第24話 記録にない十二秒
医療塔の記録室は、本来なら患者一人分の経過を静かに確認するための場所だった。
だが今、白い壁のほとんどが発光する記録面へ切り替えられ、地下封印機関室で起きた事象が隙間なく並べられていた。
正面には、機関室の床と壁が拾った振動記録。
右側には、教師レイガと救護員が提出した報告書。
左側には、ミナ、リゼット、ガロウ、そしてセレス自身の証言記録。
三種類の資料はそれぞれ異なる形式で残されている。振動記録は一呼吸より短い間隔で波形を刻み、教師報告は発生順に行動を記し、生徒証言は記憶に基づく言葉で構成されていた。
セレスは壁面中央に立ち、銀色の記録杖を握っていた。
十二分間の出来事は、ほぼ一致している。
帰還門の発生。
夜凪カイの消失。
〈テオクラスト〉の装置による封印機関への干渉。
床の振動増大。
ガロウの右肩負傷。
カイの再出現。
七重封印の閉鎖と、石梁の崩落。
問題は、その途中にある十二秒だった。
振動記録では、波形そのものが消えている。
小さくなったのでも、記録限界を下回ったのでもない。時刻表示だけが進み、その間に存在するはずの床の振動、装置の駆動音、人間の足音が一つも残っていなかった。
教師報告では、その十二秒間にもレイガは負傷者を退避させている。
生徒証言でも、ミナはガロウへ駆け寄り、リゼットは崩れた制御盤から離れ、セレス自身は帰還門の数値を読み続けていた。
三つの資料のうち、二つは時間が続いている。
一つだけが、完全に途切れていた。
「改竄なら、切り方が不自然です」
セレスは誰に聞かせるでもなく呟き、振動記録を拡大した。
意図的に記録を消したなら、通常は前後を滑らかにつなぐ。欠落が発見されないよう、直前の波形を複製するか、周辺の平均値で埋めるはずだ。
今回は違う。
十二秒分だけ、空白が露出している。
しかし、装置の欠落と断定することもできなかった。
振動記録を担当した術式盤には、故障も魔力切れも記録されていない。記録媒体は正常に回転し、時刻術式も止まっていなかった。
正常な装置が、正常に動いたまま、存在したはずの情報だけを拾っていない。
セレスは唇を結んだ。
分からない。
その言葉を認めることが、ひどく難しかった。
記録官系統の術式を学ぶ者として、三資料も揃っているのに結論を出せないことが恥ずかしかった。夜凪カイの帰還という重大事象に、自分の技能が追いついていない。
焦りを抑え、記録杖を壁へ向ける。
「《術式記録》、三面比較」
杖先から細い光が伸び、振動記録、教師報告、生徒証言をつないだ。
セレスの技能は、異なる形式の記録から共通する時刻と事象を拾い、重ねて表示する。戦闘には向かないが、術式事故や証言の食い違いを調べる際には有用だった。
壁面に三層の時間軸が浮かぶ。
セレスは十二秒の直前へ意識を集中した。
帰還門の光量が一度低下している。
同時刻、封印機関の第五星導線が逆流。
レイガの報告には、空気の圧力が一瞬変化したとある。
共通点を拾い、因果関係を組み立てる。
星導線の逆流によって観測術式が遮断され、振動記録だけが欠落した。
セレスの中で答えが形になった。
「原因を特定しました」
声にした瞬間、壁面が赤く染まった。
《術式記録》が、推定した因果を警告表示へ変換する。
――第五星導線の逆流による記録遮断。
――再発危険あり。
――封印機関の即時停止を推奨。
記録室の警報が鳴った。
セレスの背中に冷たい汗が流れる。
隣室で待機していた職員が扉へ駆け寄る気配がした。
だが、壁に表示された赤い推定文の端で、小さな不一致記号が点滅している。
第五星導線が逆流したのは、欠落開始から二秒後だった。
原因だと断定した現象が、結果より後に起きている。
「違う……」
セレスは息を呑んだ。
自分は、共通する情報を見つけたのではない。
結論を急ぎ、都合のよい記録を選んだ。
