは、ミナと揃えた呼吸だけだった。
「呼吸を合わせただけ」
呼吸だけという答えを確かめるように、ミナはカイの指先と無反応の魔力計を交互に見た。次に疑うべきは、見えない魔力の介入だった。
「魔力は?」
魔力の有無を問われ、カイは反応ゼロの補助計をミナ側へ向けた。触れていない事実を、言葉だけに預けず示す。
「触ってない」
ミナは「触ってない」と聞いても、四呼吸目まで安定した結果が信じ難かった。自分の名で更新されたレベル四を見上げ、もう一度だけ確かめる。
「本当に?」
カイは記録板の四本の呼吸線を一本ずつ指した。どの線にも補助魔力はなく、最後の停止までミナ自身の波形だった。
「本当。ミナが自分で四つ数えた」
嬉しかった。
技が成長したことも嬉しい。
けれど、それ以上に、カイが自分の前へ出ず、後ろから押しもせず、隣で同じ呼吸をしてくれたことが嬉しかった。
一億年分の正しい方法を教え込むのではなく、ミナが昔から使っていた数え方を選んでくれた。
カイは遠い場所へ行った。
それは変わらない。
自分には想像できないほど長い時間を生き、知らない技と記憶を抱えて戻ってきた。
それでも、戻ってきたあとに誰と歩くかは、今から選べる。
ミナはそう思えた。
「次からは、最初に怖かったって言って」
最初に怖さを言えと求められ、カイの視線が一度だけ診察室の扉へ逃げた。それでも遠い記憶へ隠れず、ミナの前で返事を作る。
「努力する」
ミナには「努力する」では、また言えないまま終わる余地が残る。頬から笑みを消し、求めた行動を動詞一つに絞り直した。
「努力じゃなくて言うの」
逃げ道を塞がれたカイは、七界の言い回しを探すのをやめた。約束の前に必要な一語を、今度は濁さず返す。
「……言う」
ようやく出た「言う」を、ミナは曖昧な相槌のまま通さなかった。涙の跡が残る顔を近づけ、約束の強さまで問い詰める。
「絶対?」
カイは「絶対」と重ねられ、ミナの赤くなった目を見返した。帰還直後の約束を今度こそ自分の意思で結び直す。
「約束する」
今度の約束には、さっきより少しだけ実感があった。
診察室の扉が開く。
記録板を抱えたセレスが入ってきた。銀髪は整えられていたが、顔色は白く、歩みも普段より速い。
「レイガ先生。監査官。確認していただきたい箇所があります」
彼女は挨拶も短く、数値板を操作した。
帰還門の観測記録が空中へ表示される。
十二分間の時間軸。その中央付近に、細い黒い区間があった。
監査官が尋ねる。
「記録破損ですか」
破損を問われ、セレスは黒い十二秒の前後へ緑の整合印を点灯させた。壊れた記録なら生じるはずの断裂がないことから否定する。
「いいえ。前後の整合性は保たれています。機器の故障記録もありません」
セレスは黒い区間を拡大した。
開始時刻と終了時刻が表示される。
差は、十二秒。
「夜凪君の帰還記録に、十二秒の空白があります」
ミナは隣に立つカイを見た。
カイの表情から、わずかに温度が消えた。
「その十二秒間だけ、帰還門も地下機関室も、記録上は存在していません。黒帳院の連続性基準では、欠落そのものより、欠落の前後が正しく接続している点が異常です」
【主人公ステータス】
対象:夜凪カイ
種族:七紋人
個体ランク:D
レベル:Lv.3
HP:134/138(ランクD)
魔力:106/112(ランクD)
攻撃:48(ランクD)
防御:41(ランクD)
速度:55(ランクD)
技能:基本剣術(ランクD・Lv.1)/黒影歩(ランクD・Lv.1)
状態:帰還後の測定段階。無位・未登録だが、通常安全出力D・条件付き上限Bで運用する。