警報を止めようと記録杖を動かしたとき、部屋の中央に淡い星明かりが灯った。
光の中から、一本の杖が先に現れた。
細身の星の杖だった。先端には幾重もの環が重なり、その中心で小さな光点がゆっくり回っている。
杖を軸に、女性の輪郭が描かれていく。
肩、腕、長い衣、細い腰。
続いて現れた白銀の髪は、光を受けているのではなく、それ自体が薄く透けていた。背後の記録文字が髪越しに見え、動くたびに星の粒が遅れて流れる。
足元まで輪郭が整っても、床には影が落ちなかった。
白い床の発光線も、投影の足を避けることなく通り抜けている。
女性が片手を上げ、赤い警告文へ指を伸ばした。
指先は壁面に触れなかった。
正確には、触れたように見えた直後、そのまま光の板を通り抜けた。警告表示も揺れず、壁面に接触反応は一つも生まれない。
セレスの指から、記録杖が滑りかけた。
七界の星導、アステリア。
カイが口にしていた存在と、目の前の投影が同じである保証はまだない。それでも、透明な白銀髪と星の杖から伝わる静かな威圧感に、セレスの胸は強く締めつけられた。
膝が無意識に曲がりそうになる。
礼を取るべきなのか、警戒すべきなのか判断できない。呼吸が浅くなり、指先の感覚が薄れる。
美しいからではない。
人の姿をしていながら、目の前の存在が現世の物理から完全に外れていることが怖かった。
女性の星仮面が、わずかにセレスへ向いた。
「警告を解除してください」
声は静かだった。
大きくないのに、記録室のどこからでも同じ距離で聞こえる。
セレスは反射的に記録杖を握り直した。
「あなたは……アステリアですか」
アステリアは仮面の縁へ指を添え、その呼称へ応じるまで一拍だけ置いた。
「現世に投影可能な範囲では、その呼称に応答します」
断定を避ける答えだった。
それがかえって、セレスには誠実に感じられた。
扉が開き、レイガとカイが記録室へ入ってくる。
カイは治療衣の上から外套を羽織り、右手に訓練用の木剣を持っていた。隔離中の移動であるため、レイガがすぐ横についている。
カイは投影された女性を見ると、一瞬だけ足を止めた。
驚きはした。
だが、崇拝するような態度も、無条件に頼るような様子も見せなかった。
「アステリア」
仮面の奥から返った声は、七界で別れたときと同じ抑揚だった。カイの喉に、一億年ぶんの呼びかけが詰まる。
「久しいですね、夜凪カイ」
カイには「久しい」の長さが、アステリアとの間でだけ重かった。現世側のセレスにも届く尺度へ戻すため、十二分を口にする。
「現世では十二分だった」
星の杖から二本の時系列が伸びたが、片方は十二分、もう片方は目盛りの外へ消えた。アステリアは重ねられない線を前に、観測上の限界を告げる。
「私の観測基準では、双方の時間を同じ単位で扱えません」
カイは短く頷いた。
「七界で会ったアステリアと同じ存在だと思っていい?」
アステリアは星図の一点を指先で示し、観測投影の位置へ仮面を向けた。
「記録と意思の連続性は保持しています。ただし、この姿は観測投影です。七界における私の権限も能力も、そのまま現世へ持ち込めません」
セレスは問いを挟んだ。
「何が可能なのですか」
アステリアは星の杖を横へ向けた。
杖先の環が回り、壁面に一つの光点が生まれる。
「観測」
光点が十二秒の空白直前へ固定された。
次に、別の光点が欠落後へ現れる。
「記録」
二つの点の時刻、振動値、星導線の状態が、アステリア自身の視界から転写される。
最後に、二点を細い線がつないだ。
「経路提示」
線は空白を埋めなかった。
欠落区間を避け、記録が確実に存在する直前と直後だけを結んでいる。
「可能性は三つです。私が観測できる地点を示す。その内容を記録する。地点同士の関係を経路として提示する。選択は、必要な精度と時間で変わります」
アステリアは一拍置き、星の杖を出口へ向けた。
「なお、経路提示には道案内も含まれます。迷子の可能性を下げられます」
アステリアの補足にセレスの筆が止まり、道案内を別項へ記す余白が空いた。
「今、その補足は必要ですか」
アステリアは杖先で唯一の扉まで直線を引き、分岐がないことを示した。自分で付け足した道案内の効用を、現在地に限って低いと判定する。
「記録室からの退出経路は一つです。したがって、必要性は低いです」
真顔で訂正され、セレスは返答に一呼吸遅れた。カイには、七界でも変わらなかった字義どおりの冗談だと分かった。
「空白の中は見えないのですか」
セレスが黒い十二秒を指すと、星図のその区間だけ光点が途絶えた。アステリアの仮面も空白へ向いたまま、像を結ばない。
「現在の投影では観測できません」
観測不能と書いた直後、セレスは原因欄を空けたまま筆を止めた。見えないことと理由が分からないことを分けるため、問いをもう一段絞る。
「原因の特定は」
星図には原因候補を示す枝さえ現れなかった。アステリアは空欄を推測で埋めず、短い否定だけを置く。
「できません」
即答だった。
セレスは思わずアステリアの透けた手を見る。
「では、封印機関を止めることは」
封印機関へ向けた杖先は、装置の外郭をなぞるだけで内部へ届かなかった。観測投影から停止術式へ接続する線は一本も生じない。
「できません」
停止不可に印をつけたセレスは、非常時の戦闘欄へ筆を移した。装置を止められなくても敵を排除できるか、次の可能性を切り分ける。
「敵が現れた場合、攻撃は」
アステリアが標的像へ杖を向けても、星光はその表面を記録するだけだった。攻撃へ変わる熱も圧力も生まれない。
「不可能です」
攻撃不可の欄を閉じ、セレスは崩落区画に人型の赤印を置いた。戦えなくても救助へ寄与できるかを確かめるためだ。
「人が崩落に巻き込まれた場合は」
アステリアの投影した手が赤い人型を通り抜け、紙面の上へ影すら落とさなかった。触れられない身体では、瓦礫も負傷者も持ち上げられない。
「触れられないため、物理的な救助は行えません」
アステリアは巻いた星図を半ば開き、物理救助に当たる領域を指で覆った。
「空間を開き、退路を作ることも?」
アステリアは仮面越しに顔を傾け、空間操作を示す星紋から指を離した。
「現世投影には空間操作権限がありません」
万能ではない。
アステリアは現れただけで謎を解く救済者ではなく、観測できる範囲を増やす存在にすぎない。
カイも、その制約を当然のように受け止めていた。
「七界でも、アステリアがすべて答えを知っていたわけじゃない」
カイがセレスへ言った。
「見えるものは多い。でも、見えないものを見えたとは言わない」
責める言い方ではなかった。
それでもセレスの胸が痛んだ。
自分は、見えていない原因を見えたことにした。
記録官として最も避けるべき誤りだった。
壁の赤い警告文が、羞恥を突きつけるように明滅している。
職員たちは扉の外で待機し、レイガも何も言わない。取り消すなら、自分で行わなければならない。
セレスは記録杖を持ち上げた。
「推定原因を撤回します」
声が震えた。
一度、息を吸う。
「第五星導線の逆流は、十二秒の欠落開始後に発生しています。欠落原因とする根拠は成立しません」
警告文の一部が消える。
まだ中央に、原因入力欄が残っていた。
セレスは杖先を向ける。
「原因――不明。黒帳院へ提出するなら、推定を事実欄へ混ぜないでください」
口にした瞬間、頬が熱くなった。
だが、今度は目を逸らさなかった。
「確認できた事実は、振動記録に十二秒の空白が存在すること。教師報告および生徒証言では、その間も地下機関室内の行動が継続していたこと。装置故障、外部改竄、空間異常のいずれも、現時点では確定できません」
赤い警告が消えた。
代わりに、白い文字で新しい記録が残る。
――原因不明。
――十二秒の記録欠落のみ確認。
《術式記録》の光が一度収束し、再び三資料へ伸びた。
今度は原因を結びつけようとしない。
一致する事実と、食い違う箇所を分けて表示する。分からない部分は空白のまま保つ。
記録杖の環が一段増えた。
セレス自身の技能表示が更新される。
《術式記録》――F/Lv.2。
断定精度が上がったのではない。
断定してはならない範囲を、記録として保持できるようになった。
アステリアの星の杖にも変化が起きた。
これまで一つだった光点が、二つ同時に安定する。投影の白銀髪がわずかに濃くなり、輪郭の揺れも小さくなった。
観測投影――F/Lv.2。
同時観測点――一から二。
「投影の安定を確認しました」
アステリアが言う。
「ただし、二点間には誤差があります。現世時刻で、およそ八分の一呼吸」
セレスは二つの光点を見る。
肉眼では同時に灯ったように見える。だが、《術式記録》を通すと、後方の点がわずかに遅れていた。
カイが木剣を持ち上げた。
レイガが眉を寄せる。
「何をする」
レイガは出口とカイの剣幅を見比べ、退避線を塞がない位置へ半歩引いた。
「投影誤差を確かめます。基本の一振りだけです」
基本の一振りと聞いても、レイガの手はカイの木剣から離れなかった。投影誤差を測る名目が特殊技能へ広がらないよう、条件を固定する。
「特殊技能は禁止だ」
禁止を受け、カイは《天断》へつながる握りをほどいた。学園で習った基本形へ親指を置き直してから答える。
「使いません」
アステリアは二つの観測点を、カイの正面と剣先の停止位置へ配置した。
「第一点を実位置、第二点を投影記録位置とします」
カイは短い現世型の構えを取る。
木剣を振り下ろした。
最初の停止では、剣先が第二点をわずかに通過した。見えている投影へ合わせたため、実際の停止位置との間に誤差が出たのだ。
カイは剣を戻す。
「もう一度」
八分の一呼吸ぶん遅れた観測点を見て、カイの足が二振り目の間合いへ動いた。レイガは疲労の残る腕と最初の条件を同時に思い出させる。
「一振りだけと言ったぞ」
レイガの声が低くなる。
カイは木剣を下げた。
「では、振らずに合わせます」
今度は構えからゆっくり剣先を動かした。
第一点と第二点のずれを目で追い、投影が届く前に手首と肘の力を抜く。剣先は光点の手前で止まり、遅れて現れた第二点と重なった。
速さも威力もない。
ただ、誤差を理解して止めただけだった。
それでも数値板が更新される。
基本剣術――G/Lv.10。
投影・観測誤差に対する停止微調整――可能。
セレスは、その小さな動作を見つめた。
カイはアステリアの観測を絶対視しなかった。表示された位置と実際の位置に差があるなら、その差を受け入れ、自分の剣を調整した。
セレスも同じことをしなければならない。
記録があるから正しいのではない。
記録には、拾えないものも、遅れるものも、欠けるものもある。
だからこそ、不明を不明のまま残す必要がある。
壁面の端で、新しい照合通知が点滅した。
セレスは記録杖を向ける。
十二秒の空白を示す波形と、学園内の過去記録が自動比較されていた。
一件だけ、同じ周期の断絶が検出されている。
場所を示す文字を見た瞬間、セレスの背筋が冷えた。
「レイガ先生」
声が固くなる。
「同一周期の記録欠落が、別の場所にもあります」
レイガが壁面を見る。
「どこだ」
セレスは表示された区画名を読み上げた。
「地下訓練場の封鎖壁です」
誰も使用していないはずの地下区画。
立入禁止の封鎖壁から、帰還記録と同じ十二秒周期の空白が検出されていた。
【主人公ステータス】
対象:夜凪カイ
種族:七紋人
個体ランク:D
レベル:Lv.4
HP:132/138(ランクD)
魔力:103/112(ランクD)
攻撃:48(ランクD)
防御:41(ランクD)
速度:55(ランクD)
技能:基本剣術(ランクD・Lv.1)/黒影歩(ランクD・Lv.1)
状態:帰還後の測定段階。無位・未登録だが、通常安全出力D・条件付き上限Bで運用する。




